「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝⑳安田 優 「我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず」

2021-03-02 23:49:05 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
二・二六事件の青年将校 
安田  優(やすだ ゆたか)S5卒
「我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず」
  
 安田 優は、明治45年2月に天草郡宮地村(現・新和町)に生まれた。天草中学(済々黌中学の分校)に入学の後、三年次に済々黌に転校した。昭和5年に陸軍士官学校(第46期生)に入学、士官候補生として旭川の野砲兵第7聯隊付となる。この陸士在学中の区隊長が二・二六事件の中心的指導者の村中孝次元陸軍大尉だった。9年に卒業して第7師団の先発隊に加わって満州熱河省錦州に赴いた。その後、陸軍砲兵少尉に任官し、10年12月に陸軍砲工学校に入校した。

 在校中の11年2月、二・二六事件の蹶起に参加した。事件の時、安田少尉は内大臣斎藤実子爵邸と渡辺教育総監邸への襲撃を実行している。事件失敗後に収監され軍事裁判に付せられたが、獄中で精力的に手記を書き続け、第一次処刑者の中では最も多くの手記を残し、家族の面会時に秘かに渡している。7月5日に反乱罪(群衆指揮等)で死罪が言い渡され、7月12日に処刑された。享年25歳だった。

 処刑後の遺体引き渡しの折、遺族によってとられたデスマスクが残されてある。又、その墓は天草の宮地村に刑死後まもなく建てられた。当時軍当局の禁圧で個人名を記した墓は許されなかったが、安田少尉の墓だけは堂々と「安田優之墓」として遺言迄も彫り刻まれている。父、清五郎の執念の結晶だった。又、弟の善三郎は安田が残した数多くの手記類を『安田優資料』として平成十年に出版している。尚、二・二六事件では、済々黌卒業生から三名、河野大尉・安田少尉の他に清原康平少尉(無期禁固刑)、が蹶起に参加している。

【陸士一年生時代の日記(昭和5年)】
(済々黌での教育への誇りが力となっている事を記す。)
四月十八日 金 晴
 明治十九年五月二十一日、鎮西の一僻趣の地に二千に満たぬ一小学舎に、恩賜金下賜の御沙汰が突然宮内省より達せられたり。
之、吾が母黌が混沌たる世想に起越して剛健質朴の大旆を掲げ、猿芝居的の洋風学を斥けて純日本的なる大和魂に生きる教育を施し、以て国家有用の材たらんとする人材を養成するの趣は、遠く九天に達せられたるを以て也。されば、爾来四拾有七年が間此の方針を少しも変へず、沖禎介・若林大尉の如き義烈の士を出すこと、そも幾人ぞ。
吾今彼等が学びし黌内に学び、今や彼等が践みし跡を践まんとす。豈、吾が以て期す可き之事あらざる可けんや。彼等が行ひたる義は赫赫として輝を増し、彼等が尽したる忠節は晃晃として青史に載せられん。吾等能く彼等が跡をつぎて済済魂を発揚し、以て軍人精神に光を添へんとするの心なかる可からず。

五月二十一日 水 晴
 本日吾が母黌においては恩賜記念第四十八回を迎えて、盛大なる祝賀の演練会を催したるべし。
飜って惟ふに、明治初年洋学を崇拝する念極めて盛んにして敢えて古来の帝国の学を忽ちにせんとし、連綿たる武士道すら早や地に落ちんとするとき、郷土の先輩佐々友房時世を憂へて茅舎を白川畔に建設し、授くるに日本古来武士的教育と併せて洋学とを以てす。即ち沼田少尉をして軍事的教練を演習せしむ。聞く、之吾が国諸学校において学校教練を実施せし最も早きものなりと。
綱領を設けて仁愛・剛健・清明の三徳を旨とせしめ、専ら猿芝居的洋風崇拝の中に兀然として剛健の大旆を掲げ、その剛健なる学風は時の洋学万能主義の森有礼をして驚嘆せしめ、遂に畏くも
天聴に達するところとなり、恩賜の金員を賜れり。爾来年を経ること五十年に垂とし、剛健の風一世に振ふ。吾が此の黌において訓練せられたる剛健の気は、遂に吾をして四方の志毅々たるを禁ぜしむるを得ず、遠く笈を負ふて光輝ある帝国唯一の本校に学ぶの幸を得せしむ。吾、生来駑にして事を能くせず。而りと云へども、訓育されたる五ヶ年の剛健の士風と忠君の念とは、敢えて他人に劣ることなしと自ら深く確信する所なり。駑なりと云へども之に鞭ち之に鞭ち、千里の騏を追はんと計りし先人もあるものを。吾亦之を習はんとする、誰か吾ら又騏に及ぶあたはざるを言ふを得ん乎。力む可し。力む可し。常に必勝の信念を有して大なすところある可し。

【二・二六事件後の獄中にて】
〈遺書〉
 家計安からずして笈を負はしめ、今漸々にして独立鞠育の恩に報ぜざる可からざるの秋、此の度の悲嘆をあたへ申し全く申し訳なし。只、希くば児が嘗つて常に希ひたる孝心に賞で寛容あらせられ、平常に安らかに我が所刑を見送られむことをのみ希ひ奉りてやまず。
 児が先行の罪、誠に大なり、只、児は二人の父母上、兄弟姉妹に見守られつつ、平然と刑に服し永久に同胞の胸に帰らむとす。児としての幸、是にすぎまじ。
 夫れ、制度は万古に高し。判決文は其の表現たる可し。余は基より絶対的国法確立のために立ちたるもの、絶対的国法の処断には欣然之に赴くもの、敢えて躊躇す可きものぞ。只、希くば天命を全うせられむことを。我、必ず極楽浄土に東導せむ。故に我、死を怖るる事更になし、されば、刑の宣告は釈尊浄土引導の妙音たり。論告は三途河畔渡場を訪るるの涼風たり。更に亦政治に罪悪なし、失敗は罪悪の根拠たり矣。我れ今又何をか言はむ。
 余は我を愛するより国を愛するの情、更に切なりき。故に吾人は死につくと雖も、更に更に国民の安らかなる生活と之に依つて来る可き皇国の隆盛を祈りて熄まず。今や十有七名、手をとりて共に黄泉の旅に先立たむとす。三途の河波も亦更に波立たざる可し。
 余等、今や三途河畔渡場に舟を待つの間、更に地獄をして極楽浄土たらしめんとす。余は今や余のすべての兄弟に信頼し父母を委して、黄泉の旅に先行せむとす。余の冥福を祈り下さらむとせば、之は只平然と我が所刑を見送り下されむとするのみ。我が未だ立つ能はざる幼き弟達は、必ず我が両兄上姉上両弟の手によって生長するを得む。今や更に何をか思ひ残さむ。我今死すと雖も、我の代りに更に新しき姉上を得たるに非ずや。
 我れ不孝不悌の罪をのみ謝し、其の寛容に委して、吾勇みて死につかむ。時当に夏七月、而も冷風徐に我が紅頬を撫す、天又夫れ、我をあはれまんとする乎。
 切に希はくば天命を全うせられよ
昭和十一年七月十一日       安田 優

〈我が同胞に捧ぐ〉(親類各人宛に和歌と言葉を記す)
我が父の太き心に勇みたりいざ我立ちて強く歩かむ  「安心して先にいきます。」(父・清五郎宛)

我が母も強く暮さむ罪の子の清き心を強くいだきて  「大丈夫です」(母・こよ宛)

我が伯母よ我先行かむ導きは我手を採りて必ず行かむ  「決して泣いてはいけませぬ。笑って死につく我は幸福」(伯母・安田トエ宛)

我が伯父の常の情は変らざり罪の吾が身に衣送りぬ  「伯父上は吾が唯一の心の友なりき。共に呑む能はざるを奈何せむ。命日には希くは宴会をせられよ。客は我一人にて可ならむ。」(伯父・田中政六宛)

我が伯母は幼き我を愛したり今猶残る流合(ながれあ)の道 「諏訪の伯母上は決して泣かない。伯父上の所で待っている。命日にはさしみを供へられよ」(伯母・上元くよ宛)

青空の広き心ににたりけり我が義兄上は我はげませり(強くはげしく)  「寛大な心、強き心。大丈夫死ねます。獄中の朗らかさ一度見たら驚くでせう。」(義兄・富田義雄宛)

姉上の強きすがたに安んじぬ我が啻(ただ)一つのなやみなりしに  「全く驚異に値す。安心したです。十七人は弥次喜太で三途の河を渡ると云ふ。」

今我は心安らかいざとはに吾が姉上のむねにかへらむ  「我は情熱に生きぬ。情熱に死ぬ。即ち今や姉上にかへらむ。」(姉・ほしの宛)

我が妹は心強かり益丈夫の荒肝ひゞく汝がその心  「男にもまけぬ気分のお前だ。泣くのではない。笑へ。兄は馬かだと思つて笑へ。えらいと思つて笑へ。強いと思つて笑へ。親孝行しろ。」(妹・つちの宛)

行けよかし強く正しく健かに汝が行く道は我開かまし  「苓州男児嘆く可からず。泣く可からず。天に命あり。何くんぞ愚人の言をなさむや。天は兄に剣をあたへたり。剣は邪を打つの剣。但し、我が剣不正か正か。十年后自ら覚れ。」
(弟・善次郎宛)

汝こそは直なる心釈尊の更に上行くそは汝が心
  「天地命あり、嘆くには足らず。貴様の冷静にして聡明なる頭脳と純一なる精神は、十年後一大飛やくに進むだらう。兄は地獄で大将になつてまつてゐる。」(弟・善三郎宛)

※安田優は、父母・伯父一人伯母二人・姉夫婦・兄夫婦・四人の弟・三人の妹・三人の甥宛にそれぞれに贈る併せて二十一首の和歌と言葉を残している。ここではその内の幾つかを紹介した。又、「吾が友を讃うる」として多くの友人や先輩に二十三首の歌を詠み言葉も添えている。情の深い人物だった。

〈絶筆・辞世〉
二十五年一瞬夢  二十五年一瞬の夢
回顧平昔感滋多 平昔を回顧すれば感滋に多し
愛国熱情溢全身  愛国の熱情全身に溢れ
死猶持正大之気  死して猶正大の気を持す
                   七月七日

我が血潮ようこうろの火に似たり身をば打ちても更に散らまじ
長(とこし)へに吾れ闘はむ国民の安き暮しを胸に祈りて 
                   七月十一日

「某閉眼せば加茂川に投じ 魚にあたう可し」と南無阿弥陀仏に帰依し奉る
                   七月十二日午前八時十三分

今日こそは命たたなむ安らかに吾がはらからの胸にいだかれ
我がつとめ今は了りぬ安らかに我れかへりなむ武夫の道
                   刑死前十分

白妙の不二の高峰を仰ぎつつ武さしの野辺に我が身はてなむ
我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず
                  刑死前五分

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