今朝ひぐらしが鳴いていた。いつも5時に起きて近所の公園に散歩に行くのが日課になっているが、ひぐらしの声はいつ聞いても物悲しい。今月初めに愛犬を亡くし悲しみよりも寂寥感がいまだに消えず、ペットロスということを聞いてはいたが、これほど堪えるとは思ってもいなかった。14年余をそれこそ寝食を共にし、毎日散歩していたものが、ある日、突然、存在していたものが消えてなくなるというのは、理屈ではわかっていても、実感として受け入れられないのである。
世界ではテロで毎日相当の死者が出ており、アフリカでは飢餓で子供が死んでいく、日本でも大雨の災害で多くの犠牲者が出ているが、それはそれで心が痛むが、それらの報道に接して寂寥感を持ったことはない。人間と犬と同列に扱うなとお叱りを受けそうだが、所詮は他者の死は他人事なのである。だから水害で親子兄弟を失った人びとの悲しみは察するに余りあるが、非情のようだが遠い出来事なのである。
つい先日、新聞で報道されていたが、4万年前の犬の化石が発見されそうだ。狼と枝分かれし、犬として人間の家畜になり、いわば人間と一緒に暮らした最古の動物が犬なのである。だから遺伝子に人間との交流が組み込まれており、それほど調教しなくても人間に従順なのかも知れない。
祖父母、両親との死別も経験しているが、幼なかったり、若かったりして、悲しみを乗り越えることはできたが、自分が老境になってみると、きのうまで存在していたものが、今日は存在していない、抱いた温もりが鮮明なのに今は冷たくなっている、その理不尽さ無情さにからだ全体がついて行けない、納得できないのである。
いまのところ子供たちは健在であるが、病気や事故で子供たちが死んだら、その死を受け入れることができるかどうか、とても自信はない。やはり親は子供より先に死んで行くべきである。いまの寂寥感以上のものに堪えるだけの頑強な神経はもちあわせていない。人間余り長生きはするべきではない、長生きが幸せというのはつくりばなしなのである。