豆日記

小豆原一朗の日記

ライブスケジュール&サークル

2020年05月31日 | 豆日記
本日、配信弾き語りワンマンが解禁されました!やったー。

◆十三代目梅雨将軍配信series~病弱だった将軍~◆
2020年6月7日(日)-昼公演-
ツイキャスプレミア配信ライブ
「まめ将軍」
出演:小豆原一朗

会場:池袋LiveGarage Adm
配信開始:12:00~13:00(60分予定)
配信チケット価格:¥1,500
ツイキャス公式マーケットにてチケット発売

視聴期間:配信当日より14日間
※プレミア配信チケットをご購入いただくと、リアルタイムでの配信はもちろん、配信終了後も2週間の期間内は、何度でもご視聴いただけます。
パソコンやお持ちのスマホにてご覧いただけます。

[注意事項]
・映像や音声の無断転載NG。

※購入に関して詳細はこちら

一週間後の昼間。もうすぐです。リアルタイムで観れなくても14日間は視聴可能となっております。
そして、配信ライブのクオリティ-が高いと評判の池袋Adm。
画も音も最高だし、きっといいものになると思いますよ。1500円はお得だと思うんだよな。
皆様ご購入よろしくお願いします!


そして、6月発売予定ARAYAJAPANが仕掛ける3枚組コンピレーションアルバム『WE CAN DO 2020』にも参加します。
緊急事態宣言の元、リモートで録音しました。自信作となっていますので是非とも!
ご購入はこちらの通販、またはライブハウスが再開したら物販でも売っていこうと思います。
1800円でこんなミュージシャンが収録されてるんだからお得だと思うんだよな。

参加アーティスト
And Summer Club
arko lemming(おうちセット)
BAN'S ENCOUNTER
B玉
BUGY CRAXONE
the coopeez
DETOX
Dr.NY
Force of celluloid
Gigantics
Half-Life
HEADSETSHOP
kinderwalls
KMC&STUTS
Make The Pancake
MISHIRO
Panpas Fields Noise Found art
SABANNAMAN
SEAPOOL
swan
SYMBOL
Vital Club
ZOKUDAMS
The Zoobombs
あぶらすまし
ウィンブルドン総合優勝
大武俊一
岡山健二
クニタケヒロキ(THE FOREVER YOUNG)
小豆原一朗
鈴木実貴子ズ
せんいちろうBig Dick Drive
突然少年
ねじ梅タッシと思い出ナンセンス
ぷぷぷ
山本章人
らせん。
裸体

この他にも現在、楽曲製作をしておりまして。
怠け者の僕はつくづく周りの方々の行動力に支えられて、沢山のパワーもらってるんだな、と実感している日々です。
SNSや豆日記合わせて発表していこうと思いますんで、よろしくお願いします。
まずはワンマンを楽しみましょうね。いやー昼公演、起きれるかな(これが一番のネック)。
あと、今日、Twitterで開催された「オンライン・ポエトリー・ナイトフライト」二度目の参加してきました。今回は朗読ならでは、言葉の響きで遊びました。息ギリギリの中、がんばりました。
詳しくはchori君のツイッターで。
5/31の17時~23時が投票時間です。
あと少しですが、投票してくれたら嬉しいです。


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前回、
W大学に入学して音楽サークルに入るところまで書きました。
その音楽サークルの思い出を紐解いていこうかと思います。
自粛期間中、人に会わない代わりに過去を振り返ることが多くなったもんで。

なんとなくイニシャルでぼかしていましたが、このW大学は早稲田大学ではなく、和光大学です。
大江戸線、小田急線を使い、片道1時間半かけて町田の各駅一つ前の鶴川駅というところに降りて駅から徒歩30分。往復4時間。4時間といえば、黒澤明の名作『七人の侍』の長さ。

こんな不便な大学を何故受けたのかと言うと、一つは数学苦手な僕にとっては嬉しい受験科目が国語と英語だけだったこと、
そしてもう一つは松本太洋、吉田戦車、岩明均という尊敬してやまない漫画家が卒業していたことです。そう、当時の僕は漫画にとりつかれていました。
しかし、入学早々、音楽熱が激しく燃えていました。
4時間の移動でどうやって時間を潰そうか考えました。当時メガネをかけるか、かけないかの瀬戸際にいた僕は移動中の漫画は目が悪くなる、という理由で漫画は諦めました(なんて薄い漫画愛なんだ)。僕はカバンに大量のCDを入れてCDプレイヤーで毎日アルバム4枚聴いていました。何故かMP3など圧縮された音楽は良くないという拘りはありました。いずれにせよこれなら歩行中でも聴けるし、音楽に浸りながら眺める小田急線の車窓は絶景でした(大江戸線は地下鉄なので真っ暗)。そして小田急線に乗り換える新宿のタワレコ、TSUTAYAで毎日のように新しい音楽を貪りつくす日々でした。
大学に入ってから数週間ですっかり僕は音楽大好き人間に生まれ変わっていたのです。

大学入ってすぐに知り合った長野の訛りのタクローに誘われ、音楽サークルを見学しに行きました。
「フォーク連合」と「OTO」(おと)。
当時和光大学には音楽サークルが2つありました。詳しくは知りませんが何やら過去に遺恨があったらしく、不可侵条約でも結んでいるかのように接触を極度に回避していました。
「フォーク連合」はストロークスやリバティーンズなど当時の流行の洋楽コピーバンドとオリジナルバンドが割と多いとのこと、「OTO」はほとんどがメタルのコピー、とオリジナルバンドはほとんどいない。とのことでした。
僕の好みからしたら確実に前者だったのですが、タクローが「OTO」には知り合いがいるとのことで従いました。
OTOを訪れてまず目に飛び込んできたのは真っ黒に塗られた部室の扉です。決して入りやすい扉ではないです。
そして、どうみても優しそうには見えない先輩たち。むしろ怖い。
そして、狭い部室を除くと沢山詰まれたゲーム機とソフトの山。ぱっと見、音楽サークルとは程遠い景色。床にはメタル専門音楽雑誌BURRN!が散乱していました。


いざ対話してみると怖いと思っていた先輩方は優しく僕ら新入生を歓迎してくれました。
4年生は就活でほとんどいなく、3年生の方たちが7人ほどでいて、2年生は1人いました。きっと前年の反省を生かしたのでしょう。部の存続がかかっていたのです。
結局、1年生は10人くらい入部しました。ほどなくして半分程に減りましたが、なんだかんだ先輩たちと一緒にいると楽しかったので僕はOTOに身を置きました。


イケメンでマッチョのアツシさん(ギター)は大変女性にモテていました。Vネックのギターをくるぶしまで下げて弾きます。
そして風俗大好きのセンセイ(ベース)、同じく風俗大好きのマコトさん(ベース)。本当に女を喜ばせたいのならベースをやるべき、というよくわからない持論を展開していたお二人です。
恰幅がよくめちゃくちゃ歌のうまいヨーヘイさん(ギター、ベース、ピアノなんでもできる)。自分だけに分かる造語を作ることが多い人で「ぶるるん」は音楽雑誌BURRN!のこと、「ビールもんじゃ」はゲロのことを呼んでいました。
そのヨーヘイさんとバンドも組んでいた超絶ギターテクの方。。。名前が思い出せません。月日というものは残酷です。
たまにくる4年生のリョウタさん(ボーカル)は話し出したら1時間は止まらないくらい饒舌な方で、その一方、ビジュアル系のバンドのボーカルの顔もあり、バキバキのメイクで世界観バッチリ。結構人気もあったそうです。
同じくたまに来ていた幽霊部員的な2年生のマーシーさん(ドラム)。マーシーさんはその名の通り大麻所持していました。メタル好きの先輩の中では珍しくTHA BLUE HERBやenvyなどが好きで個人的には一番音楽の趣味が合った人です。
そして部長の久保さん(ドラム)。一度聞いたらどんな曲でも覚えてしまうプレイヤーであり、落ち着いて話す話も面白い方で、みんなに尊敬されていました。「YAGI」というハードコアなオリジナルバンドを組んでて、何度かライブを観に行ったのですが、毎回ライブ終わりに半裸のベーシストがベース4弦すべてを素手でぶちぶち!と切っていました。

サークル活動の内容は週に一度、軽く久保さんの挨拶があり、ライブ告知がたまにという感じの集会でした。部室やスタジオは自由に使えたのですが、みんなスタジオには入らず、ゲームばかりやっていました。先輩方といると楽しいので時間感覚もおかしくなり、一度も授業に出ない日も結構ありました。ダメな大学生の典型です。


音楽サークルっぽいことといえば、
夏に二泊三日の合宿があり、そこであみだくじで即席バンドを組み、ライブをするというイベントでした。
案の定、先輩方の好みでメタルが鳴り響いていました。
メタリカ、メガデス、ヴァンヘイレン、あとはよく知らない曲に合わせて拳をあげていました。でも、先輩の演奏も上手なのでそれなり楽しかったと覚えています。


秋になると学園祭。
和光大学の学園祭は全て生徒がやりくりします。学校、先生側はノータッチ。予算だけもらってあとはご自由に、という形式です。
サークル一同が集まる会議によって予算が振り分けられます。「○○万円必要だ!」とか言ってみんな必死で経費を訴えます。議長も生徒ですから、適当なものです。OTOも必死でなんとか予算を奪おうとします。この点、音楽サークルは強く、機材のことをよく知らない一般生徒たちをことごとく口車に乗せます。とはいえ、実際いくつかのアンプの修理に何十万もするものだし、必要は必要だったのですが、請求額はなかなかの額だったと記憶しています。新しいゲームソフトが増えていた気がします。

そんな体制で迎えた当時の和光大学の学園祭ははっきりいって全体的にクオリティは低いし、全然楽しくありません。
また、普通学園祭というと芸能人や芸人を呼んだりするものですが、どこかから見つけてきた地下プロレスとSMショーをみせつけられました。
おまけに深夜は警備も自分たちでやらなくてはいけなく、肝試しのように夜通し懐中電灯でかわりばんこの見回りをします。酔っ払いだらけで非常に治安が悪いです。どっかで何かしらが燃えています。過去に酔っ払って寝落ちしてそのまま死んだ学生のために花がおかれています。
しかし何のマニュアルもないので何か事件が起きてもなんの対処もできません。
僕は顔面にどこからともなく唾をかけられたこともありました。幽霊が出てくれた方がまだマシだと思いました。

OTOのライブは教室で行います。机椅子をどけて教壇の上に機材を運びます。狭い階段や廊下で重い機材を慎重に運ぶ作業はかなりの重労働でした。味わったことのない筋肉痛になりました。天井の蛍光灯に紫のセロハンを貼って目の痛くなるチープな照明を作ります。ライブが始まると床はアルコールまみれ、先輩方のタバコの煙で前もよく見えませんが、演じる側も観る側も全員サークルの人でした。当日急にOBの方が現れ、何故かパツキン看護婦のコスプレをしてシャウトしているヨーヘイさんの横でもの凄いギターテクを見せつけて、帰って行きます。自分たちが自分たちに見せる為に何十万もの予算がおりる。どっかの詐欺グループのような構図です。
OBの中にはOGの方々もいて、美人のRさんという方がいました。松雪泰子似の色っぽい先輩。むさ苦しい紫セロハンの中に紅一点。新入生の僕らは緊張して話せませんが、Rさんを拝められる。これだけでもOTOでよかったと若かかりし僕は思ったものです。

新入生の僕らもバンド演奏をさせてもらいました。数ヶ月前から初めてスタジオにも入って練習して、身内とはいえ、初めて人前でライブをしたのです。
タクローがボーカル。僕はギター。タカマサがドラム、本来ギタリストのスミオがベースという4人組。初心者らしく、ブルーハーツをやりました。タクローが命名したバンド名はシートベルツ。。。
18年間、バンドなんてやったことなかったので、演奏できるなんて信じられませんでした(音楽サークルなのに)
生まれて初めてのライブは緊張しまくりでしたが、身内ノリでも心臓はバクバクして、普段では出せない大きな音。あのライブの独特のスリル。忘れられません。
4年間の大学生活でも1年の学園祭は非常に思い出深いです。

「俺、やっぱりギタリストだから」という理由でスミオはすぐに脱退しました。その後スミオは久保さんのハードコアバンドYAGIの正式メンバーとなりました。俺なんかよりめちゃくちゃギターが上手でした。素人同然の僕らに付き合ってベース弾いてくれるなんて、いい奴です。
それから、高橋くんというビジュアル系好きの新ベーシストが加入し、僕らシートベルツは定期的にスタジオに入るようになりました。みんながゲームしてる後ろで僕はいつもエレキギターをペケペケ弾いていました。こんなことはOTOでは珍しいらしく、「おまめ(当時のあだ名)はギターにとりつかれてる」「ギターが好きすぎて一緒に風呂はいってる」と言われたりしました。


僕らが先輩の立場になると、新入生歓迎のために頻繁になんと学食の前でゲリラライブを決行。昼下がり、下手くそなりにアジカン、アシッドマンをやりました。当時売れていた音楽をまるで自分たちのオリジナルかのように。ドヤ顔で。
卒業後に知るのですが、当時の和光大学には浜野謙太、THE BAWDIESのメンバー、石崎ひゅーい、吉田山田の山田くん、がいました。どこかしらで見られていたと思うとゾッとします。


メタル好きの先輩たちが卒業してからはOTOのメタル色は徐々に薄れていきました。
ロックンロール好きの後輩が入部したら一緒にミッシェルもやる。
女にモテたいチャラい後輩が入部してきたらSUM41のコピーバンド「MAME41」もやりました(モテたい気持ちは僕も変わらなかった)。
しかし、いつになっても観客はサークルの内部だけだし、ゲームの種類は豊富になっていく一方。モテることもない。


僕らが3年生になるころ、タクローは部長になりました。彼は楽器も弾けず、ボーカルのくせに歌が下手でしたが、人望はあったのです。
タクローとバンドを組んで3年。
僕はそろそろ時がきたかと、密かに作っていたオリジナル曲をタクローに渡しました。「ららら」だけの歌詞のない状態で。
タクローから「感動した!全米が泣いた」とよくわからないメールが来ました。そして、タクローは数ヶ月後、歌詞をつけてくれました。
そして僕ら4人は以前よりも沢山スタジオに入りました。僕は作曲、タクローは作詞をしてオリジナル曲も増えていきました。
4年生になって周りが就活に励んでいる中、僕から「そろそろバンドやってる場合じゃないかも」という話も持ちかけました。常日頃から流されるがままがモットーのタクローが珍しく、僕に「音楽はやめちゃダメだ!」と言ってきました。説得されて結局、僕は就活をせず、バンドでやっていく決心をしました。多分、彼がいなかったら今頃ライブハウスとは縁のない世界にいたでしょう。

そして、オリジナル曲も揃った頃、下北沢屋根裏という外のライブハウスの門を叩きます。
今はなき、昼間オーディション。このオーディションに受かれば定期的に出演が出来るのです。
結果、
落ちました。
悔しくて悔しくてたまらなかったです。
この1年間の頑張り、そしてサークルでの今までが否定されたかのようで。


途方に暮れて、バンドが停滞していたある日、あの美人のOG、Rさんから突然メールがきました。メールアドレスなんて教えた覚えもなかったし、そもそもまともに話したこともありません。
「曲作れる人を探してるんだけど、一緒にやらない?」
とのことでした。
秒速で「やります!」と返信しました。
平日昼間、池袋のスタジオ。紫セロハン越しでしか拝めなかった憧れのRさんと二人で会いました。淡い気持ちと共に。
白昼堂々と会ったRさんの印象
あれ?
紫セロハンによる照明マジックが無くなったのか、男子率90パーセント以上のむさ苦しいOTOの中にいたからか。
そして何よりメガネをかけ始めた僕に、Rさんの顔が初めてクリアにはっきりと映ったのです。全然、松雪泰子ではなかったです。
しかし、そんなのは関係なくて、Rさんと曲を作るのが目的なんだ、これはやらなくては。
楽器の出来ないRさんはアカペラでオリジナル曲を歌い出します。
あれ、
なんだか、すごく、
怖い!
上手い、下手というよりも、不協和音に近く、殴りつけられては崖から蹴り落とされたような、女性の怨念のような歌詞、底知れぬ闇のうめき声みたいなものを感じました。
それなりにコードを添えれば良いだろうと甘く考えていたのですが、なんのコードも思い浮かびませんでした。
バンドでそれなりに作曲していたけど、僕のちんけな自信は打ちのめされました。
ダメだ、
俺はやっぱり音楽の才能なんてないんだ。


そんな自暴自棄になりかけた20代前半、僕は和光大学を無事卒業しました。
そして、音楽のやる気もサークルもなくなった僕は実家でゲームをしながらラジオを聞くのが唯一の楽しみとなる日々を送ります。


その後、男友達5人で行く卒業旅行の屋久島で大自然の中、カーステでフィッシュマンズやオアシスを聴き、また音楽熱がこみあがるのですが、その話はまた今度。
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