「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

①終戦時の陸軍参謀総長 梅津美治郎「天皇の御聖断を遵奉し、陸軍の暴発を押さえ、終戦を見事に実現させる」

2020-10-06 21:52:53 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
今回から暫く、私の母校である済々黌の先輩英霊約30柱について、その武士道的な生き方を紹介した文章を掲載する。題して続『永遠の武士道』済々黌英霊篇。

済々黌の同窓会館「多士会館」の二階には大東亜戦争英霊405柱を祀る「鎮魂の碑」が終戦60年の平成17年に、心ある同窓生の寄付金によって建立され、定期的に慰霊祭が行われて来た。今年は終戦75周年に当たるので、10月24日に慰霊祭を行う事としてその準備を進めている。405柱の戦歿地別名簿と、資料が残っていり英霊30柱の「列伝」を当日出す予定である。この連載は、その列伝の部分である。

①終戦時の陸軍参謀総長
梅津美治郎(うめづ よしじろう)M30卒
「天皇の御聖断を遵奉し、陸軍の暴発を押さえ、終戦を見事に実現させる」
 
 梅津美治郎は、明治15年に大分県中津市で生まれる。尋常小学校を卒業後、済々黌に学び、十五歳で熊本地方幼年学校に進んだ。陸軍士官学校を卒業、五年後には陸軍大学に進み、首席で卒業した。その後ドイツ・デンマークやスイス駐在武官など七年間の海外勤務を経験し、その間第一次世界大戦を現地で観ている。帰国後、歩兵第3連隊長、歩兵第一旅団長を経て支那駐屯軍司令官を勤め、華北での紛争解決の為に梅津・何応欽協定を締結している。昭和11年に、陸軍省のナンバー2である陸軍次官を命じられた。陸軍最大の不祥事2・26事件の後始末を命じられたのである。

 梅津について『最後の参謀総長梅津美治郎』(芙蓉書房)は「梅津は、その軍人としての全生涯において、軍の政治介入を極度に嫌悪し、勅諭の精神の伝統を守り続けることに情熱をかたむけた。」と記している。軍人勅諭には「兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ」と記され、軍人が政治に関与する事を戒められてある。梅津は勅諭の精神を体現すべく生きていた。それ故、昭和初期に生じた陸軍内の統制派・皇道派等のグループには一切関与せず、只管軍人としての修錬に励んでいた。その様な梅津であるが故に、2・26事件後の「粛軍」(政治活動に関与した高級軍人の免職、2・26事件裁判)を陸軍次官として成し遂げたのだった。

 昭和12年7月の支那事変勃発後、13年には第一軍司令官としてシナに赴任、更に14年にはノモンハン事件で露呈した弱点強化を託され関東軍司令官に就任した。更に大東亜戦争戦争勃発後の17年には関東軍総司令官になっている。この間、梅津は関東軍を見事に統制しかつ、ソ連に侮られずかつ紛争も起こさず満州の平和を守り抜いている。

 日本の敗色が濃くなり、東条内閣が退陣し、小磯内閣誕生時に陸軍のトップである参謀総長に任じられる。陸軍は米軍に一撃を与えてからの講和を目指すが、それも叶わなかった。遂に、20年8月14日昭和天皇の御聖断により終戦が決定する。だが、陸軍の中堅幹部の一部はクーデターを計画し不穏な動きを見せる。梅津は、3期後輩で同じ大分県出身の陸相・阿南惟幾を諭し、「聖旨遵奉」を陸軍幹部に示達し、更には陸軍の最高幹部六名(陸軍大臣・参謀総長・教育総監・第一総軍司令官・第二総軍司令官・航空総軍司令官)の署名花押で「皇軍は飽くまで御聖断に従い行動す。」と「陸軍の方針」を決定した。梅津の軍人としての忠誠心が陸軍の暴発を見事に抑えたのである。
更に、九月二日、ミズリー号上での降伏文書調印を政府代表の重光外相と共に、陸海軍を代表して梅津参謀総長が署名している。

 東京裁判では、当初梅津の名前は被告人対象に上がっていなかったが、21年4月ソ連の要請で収監され、「A級戦犯」として生贄にされ、終身禁固刑となる。梅津は、法廷での論弁にも立たず、手記も一切残していない。裁判の途中で癌が発病して入院。「A級戦犯」七名が処刑された二週間後の24年1月8日に同愛病院にて亡くなった。67歳だった。

 梅津は、武人として生き抜いた為、手記も日記も一切残していない。陸軍次官時の机上には何も無かったと言う。大正14年に妻・清子を亡くした後も独身で通して二人の子供を生長させている。家も借家で質実剛健に生き抜いた。
梅津は揮毫も遠慮した為、書はあまり残っていない。昭和18年に熊本幼年学校が復校した際に菊池三公の画に「一門忠烈 千載流芳」と賛を記している。「A級戦犯」の遺墨集『将軍たちの遺墨』では「人生感意気(人生意気に感ず)」と記している。済々黌高校の図書館には梅津美治郎の「剛健」の書が今も掲げられている。正に、済々黌三徳の剛健を貫いた生涯だと言える。

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