人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

空海の入定をめぐって

2008-03-08 14:59:35 | 神秘思想
■理路を整然とさせるためにも、既述の〈求聞持法とアーカシャ〉、〈空海、求聞持と虚空蔵〉の流れから、以下に空海の入定をめぐる覚書をとどめておきたいと思います。


《空海の入定をめぐって》

『統日本後記』によると、空海は承和二年三月二十一日、紀伊国の禅居、高野山において示寂した。このとき淳和上皇の勅書には、〈禅関僻左、凶問晩伝、不能使者奔赴相助荼毘、……〉というようにあり、入定窟の上に建てられた廟堂のほとりに火葬の灰が残っていたと伝えるものもあり、空海が死後火葬されたことは、ほぼ事実だろう。だが、大師は高野山の奥院において入定しているという説がかなり古くから民間に伝えられ、今日でもそれを信じる人もある。
 空海の死後二百五十年ほどのちに、大江匡房が『本朝神仙伝』で大師のことを〈後於金剛峯寺、入金剛定、于今存焉。初人皆見鬢髪常生、形容不変、穿山頂、入底里許、為禅定之室〉としるしている。
『空海僧都伝』の著者真済は、承和二年十月二日の日付で、次のように書いている。
〈大師自天長九年十二月十二日、深厭世味、常務坐禅、弟子進曰、老者唯飲食非此亦穏眠、今已不然、何事有之、報曰、命也有涯、不可強留、唯待尽期、若知時至在先入山、承和元年五月晦日、召請弟子等語、生期今不幾、汝等好住、慎守仏法、吾永帰山、九月初、自定葬処、二年正月以来、却絶水漿、或人諌之曰、此身易腐、更可以臰為養、天厨前外列甘露日進、止乎止乎、不用人間味、至于三月二十一日後夜、右脇唱滅、諸弟子等一二者悟揺病、依遺教奉斂東峯、生年六十二〉
 また経範の『大師御行状集記』によれば、空海の死の前後のことを或伝に曰くとして、〈然則従大寺艮角、入三十六町、卜入定処、従兼日営修之、其期兼十日、四時行法、其間御弟子等、共唱弥勒宝号、至時剋止言語、結跏趺坐、住大日定印、奄然入定、時年承和二年乙卯三月廿一目丙寅、寅時也、雖閇目、自余宛如生身、及七々御忌、御弟子等皆以拝見、顔色不変、鬢髪更生、因之加剃除、懃衣裳畳石築壇、覆其上、立率都婆、入種々梵本陁羅尼、更其上亦建立宝塔、安置仏舎利、御入定以後沙汰一向真然僧正所営云々〉とのべる。同書はさらに空海が弥勒信仰を抱いていたことについても触れている。

 延喜年間に大師の曾孫弟子にあたる観賢僧正が、勅命で高野山に出向き、大師の入定窟を開けたという。そのときのことは『今昔物語』巻十一に詳しい。
〈亦入定ノ所ヲ造テ承和二年トイフ年ノ三月卅一日ノ寅ノ時ニ、結跏趺坐シテ大日ノ定印ヲ結デ、内ニシテ入定ス、年六十二、御弟子等遺言ニ依テ弥勒宝号ヲ唱フ、其後久ク有テ此入定ノ峒ヲ開テ御髪剃リ、御衣ヲ着セ替奉ケルヲ、其事絶テ久ク无カリケルヲ、般若寺ノ観覧僧正ト云フ人、権ノ長者ニテ有ケル時、大師ニハ曾孫弟子ニゾ当ケル、彼ノ山二詣デ入定ノ峒ヲ開タリケレバ、霧立テ暗夜ノ如クニテ露不見リケレバ、暫ク有テ霧ノ閑マルヲ見レバ、早ク御衣ノ朽タルガ風ノ入テ吹ケバ、塵ニ成テ被吹立テ見ユル也ケリ、塵閑マリケレバ大師ハ見工給ケル、御髪ハ一尺許生テ在マシケレバ、僧正自ラ水ヲ浴ビ、浄キ衣ヲ着テゾ新キ剃刀ヲ以テ御髪ヲ剃奉ケル、水精ノ御念珠ノ緒ノ朽ケレバ御前ニ落散タルヲ、拾ヒ集メテ緒ヲ直ク捶テ御手ニ懸奉テケリ、御衣清浄ニ調へ儲テ着奉テ出ヌ、僧正自ラ室ヲ出ツトテ、今始テ別レ奉ラム様ニ、不覚ズ泣キ悲レヌ、其後ハ恐レ奉テ室ヲ開ク人无シ、但シ人ノ詣ヅル時ハ上グル堂ノ戸、自然ラ少シ開キ、山ニ鳴ル音有リ、或ル時ニハ金打ツ音有リ、様々ニ奇キ事有ル也〉

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 空海、求聞持と虚空蔵 | トップ | 忘れること »
最新の画像もっと見る

神秘思想」カテゴリの最新記事