「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

救民に決起した思想と行動 大塩平八郎2

2010-02-16 21:36:40 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人 第十回(『祖国と青年』22年1月号掲載)

救民に決起した思想と行動 大塩平八郎2

「万物一体の仁」に身を捧げた維新前三十年の義挙

 天保元年(一八三〇)に奉行所を退いた大塩中斎は、蹶起迄の七年、自らの行動哲学を本物とすべく、学者としての時を刻んで行った。大塩は『洗心洞箚記』上の巻末に、支那の明代・清代の陽明学者の生き様について長文を認めている。取り上げたのは五十二人の陽明学実践者と「東林党」である。「良知」の叫びに従って生きる彼らは、不義に抗して節を貫いて投獄されたり、明の滅亡に際して女真族との戦いに身を擲って亡くなっている。正に「殺身成仁」列伝の感がある。その条の末尾に大塩はこう記している。

●学者良知の固有を恃むべからず。而て実に之を致すの功を日用応酬、書を読み武を講ずる凡百瑣屑に至るの事に用ゆれば、則ち道徳功業必ず古人に逮ばん。否らざれば則ち万巻を看破すと雖も、游談無根に帰せんのみ。亦た何の君父に益することかこれあらん。(学問に志す者は、良知を固有しているからと安住するのではなく、良知を致す工夫を日常の対応や読書・練武、凡ゆる些事に至るまで実践する事によってのみ、道徳や功業など昔の人に追い付く事が出来よう。そうでなければ、万巻の書を読んだとしても遊び事に外ならず、主君や親の為には全く役立たない。)
 
 大塩が言う「学者」とは、倫理道徳の実践者に他ならなかった。それ故、学べば学ぶ程「聖人」に近づいて行くのでなければ、学び、書を繙く意味は皆無なのである。

   帰太虚に伴う「万物一体の仁」
    
 ここで、大塩哲学のキーワードとも言うべき「帰太虚」について、『洗心洞箚記』の言葉を基に深めていきたい。

●天は特に上に在る蒼蒼たる太虚のみならざるなり。石間の虚、竹中の虚と雖も、亦た天なり。況や老子の云ふ所の谷神をや。谷神は人心なり。故に人心の妙天と同じ。聖人に於て験すべし。常人は則ち虚を失ふ、焉んぞ之を語るに足らんや。(天とは、空に広がっている一大空間=太虚だけを言うのではない。竹や石の中の空間=虚も天に繋がっている。ましてや老子に言う「谷神」、即ち人の心が天に繋がっていないはずがない。それは立派な心を持った「聖人」に於いて検証する事が出来る。一般の凡人は心に「虚」を失っているので、天との繋がりが絶たれているのである。)

●聖人は即ち言ふことあるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり。(最高の徳を身につけた聖人は言葉を話す「太虚」であり、太虚は、何も話さない「聖人」である。)

●太虚は世界を容れ、世界は太虚に容れられる。而て物は千変万化するも、未だ嘗て太虚を障碍する能はず。則ち聖人の心量累無きこと、是に於てか見るべし。(太虚は世界を容れる程広大である。物は千変万化しても太虚を塞ぎ妨害する事は出来ない。太虚と同一の心を持っている聖人の心が如何に偉大かここに於いて解るであろう。)

かくて、太虚に帰した心には、「実理」(真理)が宿り、「不動」であり、「功名富貴」の「陥穽」(落とし穴)を避ける事が出来、「広大」「安楽」であり、「狭陋」(狭くて汚い)や「憂懼」(憂いや怖れ)は存在しない。大塩は『孝経講義』の中で「天地の心を以て(吾が)心とす」と述べている。

 この様にして求めた帰太虚の境地は、太虚に繋がっている万人の生命に対する共感を生み出した。それは程明道や王陽明が唱導した「万物一体の仁」に他ならなかった。

●心太虚に帰すれば、則ち太虚は乃ち心なり。然る後に当に道と学との崖際無きを知るべきなり。其れ人の嘉言善行は、則ち吾が心中の善にして、而して人の醜言悪行も、亦た吾が心中の悪なり。是の故に聖人は之を外視する能はざるなり。斉家・治国・平天下は、一として心中の善を存せざるは無く、一として心中の悪を去らざるは無し。(心が太虚に帰したならば、太虚がわが心になる。その境地を深めて行くには果ての無い道と学問が広がっている。他者の良き言葉や良き行いは私の心の中の善となり、他者の醜い言葉や悪い行いは私の心の中の悪となる。それ故、聖人は、他者の行いを切り捨て、自分とは関係ないと外視する事は出来ない。家を斉え、国を治め、天下を平らかにする政治の道は、全て自己の心の中に善を満たし、悪を切り離して行く事によってしか実現されないのである。)

●聖人は天地万物を以て一体と為し、其の人物を視ること猶ほ吾が首足腹背手臂の如し。故に人物の病痛は即ち我が病通なり。是れを以て吾が心の悪む所のものは、肯て一毫も人に施さず。是れ之を天地万物を以て一体と為すと謂ふなり。(聖人は、天地万物は一体であると考え、自分以外の人間も自分の一部であるかの如く暖かく見ている。それ故人の痛みも吾が痛みとして感じる事が出来る。そこで、自分が憎み嫌う様な事は決して人には施さない。この事を「天地万物を以て一体と為す」と言う。)

  大塩の義挙の時代的背景

 この様に思想哲学を深めて行く大塩に対し、天は、その真価を問うべく時代の試練を与えた。文政十一年(一八二八)には九州で大洪水が起る。天保元年(一八三〇)・三年・四年と天災による凶作飢饉が発生、天保七年になると、早春から異変が続き、七・八月には豪雨が襲った。大塩は漢詩の中で「忽ち思ふ城中菜色多きを(皆が飢餓で青白い顔をしている) 一身の温飽天に愧づ(我身の暖かな暮しが天に恥ずかしい)」と記し、「黙して繙く大学卒章の篇」と詠んだ。

『大学』には「小人をして国家を為めしむれば菑害並び至る。善き者有りと雖も之を如何ともするなし」と書いてある。大塩は窮民救済の策を施すべく、養子の格之助を通して奉行所に幾度も要請した。だが、東町奉行・跡部山城守良弼は聞くそぶりは見せるが真剣に対処しようとはしなかった。大坂は全国からの米の集積地である。近畿地方全体が飢饉に瀕しているにも拘らず、天子様が居られる京都にも米を回さず、困って他所から買いに来る人々を捕縛するという非情さだった。だが十一月に、幕府から江戸に米を廻す様に指示が来ると、畿内の窮民救済に使うべき米を転用する始末であった。

その結果、餓死者が続出し悪疫が流行した。大塩は奉行所の無策役人と大坂の悪徳商人を成敗する決意を固めて行く。大塩は『孟子』等に出てくる「視民如痛」(民を視る痛めるが如し)の四字について『箚記』の中でも述べているが、民の窮状に大塩の胸は張り裂けるばかりであった。大塩は門人を結束させて武装蜂起の準備に取り掛かる。

年が明けて二月、大塩は蔵書の総てを書林河内屋一党に売却し総額六百二十両を得て、その全てを一軒宛金一朱(一両の十六分の一)づつ施した。施行を受けた町村は三十三カ町村に及んでいる。更には、檄文を書き上げて村々に配布し、幕府の要人には建議書を送付した。そして、天保八年(一八三七)二月十九日、大塩一党は蹶起した。だが、門人の中から直前に奉行所に注進に及ぶ者が出た為、蹶起を半日早めざるを得ず、一部豪商の蔵を襲って開放したが、奉行所の軍勢に制圧されてしまう。大塩は戦火の中で逃れて潜伏し、建議書に対する幕府の措置を待ったが、遂に三月二十七日に発覚し、自決して四十五歳の生涯を終えた。二十七歳の養子格之助も一緒だった。

  天命を奉じて立つ・檄文に記された蹶起理由

大塩の蹶起理由は村々に配布した檄文の中に記されている。檄文は上書きに「天より下され候 村々小前のものに至る迄へ」と記され、末尾には「天命を奉じ天討を致し候。」と書かれている。大塩にとっての挙兵は「天」の命じる戦いであった。天災は為政者の不仁・不徳の齎す天の警鐘だった。当時儒学を学んだ者達は真剣にそう考えた。

●四海困窮いたし候はば、天禄永く断たん、小人に国家を治めしめば、災害並び至る(人々の困窮は天が命じた幕府政治の正当性を終焉させるであろう。他者の事を考えない役人が国家を治めているので災害が次々と起っている。)

●此節、米価弥高直に相成り、大坂の奉行並諸役人ども万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたす(「万物一体の仁」を忘れた役人共の横暴は許すまじき事である)

●蟄居の我等、最早堪忍成し難く、湯武の勢、孔孟の徳はなけれども、拠なく天下のためと存じ、血族の禍をおかし、此の度の有志のものと申し合はせ、下民を悩まし苦しめ候諸役人をまず誅罰いたし、引き続き驕に長じ居り候大坂市中金持の丁人どもを誅戮および申すべく候間、右の者ども、穴蔵に貯め置き候金銀等、諸の蔵屋敷内に隠し置き候俵米、それぞれ分散配当いたし遣り候(もはや我慢がならないので起ち上がり、人々を苦しめる役人共や驕れる商人共を誅罰して溜め込んだ財宝食糧を全て貧民達に分け与えよう)

●我等一同心中に天下国家を簒盗いたし候欲念より起こし候事には更無之(略)我等の所業終る処を爾等眼を開て看よ。(天下国家を奪い取る野心欲心など毛頭も無い。公明正大さは吾々の行動の終る所を目を開いて見ておれば解る。)

 学校では「大塩平八郎の乱」と教えているが、「乱」とは朝廷に弓を引く者達の事であり、大塩には当て嵌まらない。大塩は、檄文の中で「天子は足利家已来、別て御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひに付き、下民の怨、何方へ告愬とてつけ訴ふる方なき様に乱れ候」と天皇様のお立場を考慮し、更には「天子御在所の京都へは、廻米の世話も致さざるのみならず」と奉行所の天子様無視に憤っている。又、「中興神武帝御政道の通り、寛仁大度の取り扱ひにいたし遣り」「天照皇太神の時代に復しがたくとも、中興の気象にとて立ち戻り申すべく」と、目指す理想を神武天皇の御代に置いている。大塩は「天照皇太神」の幟旗を立てて戦った。

 かくて、大塩の義挙は終焉した。幕府は大塩を「狂人」扱いして道義的・人格的に貶めて沈静化を計り、知人や学者も累を怖れて冷淡に扱った。だが、大塩の義挙の精神は檄文を通して全国に広がり、民衆への確かな共感の広がりとなった。幕府が行う「不仁」の施策に対しては「大塩様が再び立たれるぞ」との民衆の声を生み、為政者は自ずと襟を正した。幕府の存在を道義的に問い直した大塩の義挙は、三十年後の幕府崩壊の前鐘とも言うべきものだった。
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