稲穂が黄金色に輝く新潟から山形を旅してきた。目的は羽黒山の五重塔を観ることであったが、月山、鳥海山の眺望も素晴らしく、東北の秋景色を満喫できた。
出羽三山は古くから修験道の山として信仰が篤く、いまでも夏は羽黒山から月山を経て湯殿山への修験ルートは賑わっているそうである。羽黒山は現世、月山は前世、湯殿山は来世を司っているとかで、死と蘇りの霊場として修験道の人たちだけでなく、一般の人びとにも信仰されているそうだ。
崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され、第三皇子であった蜂子皇子(はちこのおうじ)は馬子から逃れるため丹後の国から海路で現在の山形県鶴岡市に着き、羽黒山に登り、出羽三山を開いたといわれている。羽黒山の山頂には蜂子皇子の霊が祀られている。奈良時代の都から見れば越後の先は未開の地であったろうに、よくもここまで逃れてきたものだと思うと同時に、ここまで来なければ討ち取られてしまう蘇我氏の勢力の強さにもいまさらながら感嘆してしまう。
羽黒山の五重塔は平安時代中期に平将門によって創建されたといわれているが定かではないらしい。ともかく東北最古の塔であることは事実であり、昭和41年に国宝に指定された。樹齢千年といわれる杉に囲まれ、22.2mと高さの白木の塔は雪深い山の中によくも建てられたものだと感慨もひとしおである。五重塔から少し登ったところを右に折れ、400mほど行くと、芭蕉が奥の細道で宿泊したという別院紫苑寺の跡、通称南谷という当時の景勝地があるが、いまは往時の景観はないらしい。「ありがたや雪をかほらす南谷」はここで読んだものである。月山の万年雪の匂いを風が運んできたのであろうか、6月4日(現在の7月23日)に句会を開いたので北国でもかなり暑く、雪渓から吹き下ろしてくる風はよほど心地よかったのであろう。
「奥の細道」によると、ここに来る前に立石寺に立ち寄り「閑さや岩にしみ入蝉の声」を詠み、最上川の大石田で句会を開き「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んでいる。そして羽黒山に登ってきたわけだが、五重塔には一言も触れてない。芭蕉は徳川時代の元禄年間であるからその当時は五重塔はそれほど有名ではなく、脇目もふらず南谷を目指していたのであろうか。
また、このあたりは古来からツツガムシの被害が多く出たのか、藁で綯った太い綱でツツガムシを草むらから引き出し、それを焼く行事が行われていたそうで、現在も行事として残っているそうだ。
聖徳太子が遣隋使の小野妹子に持たせ親書「日出る処の天子、日の没する処の天子に書を致す。恙なきや」を見た隋の煬帝が激怒したといわれているが、この「恙なきや」はツツガムシで病気に罹ることから、健勝でしょうか、の意味である。奈良時代もツツガムシの被害は大きかったのであろう。
こんなことを考えながら羽黒山の宿坊で布団にもぐりこむと、なんだか背中がむず痒いようで思わず般若心経を唱えてしまった。