生活の質(クオリティー・オブ・ライフ=QOL)を高める医療のあり方が語られて久しいが、最近では死の質(クオリティー・オブ・デス=QOD)が注目されている。寝たきりで本人の意思ではなく、生かされている医療を問題視する人びとが増えてきたのである。脳梗塞などの疾患で意識がなく、食事も経口で行えない患者の家族に、胃に穴をあけ栄養を注入する胃瘻(いろう)をするかどうか医師から問われ、ハイと答えたばかりに延命に手を貸した家族の悩みを聞いたことがある。医師にいわせると、患者の命を延ばす治療を行うことは医師の使命だというが、それは医師の側の論理であり患者および家族の論理は無視されているのである。たとい患者がどんな状態であろうが、物理的に呼吸し心臓が拍動していればそれで命は救われている、そう思っているのであろう。QOLどころかQODさえ無視されているのである。
北海道の病院長夫妻が終末期の実態を探ろうとスウエーデン、オランダ、オーストリア、米国、豪州諸国をめぐって調査した報告によると、日本という国がいかに遅れているか、というより、あまりに建前で医療を行っているかがよく分かった。
スウェーデンでは、肺炎は高齢者の友達なので抗生剤を使わない。おしっこが出なくても利尿剤に手を出さない。看護師が血圧や尿量を調べることもない。その外にも行わない医療として、降圧剤、点滴、経管栄養、血液透析、人工呼吸器装置を挙げたそうである。
豪州の特別養護老人ホームでは、口から食べるだけ、飲むだけで、食べなくなれば約2週間で亡くなるので、寝たきり老人はいないそうである。
オーストリアでは食べないのも患者の権利だと断言し、米国の施設ではスプーンを口元に近づけない、つまり食事介助をしない方針だそうである。欧米で点滴や経管栄養を行わないのは、尊厳の尊重、すなわち倫理であり、本人の意思、医療費の抑制の三点が重要な要素だというのである。
日本では命というと水戸黄門の印籠のごとく誰もが平伏し、議論することも許されない風潮があり、心ある人たちも沈黙しているほかないというのが現状である。小中学校でもいじめによる自殺があると校長が出てきて、命の大切さを教えてきたが、これからもさらに命の大切さを教育していきたい、などと歯の浮くような手垢に塗れたことばしかいえないという情けなさである。
西洋のキリスト教文明では人間は神が創ったもの、たとえ土の中の塵から創ったとしても、神が鼻から息を吹き込み「いのち」を与えられたのだから、自分の責任で与えられた人生を全うしよう、そういう意識が強いのであろう。病気だからといって医師になにもかも丸投げするのではなく、生きるも死ぬも自分の意思で決める、それが尊厳だというのであろう。
医療費は年々増加の一途をたどっているが、その一番の根元は老人医療費の伸びである。高齢化すれば病気に罹るのは当たり前で、インフルエンザと聞けばワクチンを打ち、風邪ぐらいですぐに点滴、喉の薬、解熱剤と至れりつくせりである。足が痛いといえば湿布薬を大量に処方し、家には湿布薬が溢れ返っているそうだ。
かくいう私も、4~5年ほど前に一過性の脳梗塞を起こし、その後なんの異常もないが、未だに血液さらさらの薬、コレストロールの薬、中性脂肪を減らす薬、降圧剤など毎日飲まされ、挙句の果てに年1回のMRIの検査、血液検査など若い医師のいうとおりに医療費の増大の一翼を担っている。でも家人には脳梗塞で倒れたら一切の延命治療はしないでくれといってある。家人も同意見だから守ってくれると信じているのだが。