もの忘れ名人の繰り言

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羽黒山の五重塔

2015-09-23 16:54:12 | 日記

稲穂が黄金色に輝く新潟から山形を旅してきた。目的は羽黒山の五重塔を観ることであったが、月山、鳥海山の眺望も素晴らしく、東北の秋景色を満喫できた。

出羽三山は古くから修験道の山として信仰が篤く、いまでも夏は羽黒山から月山を経て湯殿山への修験ルートは賑わっているそうである。羽黒山は現世、月山は前世、湯殿山は来世を司っているとかで、死と蘇りの霊場として修験道の人たちだけでなく、一般の人びとにも信仰されているそうだ。

崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され、第三皇子であった蜂子皇子(はちこのおうじ)は馬子から逃れるため丹後の国から海路で現在の山形県鶴岡市に着き、羽黒山に登り、出羽三山を開いたといわれている。羽黒山の山頂には蜂子皇子の霊が祀られている。奈良時代の都から見れば越後の先は未開の地であったろうに、よくもここまで逃れてきたものだと思うと同時に、ここまで来なければ討ち取られてしまう蘇我氏の勢力の強さにもいまさらながら感嘆してしまう。

羽黒山の五重塔は平安時代中期に平将門によって創建されたといわれているが定かではないらしい。ともかく東北最古の塔であることは事実であり、昭和41年に国宝に指定された。樹齢千年といわれる杉に囲まれ、22.2mと高さの白木の塔は雪深い山の中によくも建てられたものだと感慨もひとしおである。五重塔から少し登ったところを右に折れ、400mほど行くと、芭蕉が奥の細道で宿泊したという別院紫苑寺の跡、通称南谷という当時の景勝地があるが、いまは往時の景観はないらしい。「ありがたや雪をかほらす南谷」はここで読んだものである。月山の万年雪の匂いを風が運んできたのであろうか、6月4日(現在の7月23日)に句会を開いたので北国でもかなり暑く、雪渓から吹き下ろしてくる風はよほど心地よかったのであろう。

「奥の細道」によると、ここに来る前に立石寺に立ち寄り「閑さや岩にしみ入蝉の声」を詠み、最上川の大石田で句会を開き「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んでいる。そして羽黒山に登ってきたわけだが、五重塔には一言も触れてない。芭蕉は徳川時代の元禄年間であるからその当時は五重塔はそれほど有名ではなく、脇目もふらず南谷を目指していたのであろうか。

また、このあたりは古来からツツガムシの被害が多く出たのか、藁で綯った太い綱でツツガムシを草むらから引き出し、それを焼く行事が行われていたそうで、現在も行事として残っているそうだ。

聖徳太子が遣隋使の小野妹子に持たせ親書「日出る処の天子、日の没する処の天子に書を致す。恙なきや」を見た隋の煬帝が激怒したといわれているが、この「恙なきや」はツツガムシで病気に罹ることから、健勝でしょうか、の意味である。奈良時代もツツガムシの被害は大きかったのであろう。

こんなことを考えながら羽黒山の宿坊で布団にもぐりこむと、なんだか背中がむず痒いようで思わず般若心経を唱えてしまった。


鹿児島県知事の三角関数無用論にひと言

2015-09-17 16:24:23 | 日記

鹿児島県知事の「サイン、コサイン、タンジェントを社会で使ったことがあるか女性に問うと、10分の9は使ったことがないと答える」という発言が物議を醸している。この発言は単に女性蔑視というだけではなく、学校教育への批判ともとれるようだ。知事をやっているのだから一般常識は当然持っており、教育に対しても一家言持っているはずである。確かに三角関数などは社会に出て必要としない人は多いが、そんなことをいったら微分も積分も必要がないことになってしまう。ギリシャ時代の哲学者は数学者が多く真理の探究に数学的な思考が欠かせなかったのである。

数学というのは単なる加減乗除算ができればいいわけではなく、数学を学ぶこということはものごとの論理を学ぶことであり、思考力を高めるのである。例えば数学で「線」とは長さがあって幅がないものであり、「点」は大きさがあって面積がないものと定義されている。しかし世の中にはそんなものは存在しないわけだが、そういう抽象的なことを知ることで知識が深まるのである。点に面積があったらA点からB点までの距離を求めることができない。数学では点が面積を持たないという取り決めがあるから、2点間の距離を2mとか10mとか求めることができるのである。

ある作家が、2に2を掛けると4なのになぜ、2に0を掛けると0になるのかわからないといっていたが、掛け算というのは本来面積を求めるもので、長さが10cmで幅が2cmなら面積は10×2=20平方センチになる。もし幅が0なら10×0=0平方センチ、すなわち幅がないものは面積はない、すなわち0なのである。こういうことは小学校で習っているはずだが、先生が画一的に教えているから理解できていないだけで、きちんとその論理を教えれば十分理解できることなのである。

学校で図画や音楽を学ぶが、将来画家や音楽家にならない限り大半の人たちは、社会に出て絵も描かなければ、作曲することもない、だから図画や音楽を学ぶことが不用かというとそうではない。色は三原色で成り立っているという事実を知ることは大切であり、どこの国の音楽も宗教と深く結びついている。そういう基本的なことは学校でしか習えないのである。カラオケだけが音楽じゃないのである。むしろ学校教育は数学とか図画とか音楽とか学校でしか学べないものこそ必要なのである。

よく、歴史教育は古いことから教えるから現代史まで教えられないというが、現代史などは成人してから自分で学べばいいわけで、少なくとも100年を経過していないものは歴史とは呼べない、要するにその時代に生きていた人が存命中はそれぞれに利害があり、公平な事実認定ができないからである。大東亜戦争の総括ができていない、戦争責任が曖昧だというが、まだ当事者、関係者が生きているから公表できない、事実認定ができないのであって、あと30年もすれば正しい歴史として後世に正しく評価されるものがまとめられるはずである。中国や韓国、北朝鮮みたいに現在の政権が捏造した歴史を学校で教えたところでなんの益にもならない、教えていいことと悪いことがあるのである。

文科省は大学教育を理科系に重点を置き、文系は少なくするように画策しているようだが、文部官僚に教育を支配させたら碌でもない国民ができてしまい、取り返しがつかないことになる。教育とはあくまでも本人が学びたいことを支援することであり、小中学校ではその基礎学力を身に付けさせ、高校、大学では自分が学びたいものに専念できる環境を整えることが必要なのである。文学、哲学を学びたければそれもいいし、理学、工学を学びたければ自由に学ばせればいいのである。

東大の経済学教授たちがマルクス思想にかぶれて碌な経済学しか教えられなかったから、当時の大蔵省は法学部の学生を採用したといわれている。いまその法学部も教授たちが左傾化して法曹界も中立性が危うくなってきている。

勘ぐれば財務省、経産省なども今度は理学部、工学部の学生に目を向け始め、文部科学省はそのお先棒を担いでいるのかも知れない。

 


二項対立から離れると心の安らぎが得られる

2015-09-09 07:31:46 | 日記

近頃はなんでもいいか悪いか、損か得か、好きか嫌いか、賛成か反対か、戦争か平和かというような二項対立でものごとを見る風潮が強まっているようである。一昔前は、意見が対立しても、まあまあ、そう目くじらを立てなくても、いろいろあっていいんじゃないの、などという人がいて、議論はそれほど過熱しなかった。このような曖昧さががいいか悪いかはともかく、こういう風潮の根源を辿ると、コンピュータが出現したころと符節が合うような気がする。0か1か、ONかOFFかの登場である。アナログは捨て去られデジタルにこそ未来がある、そんな空気が世の中の多数を占めていったのである。神は存在するか、神は存在しないか、曖昧さを許さないのである。西洋哲学では無とは有の否定であって、有るものが無い状態を無という。無が単独で存在することはあり得ないわけである。たとえば、戦争と平和はそれぞれが単独では存在し得ないわけで、戦争は平和が破られた状態であり、平和は戦争が終った状態でしかないのである。

昔は子供がいなくなると神隠しにあったなどといわれ、子供たちは本気で信じていた。夕暮れ時に子供が独りで遊んでいると人攫いに攫われるなどとよくいわれたものである。それが怖いから子供は暗くなる前に家に帰ったのである。食べ物を粗末にすると罰が当たるといわれ、子供たちはそんなの迷信だなどと反抗はしなかった。神罰はあるわけでもないが無いわけでもない、そういう二律背反を肯定する心の余裕があったような気がする。

仏教では最高の真理を非有非無というそうである。有とか無という両極端を排して、中間にこそ中庸にこそ真理があるというのである。神が存在するか存在しないかは古来から議論は尽きず、いまだに決着はついてない。神が存在するなら写真に撮って見せろ、存在しないなら存在しない証拠を見せろ、どこまで行っても平行線である。これを神学論争というが、お互いが譲れないから喧嘩分かれにしかならない。

そこで仏教は、神は存在するのでもなく、存在しないのでもない、存在論、認識論の二分法から超越したものを非有非無といい、ここにこそ真理があるのだと教えたのである。仏教思想の大きな特色であり、宗教を超えた哲学思想ともいえる。

お釈迦さんは、インドの思想家たちから世界の常・無常、有限・無限、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無など14の形而上学的論争を挑まれたが、沈黙を守って答えなかった。あらゆるものを倫理的観点から善と悪、そのどちらでもないものの三者に分ける場合、いずれでもないものを無記と呼んでいる。

弟子から尊師は死後にも存在するのかと問われて、そんなことを考えても修行にはなんの益もないと退けたともいわれている。

世の中には答えがないものがいくらでもあるのである。長寿がその人にとって幸福か不幸かなんて誰にもわからない。7年も土の中で暮らして地上に出てわずか1週間で死んでしまうセミは幸福かどうか、セミにだってわからない、ただそれが自然の摂理なのである。善悪とか正邪はしばらく置いておいて非有非無の心境で暮らせば、世の中幾分は暮らしやすくなるのではないだろうか。


大正生まれの人たちの凄さ

2015-09-02 11:04:31 | 日記

支那事変(日中戦争)が起こったのは昭和12年(1937)であり、太平洋戦争が起こったのは昭和16年(1941)である。そして昭和20年に敗戦を迎え、サンフランシスコ講和条約により日本が独立したのが昭和27年(1951)であり、以後世界が驚嘆する経済発展を遂げるわけである。これは百田尚樹氏の指摘で目から鱗であったが、この時代の中心は大正生まれの人たちであったことである。大正時代というと大正ロマン、大正デモクラシーなど明治時代の富国強兵、日清戦争、日露戦争とは違った自由な民主主義ののどかな時代を思うが、大正という15年間の短い時代に生まれた人たちが、昭和という苛烈な時代を生き抜いた、過酷な時代を担ったことを忘れてはならない。戦後の復興も大正の人びとが中心になってやり遂げたのである。明治は45年、昭和は64年であり、平成は27年であるが、大正の15年を抜きに日本の近代史は語れないのである。

今年は戦後70年ということで世界的にもいろいろな行事が行われているが、西暦でいえば単なる数字に過ぎず時代区分は埋没されてしまうのである。昭和20年を区切りに、もはや戦後は終わった、戦争を知らない世代だとか、その折々にいわれてきたが、1912~1926年の大正時代の人たちは今生きていれば89歳から103歳である。この時代の人びとに感謝の念を忘れてはならないと思う。

冷戦時代は1945~89年まで44年間続いたが、冷戦の終結、ソ連の崩壊は昭和64年、昭和の終わりである。今年は平成27年だから27歳の若者は戦争どころか冷戦さえ知らないで育ったのである。いわば平和が当たり前なのである。憲法9条があるから平和であったという虚構を信じているのである。日米安保条約があるから日本の平和は保たれてきたという現実を知らないのである。

1962年10月14日から28日までの14日間はキューバ危機という世界が固唾を飲んで見守る2週間であった。日本でも毎日テレビで放映していた。ソ連はフルシチョフ、アメリカはケネディーの時代である。ソ連はキューバに核ミサイル基地を建設し、核ミサイルを運び込もうとしていた。キューバはアメリカの喉元である。ここに核ミサイルを持ち込まれたら、アメリカの安全は根底から覆されてしまうわけで、アメリカにしてみれば死活問題である。アメリカ空軍のU-2偵察機がキューバ上空でソ連軍の地対空ミサイルで撃墜され一気に緊張が高まる。アメリカ海軍は海上封鎖を行い、ソ連の潜水艦に対し爆雷を投下する。攻撃を受けた潜水艦は核魚雷を搭載していたが、アメリカ軍はこのことを知らなかったのである。潜水艦隊参謀の反対で核戦争は免れたが、まさに一触即発であった。フルシチョフは若いケネディー大統領を甘く見ていたが、戦争も辞さないアメリカの決意を認めて手を引いたのである。核ミサイルを積んだソ連の軍艦がUターンして引き返す映像は目に焼き付いている。第三次世界大戦の勃発はこの瞬間に免れたが、この恐怖は当時を知る人たちは憶えているはずである。

いま、安保法制で世論は割れているが、賛成であれ反対であれ戦争そのものに反対であることに違いはないはずである。ただ、日本を侵略しようとする国があれば、命を賭けて徹底的に戦うか、侵略されて奴隷になっても生き延びるか、その差でしかない。要するに世界はその国の国民が本気で国を守るかどうか、その決意を見ているのである。

大正生まれの日本人には戦争であれ経済であれ、祖国のために戦うというバックボーンが備わっていたのである。