「愛し愛される」と意図することが重要とアラブ君が言う。

2017-11-17 00:54:45 | ガイドと質疑応答 記事
最近脂肪に関する記事(「脂肪のスピリチュアル的意味と現代社会が脂肪を敵視する理由をアラブ君に語ってもらう。」「脂肪とお金と人間関係、うまい活かし方。脂肪に貯め込まれた感情エネルギーを自分で活用する。」)とか本来の自分の流れに関する記事とか、結構自己肯定に関わってくるような感じの記事が多くなっていました。

スピリチュアルでは、「愛のエネルギー」とか「許す」とか結構言いますよね。
この「愛」とか「許す」とかいうことについて私は常日頃疑問に思ってることがあります。

人はそもそも愛でできているとかいうことをこの間アラブ君も言ってましたが、たとえばですね、生い立ちが過酷で、人からの無条件の愛を知らず、人を信頼する事ができにくい人に、「愛しなさい」「許しなさい」って言うことは有益なんですかね?
「愛しなさい」「許しなさい」はスピリチュアルにおける正論だとしましょう。
しかし単純にそれを振りかざしてもいいことはあまりない気がする。
まあ大体にして正論というのはそういうものです。

何で読んだのか忘れましたが、「愛することが先か、愛されることが先か?」というような議論があって、私はそれがとても印象に残っています。
つまり「人には生まれながらに愛する能力が備わっているのか、それとも愛されることによって愛することを学ぶのか?(つまり後天的に備わる能力なのか?)」という議論です。

私はこれ、どちらも当てはまるんだと思います。
愛する能力というのは、言語能力に近いものではないかと思います。

言葉を喋ることは生まれながらに人に備わっている能力ですが、周りに既に言葉を喋る大人がいて、それを学習することでその能力が開花しますね。
(まあたまに前世の記憶とかなんかでいきなり言葉を喋る人もいるみたいですが)
愛することもそれと同じで、生まれながらに備わっている能力なんだけども、周りに既に愛することをする大人がいて、それを学習することでその能力が開花するんじゃないか?と。

愛する事も言葉を喋ることも人にとっては生来のもの、本能に近い。
しかし学習する機会がなければ能力をなかなか発揮できず、苦しい状態になる。
欲求だけがあり発散する方法がわからない、というような状態になる。

だってセックスだってそうですよね。
ただセックスするだけなら、だれにも教わらなくてももしかしたら自然にするようになるかもしれません。
が、満足いくセックスをしたかったら、お互いに教え合わなくてはならない。
自分の性についてだって、教わらなければならない。
オーガニズムの迎え方を知らない女性は沢山いるそうですし。

出産だってそうですよね。
妊娠したらそりゃ産むしかないわけなんで産むでしょうけど、うまくいかなければ命を落とすかもしれない。
先人たちの経験と教えと手助けがあって初めて安心な状況でスムーズに産めるわけです。

人間にはそういう風に、
「生まれつき備わっている」
けど
「学習しなければ開花しない」
能力が結構あって、これのせいで話がややこしくなっている気がします。
愛する能力はこのややこしさの最たるものだと思います。

ということは、愛することの学習環境が今まで過酷だった人にいきなり「愛する」「許す」とだけ言っても、それは何も知らない少年少女にいきなり「子供を作って産め」って言ったりとか、生まれたばかりの赤ちゃんにいきなり「喋れ」って言うのと同じことなのではないでしょうか?

私は、愛するには愛される経験が必要だと思う。

「愛」や「許し」という言葉が流行ったせいで、「愛せない」「許せない」自分を責めてしまう人が増えているように思います。
というか私の周りにちらほらそういう話があります。

「愛せない」「許せない」と悩む前に、果たして自分が「愛された」「許された」経験があるのかどうか? と考えてみるのもいいのではないでしょうか。
特に「許された」経験というのは、意外にもほとんどの人が、ないのではないでしょうか?
だって日本人って、わざわざ「お前を許す」と言うほどのトラブルになる前に、うやむやにすることのほうが多いので。
家族間ですらそうですよ。

愛されることについてだって、過酷な家庭で育った人は知らないことが多いと思います。
私は旦那さんと結婚するまで、育った家庭環境で世界がどれほど違うふうに見えているかということを知りませんで、旦那さんの話を聞いてびっくりしたんですよ。
私の周囲には、育った地域の問題もあり、類友ということもあり、同じような環境の人がそれまで大半だったわけです。

私に見えていた世界というのは、たとえば誰かが
「昨日家族と殴り合いの喧嘩して超むかつく」
って言ったら
「家族ってそうだよねー」
と返す世界です。そして誰かが
「昨日家族と旅行に行って超楽しかった!」
と言ったら
「え、家族なのに!?」
と言う世界です(笑)

旦那さんに見えている世界というのは、たとえば誰かが
「昨日家族と殴り合いの喧嘩して超むかつく」
って言ったら
「え、家族なのに!?」
と言い、誰かが
「昨日家族と旅行に行って超楽しかった!」
と言ったら
「家族ってそうだよねー」
と返す世界です(笑)

これほど違う世界に住んでいる2人の、「愛する」「愛される」「許す」「許される」の定義が同じなわけがないんですよ。
経験値だってまるで違うに決まっています。

自分の「愛する」「愛される」「許す」「許される」の経験について考えてみて、
「そういえば愛されたり許されたりしたことがないかもしれない」
という衝撃の結論に辿り着いた場合、「愛する」「許す」じゃなくて、「愛される」「許される」ことから始めてみてもいいんじゃないでしょうか。

十中八九当たってると思いますが、そういう人は、誰かに向かってじゃなくてもいいんで、独り言でいいんで、
「愛して」
って言ってみてください。
言えないですよね?
愛された経験がない人にとって、この言葉は鬼門ですから。
私は初めてこの言葉を言った時号泣しましたからね。

まず「愛される」成功体験をする、それから自分が「愛する」ことについて考えてみる、ということでもいいと思います。
というか、多分殆どの人は無意識にその経緯を辿っているはずです。

「愛される」成功体験ってどうするんじゃって話なんですが、まず犬とか猫とかでもいいと思うんですよ。
ブルース・モーエンだって、「愛」のエネルギーを感じるには自分が「愛」を感じるシーンを思い出せ、それは自分の犬や猫のことでも構わないんだって書いてます。
それから、自分の犬や猫に愛情を向ける部分を好きだと意図し、一部分でもいいんで自分を愛していると意図してみる。
意図するとは「宣言する」と置き換えてもいいです。
他人を愛する前にまずは自分ですよ。
「愛する」とか「許す」とかいうのはそこから先の話であって、いきなり段階すっ飛ばし過ぎなんじゃないかと思うんですよね。

こういうことを書くと
「愛する」「許す」というのは人間関係のことではなく、キリスト意識的な博愛のことだ
みたいな反論がきそうなんですけど、人間やりに地球に来てるくせに人間としての愛をすっ飛ばしてキリスト意識の愛のことを語られてもねっていうのが私のスタンスです。
キリスト意識の愛だけが重要なら人間を体験する意味は全くない。
(っていうかキリストも仏陀もちゃんと人間としての愛やってたじゃん)

ここらについてアラブ君に聞いてみますね。
脂肪の時も似たようなこと書きましたが、アラブ君の見解がどうであれ、私の意見は上記の通りで変わりません。


私「ではアラブ君今日もお願いいたします。この記事に書いてる「愛する」「愛される」「許す」「許される」ことについての私の意見、これはアラブ君から見て正しいかな?」

アラブ君「正しいよ」

わ「あらまー珍しいわー。さくっと肯定したねー」

ア「キリスト意識と人間の愛は違うものだよ」

わ「人間の愛をまずはやることが大事なんじゃないかなあ」

ア「キリスト意識から派生したのが人間の愛なんだから等価だよ」

わ「ああ、どっちも大事なのね。どちらかが欠けたら駄目なのね」

ア「どちらかが欠けるなんてことはありえない」

わ「ほお…。高次存在から見たらそうなのね。人間には、たとえどっちかだけをやるにしろ大分大変なことに思えるんだけどね」

ア「その辺りのことを取り戻したいと思ってるわけなんだよ」

わ「取り戻す? ああ、螺旋に絡んでくる話なのね、これは」

ア「そういうことだね」

わ「じゃあ脂肪と並んで重大なテーマなのね、これ。あーなんか『人間にとって大切な脂肪と愛』みたいなタイトルで本出したら売れそうwww」

ア「キリスト意識から派生したのが人間の愛なんだから、人間にとっての愛をやることはキリスト意識に直結しているよ」

わ「ふーん。その愛は、ブルースも言っているように、犬や猫との愛でも構わないんだよね?」

ア「もちろん」

わ「男女間の愛でも構わないし、友人や家族との愛でも構わないよね?」

ア「そこに欲が入るものは違うよ」

わ「ん? ああ、愛欲は違うってことか。見返りを期待したりしてると違うってことね」

ア「犬や猫との間の愛の方が純粋だよ。犬や猫への気持ちを思い出したほうが、人間との間の愛はうまくいくね」

わ「それは…私は凄くわかるんだけど…なんかこう、身も蓋もないなw まあ、犬や猫に対する愛っていうのは我ながら驚愕に値すると思ってるよ。ただそこにいて、心地よさそうだったり楽しそうだったり嬉しそうだったりするとそれだけでこっちも嬉しくて、可愛い、なんていい子だ、いてくれてありがとうって思うもんね」

ア「それを自分の周りの人間にやるといい」

わ「まあそりゃそういうことしたら愛されるだろうね。あれ、なんか期せずして愛され方講座みたいになってるじゃん。さすがww じゃあアラブ君流の「愛される人間関係の作り方」っていうのは、
1.犬とか猫とかを飼う。
2.犬とか猫とかに向ける気持ちを周りの人間にも向ける。
ということですかね」

ア「違うよ」

わ「まずはペット可物件に引っ越さないとって人の方が多いだろうしねえ」

ア「愛すると愛されるには区別はないんだよ」

わ「ああ、「愛される」っていうことに特別目を向けるってこと自体が既に違うってことかな」

ア「そういうことだね」

わ「それも経験しないとわからないことだよね、人間にはね。あ、でもさー、そういえば私もね、「愛したい」とか「愛されたい」と思ってた時には一向に良い出会いがなくて、「愛し愛されたい」と思った瞬間に旦那さんに出会ったんだったよ。そういうこと?」

ア「それは一例に過ぎないよ」

わ「男女間の愛に限定すんなってことかな」

ア「その通り」

わ「じゃあ自分の周囲の全てについて「愛し愛されたい」って意図していると素晴らしい結果に繋がるかな?」

ア「その意図自体が素晴らしい」

わ「おお褒められた。今日なんか凄いなー明日雪でも降るんでまいか。ん? 別に降っても普通か。もう11月半ばだもんな…」

ア「「愛する」「許す」と一側面に目を向けてしまうと本質からずれていってしまうんだよ」

わ「それは私が上で主張してることと大体同じ意味ですかね?」

ア「そうだね」

わ「じゃあ今まで「愛する」ことにばかり気持ちがいってて、実は「愛される」経験が足りなかった人は、そっちを補うようにしていったらいいんだよね」

ア「それでいいよ」

わ「私も「自分の周囲の全てについて愛し愛されたい」っていう意図を今日からやってみよう。今日はちょっと質疑応答短いけど、聞きたいこと聞けて満足したからもう寝るね。ありがとう~」



ということでした。
思いがけず全肯定をいただけて多少驚いております…。

あ、もう少し聞きたいことありました。
ちょっと呼び戻してみます。


私「今まで自分が「愛する」ことに偏ってたのか「愛される」ことに偏ってたのか、それともバランスが取れてたのかはどうやって見分けたらいいの?」

アラブ君「バランスが取れているなら周囲は円満なはずだよ」

わ「おお。じゃあ私は今バランスが取れてるのね」

ア「まだ取れてないよ」

わ「え、今周囲が円満なら取れてる言うたやんww」

ア「君の周囲はまだまだ円満じゃないよ」

わ「そりゃー円満の定義の摺合せが必要なようですなー。夫婦喧嘩よくするでしょってこと?」

ア「自分で考えて」

わ「おいww まあいいや、じゃあ私はどっちに偏ってるのかな。愛する?」

ア「そうだね」

わ「ふーんもっと愛されていいのかー。何それパラダイス?」

ア「夫からもっと愛を受け取れるはずだよ」

わ「それってお金のこと?」

ア「その通り」

わ「あーなるほどね。お金は感情エネルギーだからね。つまり旦那さんはいっぱい愛をくれてるのに、私が「愛する」にフォーカスしちゃってるから受け取れてないってことなのね」

ア「そういうことだね」

わ「それでお金の問題を一生懸命やってるってことがあるのね、バランスをただすためにね」

ア「それ重要だから早く正して」

わ「わ、わかりました(汗) で、私は今答え聞いちゃったけど、自分がどっちかわかんない人はどうすればいいのかな?」

ア「「もっと愛する」「もっと愛される」と意図してみた時の感情で判断できるよ」

わ「嫌な気持ちになった方が過剰な方ってこと?」

ア「そうだね」

わ「なるほどー。特にどっちも嫌な気持ちにならなかったら?」

ア「どちらもまだ意識できてない」

わ「辛辣だなww まあ、どちらもそれほど意識したことがないっていう人も案外いるんだろうね。なるほどよくわかったよーありがとう」


ということでした(2回目)。
私も確かに「もっと愛する」より「もっと愛される」の方が気分よくなりますねー。

今日の記事を書いた動機は上にも書いた通り、この問題で自分を責めてしまう人が周囲に散見するからなのですが、自分を責めるのは辛くてしんどいだけですので、そういう方がいらっしゃったら是非視線を転換してみてください。
それではおやすみなさい。

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