「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝㉖「広島幼年学校在学中に原爆でくなった沼田英一」

2021-04-09 19:25:08 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
広島幼年学校在学中に原爆で亡くなる
沼田 英一(ぬまた えいいち)S21卒
「小6時の習字で全国最高賞を受賞、級長を務め学力平均95点の秀才」
  
 沼田英一は、昭和5年2月熊本市新屋敷で生まれ済々黌に学んだ。

 昭和17年、沼田は、満州建国十周年を祝う少年対象の習字図画展で、白川国民学校六年時に応募した作品が、応募4万点の中から習字の最高賞に入選した。済々黌一年の沼田は、首相官邸で東條英機首相から直々に表彰されている。7月25日の熊本日日新聞には東條首相らとの記念写真、沼田の顔写真、入賞作品「養必勝之信念」(必勝の信念を養う)、「立派に御奉公を誓ひます。」との喜びの談話が掲載されてある。又、「英一君は九州、九日其の他の会で、約八十枚の賞状を貰っているばかりでなく、一般成績も白川国民学校でも中学済々黌でも学校始まって以来の秀才である。」と報道している。この栄誉で沼田は黌内でも広く知られた存在だったが、これをひけらかすこともなかった。級長を務め、1学期の平均点は95点の成績を納めていた。そして、一年生の秋に広島陸軍幼年学校に合格した。

 当時の済々黌には戦時下を反映して陸軍幼年学校を志願して入校する者が増えつつあった。陸軍幼年学校は将来の陸軍の将校を育てる為の学校であり、中学一年生の学力が必要で極めて難関で、中学一年生の秋と二年生の秋の二回入試挑戦の機会が与えられていた。嘗ての梅津美治郎や武藤章を始め済々黌一年時に合格して幼年学校に進んだ先輩は数多い。尚、『済々黌百年史』によれば、昭和20年4月の「幼年学校志望者」は、一年生が242名、二年生が116名(各学年6学級)と記されている。

 18年4月、沼田は広島市基町の広島幼年学校(47期)に入校した。同期には済々黌から4名、熊本県出身者が10名いた。

 20年、戦局の悪化に伴い、広島幼年学校は入校期別に郡部に疎開する事となったが、沼田はチフスの疑いで広島第二陸軍病院に入院していた。そして、8月6日を迎えた。病院は爆心地から一キロ程の位置にあった。沼田は庭に出ていて、背中に熱湯を浴びた様な衝撃を受けて倒れた。三日後に学校の救援隊に助け出された。終戦を経て、8月31日、友人に助けられながら汽車で熊本に向かい9月1日に帰省。沼田は衰弱が激しかった。そして、遂に9月14日、自宅で亡くなった。16年の短い生涯だった。

 沼田は熊本市中央区にある小峯墓地の沼田家の墓に祭られたが、沼田家では跡継ぎが死亡し、両親も他界する。平成6年、幼年学校の同期生達は墓前で50回忌法要を営み、翌年小峯墓地に建立された「原爆犠牲者の碑」に沼田を合祀した。

 広島の原爆によって殺された同窓生は、この列伝の二番目に紹介した当時の中国総監・大塚惟精(M35卒)を始め5名に及んでいる。九州薬学専門学校卒で文官として広島に赴任していた村上貞爾(T5卒)、國學院大學卒で陸軍学校国民義勇隊・広島第一中学校付添教師の森房人(T5卒)、第1航空教導師団司令部・陸軍軍曹の徳永潜(S14卒)、そして沼田である。

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