SNS全盛の現在。
サッカークラブもトッププレーヤーもアカウントを普通に持つようになり、ファンと容易に交流を持つ世の中になりました。
時は39年前の1985年。ワタクシ中学1年生の初秋ごろでしょうか。
サッカー日本代表は悲願のW杯初出場に向けて、東アジア地区予選を戦っていました。
夏の2次予選で香港を撃破し、迎えるは最終予選韓国との一騎打ち。
悲願の予選突破に向けて、日本サッカー界はにわかに湧き上がります。
韓国代表は、早々とブンデスリーガプレーヤーの車範根(フランクフルト)の召集を決めます。
一方、日本代表は?
同じく唯一のブンデスリーガプレーヤーの奥寺康彦(ヴェルダーブレーメン)は召集出来ないのか?
ヤキモキする中1の私!
当時、日本のサッカー雑誌では海外クラブへのファンレターが送れるように、各国クラブのクラブハウスを公開していました。
そこで、一念発起ベルダーブレーメンにエアメールを書く事に。
奥寺康彦選手へのファンレターではなく、会長直々に日本代表招集の直談判!
全文コテコテの日本語で!
冒頭の宛先は「ベルダーブレーメン会長へ」
内容はあまり覚えていないですが、
「日本の悲願のワールドカップ初出場に奥寺選手の力がどうしても必要です」
「どうか最終予選に奥寺選手を返して下さい」
らしき内容。
結果、奥寺選手は招集される事なく、最終予選は韓国に苦杯を舐め悲願の内容は夢と消えました。
現在でも伝説の木村和司さんの直接フリーキックも虚しく。
1986年、華々しくメキシコワールドカップは開催され、韓国は初戦ディエゴマラドーナ擁するアルゼンチン相手に奮闘します。
中2の私は指を咥えながら、テレビに齧り付くだけ。
一方、同時期日本ではキリンカップ'86が開催されブンデスリーガのキャリアを終える奥寺康彦凱旋試合が開催されます。
(パルメイラスへのレンタル移籍で10代キングカズ選手も凱旋帰国)
日本ではプロ化の準備が始まり、奥寺選手は古河電工に移籍して国内プロ第1号誕生となります。
(同時に日産自動車木村和司選手が国産プロ第1号として誕生)
夏には、石井義信監督による新生日本代表が招集され、奥寺選手は日本代表に招集されます。
「一年遅いって!奥寺さん」
所属先古河電工では、日本リーグ優勝・アジアクラブ選手権優勝と晩年のキャリアを飾ります。
1987年日本代表の中軸としてソウル五輪予選に敗れ、日本代表のキャリアを閉じます。
翌年1988年をもって現役引退。
後の1993年Jリーグ開幕へのレール敷設の貢献者となりました。
時は2024年7月。
不振が続くFC東京。
39年ぶりのファンレター。
Xで選手にコメントを寄せました。
メンション(@fctokyoofficial)をつけて。
選手に届く届かないは別として。
12歳も51歳も、やる事変わらないなと。
取り止めのない文章になりましたが、39年前の直談判を懐かしく思うのでした。
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