岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

なかなか懐の深い人物政次郎

2017-11-06 08:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 さて、理崎氏は言う。
 父親の政次郎は浄土真宗の学僧・暁烏敏(あけがらす はや)に師事していた。暁烏は後に真宗大谷派の総務総長になる大物で、当時は若手のホープであった。暁烏宛ての政次郎書簡は六十通以上残されている。
              〈23p〉
と。そして、「暁烏は近代日本の哲学を建設した清沢満之の弟子」であり、暁烏は佐々木月樵、多田鼎等と「雑誌『精神世界』を発行して清沢の思想、精神主義を鼓舞していった」ということを理崎氏は紹介していた。続けて、
 政次郎はこの雑誌を定期購読していおり…(略)…後年賢治が法華信仰に走って議論をふっかけた時、政次郎が「何もわかっていないのに、生意気を言うな」と叱ったのは当然である。何年か勉強したくらいでは追いつけないほど、政次郎は最先端の近代仏教哲学を吸収していたのである。
              〈23p~〉
ということも教えてくれている。
 そっか、賢治が亡くなった通夜の席で賢治が天才であるということについて父政次郎が、
 あれは、若いときから、手のつけられないような自由奔放で、早熟なところがあり、いつ、どんな風に、天空へ飛び去ってしまうか、はかりしることができないようなものでした。私は、この天馬を、地上につなぎとめておくために、生まれてきたようなもので、地面に打ちこんだ棒と、綱との役目ををしなければならないと思い、ひたすらそれを実行してきた。
             〈『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)256p〉
と花巻弁でとつとつと語ったということだが、それはこういうことだったからなのか。やはり政次郎は(不遜な言い方になってしまうが)良く出来た父親だったのだ。

 一方で、暁烏は政次郎に『親鸞聖人』や綱島梁川の『回光録』、暁烏等三羽烏の『沈思録』や『エピクテタスの教訓』そして社会主義の新聞も送っていたと理崎氏は言い、
 政次郎は、社会主義は不平の念より起こるとして、他人事ではあるが同情を禁じ得ないとも述べている。そうした激烈な不平の感情で社会と闘っていくのは苦しいものだ。自分はそうしたものを信仰によって乗り越える、として社会主義者にもこの信仰を勧めていきたい、と意気込みを語っている
             〈26p〉
ということも紹介していた。
 そうなんだ、政次郎は信心深いだけではなくてなかなか懐の深い人だったのだ。何となく賢治と二重写しに見えてきた部分もある。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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