一つの演目内で同じ目的の動作(カードをシャフルする、コインを握る、など)は
どれくらい統一するべきなのかを前回から考えている。
前回はハンドリングの点から考えてみたが、今回は演技の点から考えてみる。
同じ演目を同じハンドリングで演じても動作の不統一が目立つ人と目立たない人がいる。
動作の不統一が目立つパターンはそもそも技法を行っているときに
それが単にカードを数えとるとか、コインを握るとか、無造作にカードを切り混ぜるとか
見た目以上の(そう思って欲しい以上の)意味が感じられてしまう。
理由は色々とあるだろうが、一つはその技法の前(導入部)と、
後の部分ののりしろが考えられていなくて動作に不連続点が生じている場合である。
さらに技法に入る前に気持ちを落ち着けるとか、今からやるぞ、という
精神面の助走が必要で、心の中でも不連続点が生じる場合も
それが表に出てしまい目立つ一因となる。
では、どんな演技が技法が目立ちづらいかといえば上記の逆で
技法の前後ののりしろが考えられていること、
極度に手元に集中しなくても動作を行うことが出来、
気づいたときにはそれは終わっているという状態を作れる演技だろう。
実際、演技者自身が手元に過剰に集中しているのでなければ
動作の不統一に気づかない観客も少なくない。
デックの色が途中で変わっても気づかれないことだってあるのではないか
とさえ、思うことがある。
と、ここまで書いたところでこの話がどこに向かうのか自分でも見えなくなってきた。
隣のテーブルの女性の会話の声が大きくてつい耳がその内容をとらえてしまうのが原因かもしれない。
シークレットムーブが自己主張し過ぎず、動作の不統一が目立ちすぎないためには
物理的には技法ののりしろが考えられているかどうか、
内面的な部分では何のためにそれをその動作で行っているかが自分の中で
理由付けされているかどうか、というのがあるだろう。
・ リズム、見栄えにバリエーションや緩急をつけるためにコインを消す方法を色々と変えている、
・ ここはエースをデックに入れて混ぜるところだからこの混ぜ方、
次は演技の意味上の段落が変わり、もう一度エースを探すステージだからこの混ぜ方、
・ ここはカードを改めているからこの持ち方、次は一枚ずつ変化を起こすからこの持ち方で、
などなど。
それをわざわざ台詞で説明する必要はないが、そういった思い入れが演じる側にあれば、
それは見せ方、見え方にも反映されるだろうし、説得力を持つと思う。
演技的な観点から考えると動作を完全には統一しなくても
演技のリズムや意味づけで吸収できればいいのではないかと考えている。
どれくらい統一するべきなのかを前回から考えている。
前回はハンドリングの点から考えてみたが、今回は演技の点から考えてみる。
同じ演目を同じハンドリングで演じても動作の不統一が目立つ人と目立たない人がいる。
動作の不統一が目立つパターンはそもそも技法を行っているときに
それが単にカードを数えとるとか、コインを握るとか、無造作にカードを切り混ぜるとか
見た目以上の(そう思って欲しい以上の)意味が感じられてしまう。
理由は色々とあるだろうが、一つはその技法の前(導入部)と、
後の部分ののりしろが考えられていなくて動作に不連続点が生じている場合である。
さらに技法に入る前に気持ちを落ち着けるとか、今からやるぞ、という
精神面の助走が必要で、心の中でも不連続点が生じる場合も
それが表に出てしまい目立つ一因となる。
では、どんな演技が技法が目立ちづらいかといえば上記の逆で
技法の前後ののりしろが考えられていること、
極度に手元に集中しなくても動作を行うことが出来、
気づいたときにはそれは終わっているという状態を作れる演技だろう。
実際、演技者自身が手元に過剰に集中しているのでなければ
動作の不統一に気づかない観客も少なくない。
デックの色が途中で変わっても気づかれないことだってあるのではないか
とさえ、思うことがある。
と、ここまで書いたところでこの話がどこに向かうのか自分でも見えなくなってきた。
隣のテーブルの女性の会話の声が大きくてつい耳がその内容をとらえてしまうのが原因かもしれない。
シークレットムーブが自己主張し過ぎず、動作の不統一が目立ちすぎないためには
物理的には技法ののりしろが考えられているかどうか、
内面的な部分では何のためにそれをその動作で行っているかが自分の中で
理由付けされているかどうか、というのがあるだろう。
・ リズム、見栄えにバリエーションや緩急をつけるためにコインを消す方法を色々と変えている、
・ ここはエースをデックに入れて混ぜるところだからこの混ぜ方、
次は演技の意味上の段落が変わり、もう一度エースを探すステージだからこの混ぜ方、
・ ここはカードを改めているからこの持ち方、次は一枚ずつ変化を起こすからこの持ち方で、
などなど。
それをわざわざ台詞で説明する必要はないが、そういった思い入れが演じる側にあれば、
それは見せ方、見え方にも反映されるだろうし、説得力を持つと思う。
演技的な観点から考えると動作を完全には統一しなくても
演技のリズムや意味づけで吸収できればいいのではないかと考えている。