メディアショップ駿河屋 なぜベス!

駿河屋ブログは移転いたしました。
(07/06/01)

硫黄島からの手紙

2006年12月10日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。12月9日公開の「硫黄島からの手紙」を観て来ました。
戦争のリアリティは感じられるのですが、妙な違和感がありました。その原因がどこにあるのかを考えるに、二宮和也の顔が悪いのではないか、と。こんなことを書いたらジャニーズのファンから石を投げられそうですが、二宮の顔がブサイクだということではなくて、むしろ良すぎるあの顔が終始感じ続けた違和感の原因になっている、ということです。
わてが感じたリアリティというのは、その時代の再現性から感じられたものではなく、むしろこの作品が持つ同時代性によるものだろうと思います。はっきりいえばいつの時代の戦争だか、よく分からない、西暦2006年の今年に戦争をしたらこんな感じじゃないだろうか、というリアリティの感じ方です。
おすぎさんならもっと端的に説明してくれます。「も~、あんな時代にあんな場所にあんな顔の日本人がいるわけがないじゃない、バカバカ~」って。
昔の日本人の顔と今の日本人の顔が変質していることに気がつかない、日本人ならみんな同じ顔に見える人が作ったんでしょう。って欧米か?!ってイーストウッド監督は欧米ですけど。
とはいえ二宮の顔だけが悪いのではなくて、裕木奈江の言葉使いとか、留学していたとは言え敵性語を平気で使っちゃうとか、現代日本を感じさせる場面が節々にあって、こういうところには無頓着なんだ、セリフの99.5%は日本語でもあくまで洋画としてアメリカ人相手に作られているんだ、ということを痛感しました。
内容としては硫黄島戦という史実を一つの柱として、人間の多様性を示すエピソードを散りばめてあって、それらが枝葉となったバランスのいい大木のような安定した感じです。
一方で、死体に紛れて隠れている中村獅童を映し出す場面、隣の死体のひん剥かれた目が強烈になにかを訴えかけてきました。作り物と分かってはいても、やはり目っていうものは…。
構成の上手さと、視覚的にも心理的にもともにグロい演出、イーストウッド監督らしさが存分に出ています。「アメリカの批評家」が高評価をするのがよく分かります。
ということで、あえてイデオロギー的な部分を全て削って書いてみました。
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 太陽/カポーティ 1 | トップ | ファンタシースターオンライン »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
敵性語 (老人)
2006-12-13 00:15:40
ジープ、ライフルなどの所謂敵性語は、当時の軍では普通に使われていました。
特に海軍などは英語大好きで、戦前戦中を通して多くの敵性語を平然と使っています。
英語を使わないという運動は世論を引き締めるために、むしろ銃後で盛んに宣伝されたものが、戦後「日本軍は敵性語を使わない」という伝説を生み出したものです。
これに限らず、戦後の我々の知っている日本軍の常識の多くは、戦後に誇張されたものです。

返信する
Unknown (わてが丁稚の定吉だす)
2006-12-13 23:40:55
ご指摘ありがとうございます。
わてが一番気になったのは米兵の手紙をバロン西が読みあげた時の「フェンスを越える」という言葉でした。聞かせた相手は「町のパン屋」をはじめとする昨日まで銃後にいた庶民。他に代用の効かない名詞ならともかく、囲いとか塀とか垣根とか、日本語での表現がいくらもあるのに外来語を使う例ってこの時代にはあまりないし、そもそも通じないのでは?と感じたんです。
柳家金語楼の兵隊落語を一通り聞いていますのである程度の雰囲気はわかってるつもりではいるのですが、でも落語や映画でしか戦争の雰囲気を知らないってのも、いささか問題がありそうです。
またいろいろと教えてください。
返信する

丁稚 定吉の映画日記」カテゴリの最新記事