常識について思うこと

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奇跡を信じていい理由

2008年02月13日 | 人生

きれい事や理想論。それらが本当に起こるし、またはそれらを起こそうと思うことは、一般的にとんでもないとされることが多いものです。きれい事や理想論では生きていけません。それらを口にするのは、現実がそれらと乖離しているからです。私たちが現実世界のなかで生きている以上、その現実を受け止めていかなければいけないのは事実です。しかし、そうしているうちに「現実こそ全て」と思い込むようになったら問題です。そうなってしまうと、そうした現実を超える奇跡を信じることについて、多くの人々は恐れをなし、諦めてしまいがちになります。これはとても残念なことです。

私は大いに奇跡を信じていいと思います。むしろ、人間は生きている以上、とことん奇跡を信じるべきだと考えます。なぜなら、私たち人間は、その存在自体が奇跡だからです。

ここで少し、「奇跡」という言葉について、考えてみたいと思います。

この地球環境について、「奇跡的」という言葉を使うことがあります。太陽という恒星の存在、その周りを回る地球の存在、地球に溢れる水の存在、大気の構成比や温度・・・。私たち人間を含め、多くの生命を育む地球環境は、絶妙なバランスの上に成り立っており、たしかに「奇跡的」です(人によっては、地球環境を指して「奇跡」という言葉を使うかもしれませんが、私は以下説明するとおり、地球環境の存在は、現代の科学で十分に説明が可能であるため、あくまでも「奇跡的」という表現が適切ではないかと考えます)。

一方でこういう言い方もできます。

「果てしなく広い宇宙のなかで、また限りない時間の流れのなかで、現時点において太陽系や地球のような星があっても、何ら不思議なことではない。奇跡的とはいえ、そういうものが存在することは、確率論的にゼロではない。私たちが存在しているのは、たしかに奇跡的ではあるけれども、科学的(確率論的)には(限りなくゼロに近いとはいえ)十分説明が可能なことであり、私たちの存在自体が奇跡であると言ったり、またそれをもって、これから先の奇跡を信じる理由にはなり得ない」

これもまた、そのとおりだと思います。たまたま、地球のような星があって、そこに生命が辿り着き、繁殖をして、現在に至るという説明は十分に可能ですし、私たちの存在自体が、「説明がつかないほどの奇跡」であるということにはならないと思います。

しかし、もっと遡って考えたらどうでしょうか。つまり、そもそも生命の起源とは何なのかということを考えてみるのです。

この世界の始まりをどう考えるかについては、諸説あります。現代科学のなかで一般の人々に広く浸透しているのは、「ビッグバン理論」でしょうか。私はビッグバン理論が絶対に正しく、世界の始まりのすべてを説明しているとは思いませんが、ひとまず、これを基に生命の起源をイメージしていただければいいかもしれません。ビッグバンによって、この宇宙が始まって、どういうきっかけで生命が誕生したのでしょうか。最初はバクテリアのような微生物だったとしましょう。その小さいながらも自らの意思を持つ存在が、どのように生まれたのでしょうか。

この問題は、イメージするのも非常に難しいと思います。実際、このテーマは現代科学をもってしても、十分な説明が難しい大問題なのです。つまり、生命の起源は相変わらず謎のままであり、その延長線上に生きている私たちの存在、私たちが生きているという当たり前の事実が、説明不能に陥るわけです。これは、とても滑稽な話です。

けれども、どんなに説明がつかない大問題であるとはいえ、私たちが生きているという事実は変わりません。たとえ「生命の起源」が、科学的に説明がつかないほど「あり得ない」ことであったとしても、私たちが生きているという事実は絶対に曲げられないのです。このことこそが、「私たちの存在自体が奇跡である」という理由です。

そもそも、自らの存在すら奇跡である私たちが、もし「奇跡を信じる」ことができなかったら、私たちは自分たちの存在を否定することになります。そういう意味で私は、私たちが生きている以上、限りない奇跡を信じていいのだと思うのです。

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