常識について思うこと

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投票の権利と責任

2009年04月19日 | 政治

政界にいろいろな問題が浮上するたびに、内閣の支持率が下がったり、上がったりということが起こります。実際、現状においては、そうしたことが起こっていますし、今後も起こり続けるでしょう。

もちろん、新しい事実が発覚したときに、それに応じて、意見を変えるということはとても重要なことです。有権者である国民が、そうした思考の柔軟性を持つということは、新しい社会作りをしていくうえで、とても大切なことだと思います。

しかし、そのことの重要性を一旦認めたうえで、私としては、そのようにして意見を翻すことの問題点についても、きちんと指摘しておきたいと思います。

それは即ち、そのようにして意見を翻すということは、意見を翻す前の自分は、政治家や政党を見る目がなかったと謙虚に受け止めるべきではないかということです。例えば、新しい事実が出る前から、いろいろと自らの力で情報をとることは可能です。マスメディアによる報道に惑わされず、それらをあくまで参考情報に留めながら、自分自身の力できちんと考え抜ければ、マスメディアの報道を含めて、新事実がどうだの、それによってどのような問題に発展したのといった類の話で、自分の意見が右往左往するようなことはなくなるかもしれません。

もう少し突っ込んで言えば、意見を翻した方々は、それ以前の自分が、その政治家や政党を支持(あるいは不支持)してしまったことで、そうした人々に力を持たせてしまった(あるいは持たせられなかった)、あるいはそれに加担してしまったということを自覚しなければならないということです。もちろん、こうした政治に対する責任の自覚については、所詮一国民としての影響力の小ささや、政治システムの問題等を理由に、ほとんど感じることができないという意見もあろうかと思います。もちろん、それはそれで結構です。しかし、わが国の政治について、国民がほとんど責任を感じられないということと、まったく責任を感じない(あるいは持たない)ということとは、似て非なる話だと考えるべきでしょう。

日本の政治システムは、いろいろな問題を抱えながらも、主権在民の大原則によって成り立っています。したがって、そうした制度のなかにあって、一国民として、政治に参加する責任やその自覚が皆無というのは、その大原則を否定することであり、これは現在の政治システムを理解するうえでも、全くの誤りであると言わざるを得ないのです。

支持・不支持を明確にすることは、とても大切なことです。繰り返しですが、国民がそれまでの判断に対して誤りを認めて、意見を翻すこと自体、それほど悪いことではないと思います。ただし、意見を翻すこと自体が、手放しで賞賛されるのも筋違いであり、まずそこには、意見を翻した国民・有権者の反省がなければならないことも事実だろうと思うのです。

そういう意味において、既出の政治家や政党のなかでは選択肢がなく、途中で意見を翻すくらいならば、敢えて支持・不支持を明らかにせず、「分からない」というスタンスを取るということも、十分に評価されるべきでしょう。

私は、無党派というのは、単に「政治に無関心なバカ」というような位置づけで論じるべきではないし、むしろ積極的な無党派というのがいてもよいのではないかと思っています。つまり、既出の政治家や政党には、もはや新しい国づくりをするだけの力がなく、積極的に選択肢がないことの意思表示をするということも、重要ではないかと思うのです(「分からないことは言わない」参照)。

今年は、衆議院議員選挙がある年でもあります。投票に行くということは、国民にとって、とても大事なことであることは間違いありません。しかし一方で、投票に行かない人たちが、「投票権を行使しない」ということは、それはそれとして、何かしらの大きな意味があるのではないかと思います。

権利の行使には、必ず責任が伴います。そういう意味で、有権者の方々は、よく考え抜いて、責任ある投票行動を取られるべきだと思いますし、そうすることは、自ずとより良い社会作りにつながっていくことになると思うのです。

コメント (4)
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