もの忘れ名人の繰り言

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生死は自分で決めたい

2016-01-29 15:16:32 | 日記

生活の質(クオリティー・オブ・ライフ=QOL)を高める医療のあり方が語られて久しいが、最近では死の質(クオリティー・オブ・デス=QOD)が注目されている。寝たきりで本人の意思ではなく、生かされている医療を問題視する人びとが増えてきたのである。脳梗塞などの疾患で意識がなく、食事も経口で行えない患者の家族に、胃に穴をあけ栄養を注入する胃瘻(いろう)をするかどうか医師から問われ、ハイと答えたばかりに延命に手を貸した家族の悩みを聞いたことがある。医師にいわせると、患者の命を延ばす治療を行うことは医師の使命だというが、それは医師の側の論理であり患者および家族の論理は無視されているのである。たとい患者がどんな状態であろうが、物理的に呼吸し心臓が拍動していればそれで命は救われている、そう思っているのであろう。QOLどころかQODさえ無視されているのである。

北海道の病院長夫妻が終末期の実態を探ろうとスウエーデン、オランダ、オーストリア、米国、豪州諸国をめぐって調査した報告によると、日本という国がいかに遅れているか、というより、あまりに建前で医療を行っているかがよく分かった。

スウェーデンでは、肺炎は高齢者の友達なので抗生剤を使わない。おしっこが出なくても利尿剤に手を出さない。看護師が血圧や尿量を調べることもない。その外にも行わない医療として、降圧剤、点滴、経管栄養、血液透析、人工呼吸器装置を挙げたそうである。

豪州の特別養護老人ホームでは、口から食べるだけ、飲むだけで、食べなくなれば約2週間で亡くなるので、寝たきり老人はいないそうである。

オーストリアでは食べないのも患者の権利だと断言し、米国の施設ではスプーンを口元に近づけない、つまり食事介助をしない方針だそうである。欧米で点滴や経管栄養を行わないのは、尊厳の尊重、すなわち倫理であり、本人の意思、医療費の抑制の三点が重要な要素だというのである。

日本では命というと水戸黄門の印籠のごとく誰もが平伏し、議論することも許されない風潮があり、心ある人たちも沈黙しているほかないというのが現状である。小中学校でもいじめによる自殺があると校長が出てきて、命の大切さを教えてきたが、これからもさらに命の大切さを教育していきたい、などと歯の浮くような手垢に塗れたことばしかいえないという情けなさである。

西洋のキリスト教文明では人間は神が創ったもの、たとえ土の中の塵から創ったとしても、神が鼻から息を吹き込み「いのち」を与えられたのだから、自分の責任で与えられた人生を全うしよう、そういう意識が強いのであろう。病気だからといって医師になにもかも丸投げするのではなく、生きるも死ぬも自分の意思で決める、それが尊厳だというのであろう。

医療費は年々増加の一途をたどっているが、その一番の根元は老人医療費の伸びである。高齢化すれば病気に罹るのは当たり前で、インフルエンザと聞けばワクチンを打ち、風邪ぐらいですぐに点滴、喉の薬、解熱剤と至れりつくせりである。足が痛いといえば湿布薬を大量に処方し、家には湿布薬が溢れ返っているそうだ。

かくいう私も、4~5年ほど前に一過性の脳梗塞を起こし、その後なんの異常もないが、未だに血液さらさらの薬、コレストロールの薬、中性脂肪を減らす薬、降圧剤など毎日飲まされ、挙句の果てに年1回のMRIの検査、血液検査など若い医師のいうとおりに医療費の増大の一翼を担っている。でも家人には脳梗塞で倒れたら一切の延命治療はしないでくれといってある。家人も同意見だから守ってくれると信じているのだが。


関西と近畿はどっちが広い

2016-01-20 10:12:58 | 日記

いつだったか関西地方と近畿地方はどっちが広いのかと聞かれ、返答に窮したことがあった。そこで思い立って調べて見たら、関西とは逢坂の関の西をいい、関東はそこから東という意味だったことがわかった。逢坂の関とは三大関所の一つであり、残りの二つは不破の関、鈴鹿の関である。その昔は山城(京都府)、大和(奈良)が中心であったから畿内とは山城、大和、河内、和泉、摂津の五か国をいい、現在でいえば京都府、奈良県、大阪府である。これに畿外の兵庫県、滋賀県、和歌山県を加えた2府4県を関西地方と呼んでいるそうだ。そして近畿とはこれに三重県を加えた2府5県をいうのが通例であるらしい。したがって近畿のほうが三重県分だけ関西より広いことになる。因みに近畿とは王城に近い直轄地の称で「畿」という言葉も近いとう意味だそうだ。

ところが厄介なことに関西広域連合という日本の行政機構があり、これによると福井県、三重県、鳥取県、徳島県を加えた2府8県を関西と定義しているので、そうすると関西の方が近畿より広くなる。

逢坂の関は山城の国(京都)と近江の国(滋賀県)の国境にあり、東海道、中山道の二本がこの関を越えるため交通の要衝である。百人一首でも「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸」は有名であり、「夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 清少納言」もよく知られており、二首も詠まれているほど周知の関所だったのである。

ところで、逢坂の関の東が関東というのはあまりにイメージとかけ離れているようで納得しがたいとは思うが、当時の都の人びとにとっては関東など野蛮人が住んでいる程度の認識であり、琵琶湖は都に近い湖だから近江と名付けたくらいで、浜名湖はそれよりはるかに遠い湖であるから遠江(とおとうみ)と呼んだように箱根の先など思いも及ばなくて当然であろう。

現在は関東とは1都6県、茨城、千葉、栃木、群馬、埼玉、東京、神奈川である。

それとよくわからないのが関西弁である。一番強烈に印象に残っているのが、戦後すぐに流行った笠置しづ子の「買い物ブギ」という歌で、東京育ちには関西弁とはなんとも不思議な日本語だと思ったものである。一般的には関西弁とは、大阪弁、京都弁、神戸弁、播州弁などをいうらしいが、それぞれのイントネーションや語彙に似ているところが多いことからこれらを総称して関西弁といっているらしい。

もう一つ別にあるのが上方言葉がある。上方とは関東から京都、大阪を見た呼び方で、上方言葉とは京都、大阪を中心に使われた言語をいう。上方歌舞伎、上方落語、上方浄瑠璃、上方文学などという使い方もある。

江戸では江戸弁が使われ、これは江戸の町人言葉である。江戸城の東側に商人、職人などの町人町が広がりここを城下町、略して下町と称した。現在では東京の台東区、千代田区、中央区から隅田川以東の地域をいうが、江戸時代は本所、深川あたりを下町と呼び、現在の文京区、新宿区あたりの高台を山の手と呼んだ。山の手の女性が使った「ざーます」言葉を山の手言葉と呼び、下町言葉と区別した。いまでもこれらを総称して東京弁と呼ぶが、全国に広まった標準語とはかなり違う言葉である。

夏目漱石は文京区牛込に住んでいたからちゃきちゃきの東京弁である。『坊ちゃん』の一節に「ぷういといって汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。尤もこの熱さでは着物はきられまい。略」何とも歯切れがいい文章である。こういう文章は大阪育ちの司馬遼太郎には書けない。

しかし、谷崎潤一郎の『細雪』の大阪船場言葉は上品で大阪弁とはかけ離れた言葉である。言葉とはそこに住む人びとの息遣いといえそうである。


北朝鮮の核施設を空爆で破壊すべきである

2016-01-07 10:47:36 | 日記

昨年の1月はいきなりパリで無差別テロが起こり、銃の乱射で130人という人命が失われ、多くの負傷者が出た。ところが今年は年初から中国の株価暴落を受け日本の株式市場も大暴落し、不吉な予感が走ったが、続いてサウジアラビアとイランが国交を断絶し、湾岸諸国もサウジに追従し始めた。中東に石油の75%を依存している日本にとってオイルショック以来の危機だが、さらに追い打ちをかけて北朝鮮が水爆実験を発表した。正月明け6日間でこれだけの異常事態が発生したのはまさに開闢以来であろう。

思えば、昨年は安全保障法案をめぐって戦争法案だの憲法違反だの、のどかな論争行われていたが、国際状況がこれほど緊迫しているのに、4日から開かれた国会では相も変わらず党利党略に明け暮れているのだから救いがない。

仮に、サウジアラビアとイランが開戦したらホルムズ海峡は封鎖され日本の石油を積んだタンカーは一隻も通れなくなる。昨年、ホルムズ海峡の封鎖は夢物語だとせせら笑っていた民主党、共産党などの野党は己の無知を国民に詫びるべきであろう。サウジアラビアなどのアラブ人とイランのペルシャ人とは全く異なる民族であり、イランはかつてのペルシャ帝国であり、戦いには歴史を持っている国なのである。紀元前のはるか昔、北方の白人系民族アーリア人がアフガニスタンからヒンドゥークシュ山脈を越え、一方はインドへ侵入し、一方はイランに侵入したのでアラビア人とは異民族なのである。1979年2月にイラン・パフラヴィー朝に対しフランスに亡命中のホメイニ師が革命を起こし、イスラム教に回帰するイスラム革命が起こったが、これは国民革命でもあり、イスラム国の王族が統治する国々には脅威でもあった。他民族ではあるが宗教はイスラム教であり、イランはシーア派である。サウジアラビアはスンニ派であり、イラク、シリアなどで分かる通りスンニ派とシーア派は互いに相容れず紛争の種にもなっているのは周知の事実である。

今年は中国、サウジアラビア、イラン、北朝鮮と問題山積の国々の揃い踏みの感があるが、果たしてどうなるのか予断を許さない。

北朝鮮の水爆実験は失敗だという説もあるが、その可否はともかく、評論家の多くは実験はアメリカとの対話を促すためのものだという従来の北朝鮮の方針を踏襲しているものが多いが果たしてそうであろうか。金正日の時代はそうであったが、金正恩体制に代わって明らかに変質したのではないだろうか。中国との太いパイプを持つ叔父を粛清したのを手始めに政治、軍事の長老を次々に粛清し、権力基盤を固めている。これはナチスの親衛隊のような組織をつくり、若手の戦争も政治も知らない世代が権力を握っているのであろう。そうだとすると金正恩は単なる傀儡であり、中国、アメリカを向こうに回し、軍事的に恐喝する方向へと舵を切りつつあるのではないか、まさに夜郎自大な国なのである。

ここは中国、ロシアと話し合い、水爆を完成させる前に核施設を攻撃して破壊すべきである。テロ組織が核を持つことを恐れているが、テロ国家が核を持っていることの方が遥かに危険である。

かつてイランが核開発したときイスラエルが核施設を空爆して破壊したが、北朝鮮はイランより遥かに危険な国なのである。金正恩体制が続くかぎり北朝鮮の人民は貧困から抜け切れず、飢えからも逃れられないのである。

やるなら今でしょ!