過去~現在~未来

何故、人には差別があるのかを仏法の道理から考えて見ます。

上根上機・下根下機

2009年02月26日 | Weblog

   【御法主日如上人猊下御指南】より

「上根上機」とは、機根、すなわち仏の教えを聞いて修行しうる能力・素質には上中下がありまして、法を聞いてすぐ理解できる者、つまり仏道修行の能力・素質が優れている者のことであります。
この上根上機の者にとっての修行は「観念観法」すなわち仏の姿や真理を心に思い浮かべて念ずること、代表的なものには、天台の一念三千、一心三観の修行などがありますが、こうした修行は上根上機の者にとっては可能であっても、「下根下機」すなわち仏道修行の能力・素質が乏しい者、つまり我ら末法本未有善の衆生にとっては到底、できることではありません。したがって、下根下機の末法の我ら衆生が成仏を遂げるためには、像法過時の修行である観念観法ではなく、ただ信心が肝要であると仰せられているのであります。
しこうして、その信心とは「浄心信敬」すなわち清らかな心で仏を信じ敬い、疑いを起こさない信心こそ肝要であると仰せられ、例えば、高い岸の下に人がいて登ることができずにいるときに、岸の上の人が縄を降ろして救い上げようとしているのに、引く人の力を疑い、縄が弱いのではないかと危ぶんで手を差し出そうともしないのは、あたかも「唯我一人能為救護」、ただ我れ一人のみ能く衆生を救うことができると仰せられた仏のお力を疑い、「以信得入」仏の教えを疑いなく信ずることによって必ず成仏することができるとの法華経の教えを危ぶみ、「決定無有疑」、法華経の肝心たる妙法を受持する者は、必ず成仏することは疑いないと説かれた仏の教えを疑い、妙法を唱えず、菩提の岸に登ることをしないようなものである。故に、法華経従地涌出品には「疑いを生じて信じない者は、すなわち悪道に堕ちる」と説かれているのである。されば、仏を信じ、絶対の確信を持って、浄心に信敬することこそが肝要であると仰せられているのであります。