木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

高野長英とその死因

2013年05月06日 | 江戸の人物
高野長英。
文化元年(1804年)5月5日に陸奥水沢に生まれる。
嘉永三年(1850年)10月30日死す。
長英を見ていると、人間の運、不運というものを感ぜずにはいられない。

長英は当時オランダ語学の最高水準を持っていただけでなく、商才もあった。
神崎屋源造に薬品の製法を授け、多大なる益を得させている。
もっとも、その利益を長英自ら得て、贅沢をした訳ではない。
ただただ、長英は自らの実力を誇示したいという気持ちがあっただけであろう。

その長英は、「戊辰夢物語」において、諸外国を打ち払ってまで鎖国を続けようとする幕府の姿勢を批判した。
時に天保八年、大坂で大塩平八郎の乱が起きて、幕府がぴりぴりしている頃である。
翌々年の天保十年に蛮社の獄が起き、長英は牢獄に繋がれる。
長英はこの天保十年から、天保十五年六月まで五年の永きに亘り、牢獄の住人となっていた。
当時、懲役という刑罰はなく、牢獄は未決囚が押し込められている場所であった。
ここまで永く長英が牢獄に入れられていたというのは、世論を恐れた幕府が長英に極刑を言い渡せなかったからである。
不潔な牢獄で、勝手に病を得て、勝手に死んで欲しい、というのが幕府の本音だったであろう。

しかし、長英は別の道を選ぶ。
自らの牢獄に火を放ち、脱獄する道である。
脱獄してからの長英は、様々な土地へ行き、英邁な藩主や、進取の気性に富んだ人々の庇護を受けている。
この頃には、昔の剃刀のように頭脳明晰だが、傲慢なだけの長英ではなくなっていたであろう。
そして、限りある自分の余生について想いを寄せていたに違いない。
敢えて危険を犯してまで、江戸に戻ったのもそうしなくてはならならい理由があったからだ。
その際に自ら薬品で顔を焼いたのは、もちろん人相を変えるという意味もあったのだが、自らの決意を忘れまいとした、とは考えられないだろうか。

江戸に潜伏した長英は沢三伯という偽名を使い、医者を生業とした。
庭に木の葉を敷いて、町方の踏み込みには警戒していたが、「往診をお願いします」という声に油断して出たところ、町方に取り囲まれたと言う。
応戦したが、多勢に無勢、最期は自ら短刀で喉を突いて自害したというが、真相は、長期の逃亡を許した責を負っていた町方が殴り殺してしまったらしい。
咎人は生け捕りが原則であるから、ダブルのミスを指摘されないように、町方が「自殺」というシナリオを描いた。
当時、指揮をとっていたのは鳥居耀三。
江戸末期に咲いたいかにも毒キノコ然とした毒キノコである。

長英が死して三年後の嘉永三年(1853年)、ペリーが浦賀に来航。
早過ぎた長英の死であった。

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