【文芸】
秋深く床に射す陽の移り来て
探しつくせしネジ光りたり 高瀬しげ
前うしろ鏡に写し姿見る
娘より贈らるコートうれしく 馬場富士子
コスモスの咲き乱れたるタンボ道
葬列は進む声も少く 中島清子
出張の夫留守の夜語らいの後
息子等は鍵かけくるる 佐々木ユ基
沖縄にて
息絶えし母の乳房に縋りつつ
死にし幼らもありとききたり 奥野ハナ
菅谷婦人会『白梅』第2号 1981年
【文芸】
秋深く床に射す陽の移り来て
探しつくせしネジ光りたり 高瀬しげ
前うしろ鏡に写し姿見る
娘より贈らるコートうれしく 馬場富士子
コスモスの咲き乱れたるタンボ道
葬列は進む声も少く 中島清子
出張の夫留守の夜語らいの後
息子等は鍵かけくるる 佐々木ユ基
沖縄にて
息絶えし母の乳房に縋りつつ
死にし幼らもありとききたり 奥野ハナ
菅谷婦人会『白梅』第2号 1981年
「ありがとう。ほしがりません勝つまでは」の戦時中の頃でした。衣食住それはもう厳しい時代でした。笑うも一緒泣くのも一緒、子供ながらも肩を寄せ合い「ありがとう」と手を合せたものでした。
今日この頃便利で物資豊富な時代では考えられない事です。でも今日の良き時代の陰には多くの方の御苦労と努力があったのでしょう。きびしくても苦しくても肩を寄せ合い不自由の時代を過してきたお陰でしょうか。
今日の良き時代に「ありがとう」の一言の感激はどのくらいでしょうか。これからの日常生活の中にも「ありがとう」の気持を忘れない様に心掛けたいと思います。
菅谷婦人会『白梅』第2号 1981年
自然と歴史に恵まれた町民としての願いのこもった憲章が昭和五十五年(1980)四月各家庭に配られました。一主婦として時々奉唱しまして次の様な事を心掛けています。御笑読下され御指導御願い致します。
一、自然を守り環境をとゝのえ
緑と清流の町をつくりましょう
家庭内外の清潔整頓に努め、どんな花でもよいから部屋の中に活けて和やかな雰囲気を作り又小さい庭木でも大切に育て緑の多い環境を作る様努力したいと思います。
一、文化をたかめスポーツにしたしみ
世界と結ぶ町をつくりましょう
国立婦人教育会館で行なわれる講演会等に出来るだけ参加して教養を高めると共に世界の動きに関心を深めたいと思っています。又家庭内で出来る運動を毎日実行したいと思っています。
一、としよりを敬いたくましい若者を育て
生き生きとした町をつくりましょう
老人は長い間人生の苦労に耐えて今の家庭を築いた人であり、敬いの気持を大切に致したいと思っています。親自身が常に希望をもって充実した生活をする様にしたいと思っています。
一、きまりを守り共に助け合い
平和な町をつくりましょう
人間としての道を守りそれぞれの立場を理解し尊重しあって、よりよい家庭、よりよい町を作る様努力したいと思って居ります。
菅谷婦人会『白梅』第2号 1981年
私が婦人会に入りましたきっかけは健康教室の水泳でした。婦人会館の屋内プールで水泳があると人づてに聞きまして入会させてもらったのです。子供の頃の水遊びで浮くには浮くのですが水泳の基礎は何も分らずプールに行きましてもたゞピチャピチャと浮輪で遊ぶ子供の傍に居るだけでしたので飛びつく思いで参加致しました。
一回目、二回目と進みますうちにクロールの手が出来、足もどうにか形付いて来まして最初十メートルも覚束なかったのが十回目には二十五メートル泳げるようになり、二年目の今年はターンが出来五十メートル泳ぐことが出来る様になりました。勿論泳いだ後は肩こりもなくなり夜はぐっすり眠る事も出来まして、健康上の利点もたくさんありましたが、何より嬉しかったのはやはり基本通り(?)泳げる様になった事です。
役員の方々にはお骨折りと思いますけれど、毎年企画されると良いと思っております。他に料理教室等にも参加し楽しく色々覚える事が出来ました。少し残念に思いますことは、皮細工等の教室が一回限りで終りになってしまう事です。何回か継続出来ればもっと楽しいと思いました。他にも何か勉強会などありましたら参加したいと思っております。そして学校のPTAの集いと違って世代の違う人達の意見も聞けて楽しく、子育ての終りつつあるこれからの私の良きパートナーに会がなるのではないかと楽しみにしております。
菅谷婦人会『白梅』第2号 1981年
チャリティーバザー 御協力ありがとうございました。
55.3.17 ボランティア活動の一つとして昨年につゞきチャリティーバザーを実施致しました。会員の皆さんには昨年に劣らない多数の品々を拠出して戴き盛会裡に終了いたしました。
皆様の善意の結晶、86080円は嵐山町社会福祉協議会へ寄付させて頂きますのでご諒承下さい。
菅谷婦人会『白梅』第2号 1981年
日本赤十字社は、西南戦争の時、敵味方の区別なく負傷された人々を看護したことによって、結成されたと聞いております。
嵐山町日赤奉仕団も結団以来、二十三年目になり、団員数は現在二百九十四名です。
活動内容は、
一、社協主催事業に協力、敬老会、古稀の祝い、戦没者追悼式等の接待と、給食サービスを年二回、手作りを賞味いただいております。
二、在宅ねたきり者の方にとタオルで作った前掛け作り、簡単なものですが大変喜ばれております。
また、金婚者及び在宅ねたきりのかたへ贈呈の町の木、梅の花作りをしています。女性ならではの細かい仕事で、団員の皆さんによって出来る手作りのお花です。
三、清掃作業として、河川清掃及び婦人会館周辺の草刈りなどをしております。
今年は、五月二十日二瀬川岸周辺のゴミ、空缶拾い等、五十余名の団員の皆さんの協力を得ていたしました。都幾川の清流を眺めつつ、美味しい空気を胸一杯吸って心地よい汗を流しました。役員さんの心づくしのお茶・漬物などを頂きながら、草むらでのひと時は心洗われる思いでした。
四、その他、団員による一円玉の募金を歳末に寄付、町での催物の時の接待、救急法、家庭看護法講習会などです。、これからあらゆる福祉事業が町村に移行されると伺っております。
ボランティアとしての日赤奉仕団もいろいろな課題がありますが、明るく豊かな町づくりに参加し、努力して参りたいと思っております。皆様方のご協力をよろしくお願い申し上げます。
『社協らんざん』第12号 1991年(平成3)7月15日
※嵐山町の日赤奉仕団については、
「日赤奉仕団運営費に歯ブラシ販売」(1966年)
「嵐山町赤十字奉仕団の発足」(1979年2月)
反町葉子「赤十字奉仕団をご存じですか」(1988年)
古来日本女性は素朴な風姿の中に言いしれぬ心の誠と床しさを持っていました。仰々しい表現や軽薄なお喋りはたしなみなき女として蔑すんだものであります。「陰膳の蝿追う妻の操かな」なんとみるからに貞淑な日本女性を充分に表した句ではないでしょうか。
先代萩の政岡が腸を断つ悲痛な悲しみと火のように燃えたつ憤激の情を忠誠の心で押し鎮め眉毛一つ動かさなかったあの凛々(りり)しい態度こそ日本婦人の典型として万人の渇仰(かつごう)する所でありました。口には出さずとも胸の中にもの燃ゆる熱情と優しい情操をこめ溢るる浄智が秘められていればこそ静かな沈着や真の勇気が発動したのでありましょう。
かの楠木正行(くすのきまさつら)の母【久子】、木村重成(きむらしげなり)の妻【尾花】、原惣右衛門の母、愛するものの為には利害打算を超越して自己の身を捨て無我となる、これが真の大勇の発する所以でありましょう。
現代の女性にかくの如き勇がありましょうか。松の操の色も変えぬ貞婦は優にやさしく極めて強くそして安立したものでありましょう。柔和な女性の中に潜められた勇、愛より発する勇、恵まれた現代の安らかな暮しの中にある私達にも何か昔の女性に学ぶべきものがあるのではないでしょうか。
菅谷婦人会『白梅』第2号 1981年
四季の中でも冬から春に変る時が一番待ち遠しい時期です。長い冬が終れば何か嬉しいことや楽しいことが待っているやうな心がうきうきしてくる、そんな気分に浸れる時です。
丁度五年前のこんな季節の頃菅谷婦人会に入会させて頂きました。婦人会というイメージが母の時代の頃のものと同じものであろうという先入観があって、あまり積極的ではありませんでしたが……。それは子育てや、家事などから解放されて時間の余裕のある人達、つまりお年寄達の集りで盆踊りや、運動会等で浴衣を着て民謡を踊ったり、バスで旅行に行ったりという内容のものかと思っていました。それでも何回か色々な行事のうち、講演会、料理教室、社会見学等に参加しているうちに結構楽しいし、勉強にもなるのではと考え直すようになり、今までの偏見を改めざるを得ませんでした。知人もあまり居ませんでしたけれど同じ町内の者同志案外早く打ちとけられるようになりました。新しい人との出合いって嬉しいものですね。
昨年の四月から支部の役員を引き受けてみましたが婦人会のより深い所まで見つめられとても勉強になりました。又本部役員さん達のお仕事がいかに大変であるかという事も分り御苦労をお察し致します。例えば料理教室を開催するまでの経過などをみますと先づお料理の内容、会場の確保、講師の交渉、経費、材料の準備、回覧など参加する人達にとっては二時間程の事ですが、それは大変な事なのです。
昨年の九月、東松山市で開かれた地区別幹部研修会に出席させて頂きましたがこういう会に出席するなど勿論初めてですので貴重な体験をさせて頂きましたことを有難く思っています。そして各地域でもそれぞれに婦人会というものが根づいていて活躍している事を知り、深く感銘致しました。
一つの会を運営してゆくためには和を大切にし、お互に会員同志の協力が必要と思います。又自分自身の向上の為にも社会へ目を向けてゆきたいと考えて居ります。
菅谷婦人会『白梅』第2号 1981年
私が婦人会長をお受けしたのは、二十年も前の事ですので、中には昔話かと一笑にふす方もあろうかと思いますが、思い出の一こまとしてお読みいただければ幸いと存じます。
私が婦人会長を受けた時すでに婦人会は尻つぼみの状態で細々とした、ともし火のようなものでしたので、基本財産をどうするか、細々ながらともし火のある中に有益に使った方がと云う人、婦人会は大丈夫だから五拾万になるまで手を付けるなと云う人と、体育館が出来てもピアノがないので当時の先生のお話に音楽室から体育館までピアノを運ぶと七千五百円、音楽室へ返して又七千五百円、行事の度に一万五千円づつかかるので大変なんですよとの事で、お骨折していただいた役員の連名をピアノに書き付けて、ピアノを買ってはと相談した所、賛成者が多かったので旧会長さんに全部お集りいただいて賛否を取ったところ、大体の会長さんからは賛成を得られましたが、ある会長さんから此の基本財産は婦人会館を作る目的で歴代の会長さんは申すに及ばず会員全部申し合せの上、古新聞、さつま芋を持ちより、芋は俵に入れて農協へ売り、廃品回収売店など大変な思いで長年掛って出来たお金故無益に使わずに、村で公民館を作る時、婦人会の室を一間も造っていただき、心おきなく会合が出来るようにしてはとのお話に、ではそうした方がとの賛成が多く、ピアノの話は打切りになりました。そして公民館の出来るのを待ちました。いよいよ公民館が出来る事になり隅の方にでも婦人の部屋をと申しました所、三十八万円では一坪も出来ないとの事を聞き物価の変動の激しさにおどろくばかりで、茫然としてお話をうかがいました。もっとも話し出した時は三十万円で畑が駅からはなれた所なら買えた時でした。もし寄附するお気持があるなら部品でも寄附してほしいとの事で、その頃は婦人会も休会になり幾年か後に又婦人会が再出発の時が来て古い記録に基本財産は無会費運営が目的だったとか。
とに角物価の激しい現在でも子を思わぬ親はないと同様に、後を続けて下さる婦人会の皆様の少しでもお役に立てば何よりとよろこんで居りますような次第です。唯先代の会長さん、会員の方々の汗と努力によって「ちりもつもれば山となる」のたとえのようなお金ですので、現在は老人クラブの会費になって居りますが、そうした先代の役員は申すに及ばず会員の方々に感謝をもって基本財産の減らないよう、利子を御利用いただければ幸いと思って居ります一人でございます。
菅谷婦人会『白梅』第2号 1981年
昨年に引き続き“白梅”第二号を発行いたします。原稿を寄せて下さった方も多く、皆さんの関心の深さを感じます。
この一年の婦人会行事も盛会の中に終りました事を感謝いたします。
特に役員の方にはお忙しいところを御協力いただき、すべての行事が気持よく出来まして有難うございます。
今年度は文化部として料理教室を二回行って、一回はふるさとの味として、会員に講師をお願いしてのおまんじゅう作り、手工芸では初めて皮工芸に挑戦、すてきな小銭入を作りました。
体育部とレク部では“みかん狩と札所めぐり”秋晴れの一日山道をハイキングしたり、盆おどり、フォークダンスで汗をかき、去年に引き続き水泳教室を、教育委員会と婦人教育会館の御協力で無事十回終了。夏休みには子供に負けず泳げるようになったお母さんが多かったのではないでしょうか。その他町議会の傍聴、二回目のチャリティーバザー、話力研究所所長さんの講演等々、楽しみながら少しづゝ何か得る事があったと思います。
嵐山町は昨年町民憲章が出来ましてこれからも、町民の文化大学や運動公園、県民の休養地等々、めざましく発展してゆくようですから、私達婦人会も色々な場で広く活動して地域の大勢の方達のお役にたてるとよいと思います。
会員の方達も、夫々の生活の場でお忙しいでしょうが、一人一人では出来ない地域づくりが、これからの子供達のため、又自分のためにも大切な事だと思います。是非皆さんの御協力をお願いいたします。
55年度の主な事業
4月 総会
5月 料理教室(おまんじゅう作り)
6月 水泳教室開校(6月~10月 10回)
7月 盆踊り練習
9月 町議会見学
10月 体育祭踊り参加
料理教室(手作りのおやつ)
皮工芸教室(小銭入れ)
11月 七つの祝
12月 みかん狩と札所めぐり
1月 新年会
2月 講演会(明るい人間関係を作るには)
3月 チャリティーバザー 健康教室
菅谷婦人会『白梅』第2号 1981年
松本茂子
山里は夕やみ深く静もりて
梅ほのぼのと匂い来たれり
奥野ハナ
人柄の変りし如く風邪気味の
我を気づかい休めといふ夫
村瀬信子
年毎に姿消しゆく山つつじ
はつはつ芽吹く木洩れ陽の中
伊東ときゑ
撒く豆の空しく散れり息子(こ)等の部屋
久に灯して鬼やらいなす
加藤清子
山頂の芽吹き明るく無住寺
菅谷婦人会『白梅』第1号 1980年
はじめての試み チャリティバザー報告記
三月十一日 於 中央公民館
三月十日午後、会員の皆様の善意によって持ち寄られた多種多様な品々。どこから手を付けて良いやらと思ったが、役員の方々の努力で夕方には値札もつけられ会議室にしつらえたそれぞれのコーナーに並べられた。
翌十一日、菅谷婦人会のはじめての試みとしてのチャリティーバザーの日。
午前九時半、果して買いに来て下さるだろうか? 不安と期待の入り交った気持で売場に立った。ドアーの外には開店(?)を待つ何人かの顔も見える。定刻にドアーが開かれると真直に新品コーナーに進む人、入口近くよりゆっくり吟味して歩く人などさまざま。私の売場は五〇円~一〇〇円までの新品コーナー。主婦の常なのか先づ男性用の靴下、肌着、Yシャツなどから売れ、次いで子供の物、おばあちゃんになどと言ひ乍ら買って下さる。
約三〇分位で隣りの新品一人一点のコーナーは(毛布、敷布、コタツ掛けなど)きれいに売切れとなった。
次いで台所用品、小間物などの売場も売切れとなり、衣類を中心とする中古品コーナーも十一時半頃には殆どの品物を売切ることが出来た。
終了後、役員が集まり次の点を反省点として話し合った。
○ サークル、ベビーバスなど大きな品物の申出もあったので黒板に書いておいたが、気付かなかった方が多かったので、今後この様な品物の売り方も考えたい。
○ 持ち帰って組立てる品物のネジが無く御迷惑をおかけしたのであらかじめ部品の点検をする。
○ 各支部長が品物を集めて公民館へ運ぶ労力が大変であった。
○ 値段が適正であったか。
○ 今後も行うか。行うとすれば毎年か隔年とするか……等々。
家庭に眠っている品物を必要とする方に使って頂く事によって得た浄財九万二五〇円は「社会福祉協議会」に寄付させて頂き福祉のお役に立てて頂く事になりました。このやうに、全会員の協力によって盛会裡に終了致しました事を御報告致します。
菅谷婦人会『白梅』第1号 1980年
昨年(1979)の十一月二十二日婦人会の主催で蜜柑狩りと札所めぐりが挙行された。この秋の一日を楽しみにしていたが、当日は朝から小雨模様。七十余名の会員は雨支度でバスに乗り込む。
バスは初めの目的地である東秩父村大内沢の蜜柑山へと向った。蜜柑の産地は寄居町風布が北限だと言はれているがこの大内沢も風布のすぐ隣りに接する山峡で蜜柑の歴史はまだ新しいらしく木はあまり大きくないが南傾斜面にきれいに色づいた蜜柑がぎっしりと見事になっていた。
はさみと籠を借りて蜜柑山に登った。雨の為つるつると滑って足元が悪い。先づ色のよくのったのを一つ食べてみる。とてもおいしい。甘味が強く酸味も程よく、本場の蜜柑と競べて勝るとも劣らぬ味だ。たてつゞけに二つ三つと食べた。あちらこちらから「ここのがおいしいわよ。」と声がかかるとズボンの裾のよごれるのも忘れ、夢中でかけ登っては食べた。
土産の分も採ってバスに乗るとみかんの他に、しいたけ、こんにゃく、柚子なども大そう持ち込まれていた。
バスは大内沢から秩父札所めぐりのコースに入り、二十三番音楽寺から始められた。ここは急勾配の山道を登りつめた丘にあり、晴れていれば秩父市内を一望出来る場所である。明治十七年(1884)の秩父事件の際に打ち鳴らしたという梵鐘が本堂の前の鐘撞堂にあった。心をこめて一つ打つと、やわらかい音色は秋霖の中にいつまでも響き渡った。
ここで昼食をとり二十二番栄福寺、二十一番観音寺、二十番岩之上堂と廻った。
秩父に来ると何処からでも武甲山が見える筈なのに、この日は見ることが出来なかった。開発の進んだ山肌は時には他人に見せたくないこともあるのかもしれず、「又秩父においでなされ。」と霧の中から叫んでいるやうにも思えた。
帰りのバスの中は賑やかで、それぞれ自慢の「のど」を披露しながら楽しく一日の旅を終えた。
菅谷婦人会『白梅』第1号 1980年
私はぜんぜん浮きも泳げもしなかったのですが、おかげさまで少しですが泳げるようになりました。プールの端から端まで何回も立ちますが……。とっても楽しかったです。
その他、コーラスや健康について教えていただき、とてもためになりました。
次の役員さんにお願いいたします。ぜひ又やっていただきたいと思います。他の人も楽しみに待っていると思います。
菅谷婦人会『白梅』第1号 1980年
6月27日、菅谷婦人会で、嵐山町議会定例第二回の一般質問を見学に行きました。去年に続いて二度目の傍聴でしたが、定員三五名を越す申し込みがあり皆さんの関心の深さが感じられました。
6月というのに、十日近く真夏日が続きやっと小雨が降り出したむし暑い日でしたが、天井に扇風機が廻る議場で熱心に答議が進められました。議員が立って質問すると町長や町役場の担当の課長等が立って答えます。教育、下水道、福祉等身近な問題から一般消費税の事等、幅広い問題を真剣に論じ合って、聞く私達も暑さを忘れ有意義な二時間で文化的田園都市嵐山の実現も近いと心強い思いがいたしました。
菅谷婦人会『白梅』第1号 1980年