近世国学の祖といわれる契沖は、延宝7年(1679)から元禄3年(1690)までの11年間、妙法寺住職をし、国学の勉強に尽力しました。
契沖の父は尼カ崎領主青山大蔵小輔幸真に250石で仕えた下川善兵衛元金でその第三子として寛永17年(1640)に尼ヶ崎に生まれました。
11才のときに出家して妙法寺に入り、高野山で修業した後、40歳のとき妙法寺の住職となってから本格的に国学研究の学問に専念しました。
徳川光圀公の委嘱により、有名な「万葉代匠記(まんようだいしょうき)」20巻やその他多くの著作を完成させました。
はじめ下河辺長流が筆を進めていましたが、病気のため契沖が代わりました。”代匠記”と名付けたのは、師の長流に代わって著述したところからきています。
「万葉代匠記」が成って徳川光圀公から報償金と三足の香炉が贈られました。
元禄3年に慈母が当寺で死去されたのを機に、現天王寺区飼差町の円殊庵(えんじゅあん)(現在の天王寺区空清町)にこもって学問に専念し、その講義や学風は、後の賀茂真淵(かものまぶち)や本居宣長(もとおりのりなが)らにひきつがれています。
昭和24年に妙法寺境内は、僧契沖遺跡として大阪府顕彰史跡に指定されています。
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