しばらく前に市ヶ谷防衛省の見学ツアーの存在を知り申し込みをしてみました。敷地内には極東軍事裁判(東京裁判)軍事法廷が開かれた講堂が保存されており見学も申し込み制と制限されている為極めて良い保存状態です。
折りしも11月29日希望日直前は三島由紀夫命日で沢山のファンが訪れ見学できるのだろうかと思いましたが許可がでました。数人のgeocacherと共に大人の社会科見学会、昭和の歴史を検証する為に出掛けてきました。
クリックで画像拡大
過ぎ去った昭和の歴史へ触れる機会はとても興味深いものでした。フィルムで見る講堂とは印象が異なり意外にコンパクトです。この場所に写真で見るような大勢の人が居たとはにわかに信じがたい印象でした。現存する記念館は新庁舎建築の際移転されたもので当時の建物を歴史的価値を損なう事無く再現したと言われています。床材も照明器具も当時のままのようです。
2F防衛庁長官(当時呼称)室で起きた事件は三島由紀夫割腹事件として当時子供ながらにもセンセーショナルな事件として鮮明に記憶に残っています。防衛庁長官を人質にとり盾の会メンバーがクーデター蜂起を煽動しましたが三島由紀夫の演説は自衛官の野次にかき消され失意の末自決した事件でした。長官を救出しようとした自衛官との格闘の際振り回した刀の傷が今でもドアに残っています。
今回の大きな訪問目的は栗林大将直筆の絵手紙の生資料の見学でした。資料館に資料提供した遺族の意思で中将と呼称していますが歴史上の正式な名称は大将です。マスコミ始め多くの出版物に至るまで注記無しで中将の呼称は如何なものかと思う。
さてこの絵手紙とは? 栗林大将は青年時代にハーバード大学への留学と駐在武官として在米時代まだ幼い字の読めない長男太郎君に絵を描いた手紙を送ったと言われています。館内は照明が暗く資料のストロボ撮影が禁止されていましたが何とか撮影に成功しました。
玉砕司令官の絵手紙 小学館文庫(吉田津由子編)として発売後多くの人の知る事となりました。当時の高級軍人としては珍しく米国をよく理解し対米開戦には消極的だった為抜群の成績で陸軍大学を卒業しながらも中枢の要職には就けなかったとされています。
硫黄島司令官としての最後の電報と辞世の句が有名です。名文とされる電報電文は割愛しますが辞世の句は新聞で公表されました。しかし当時の上層部が原文を改ざんした事が後世一人のジャーナリストにより明かされました。原文(画像)でも墨で訂正された箇所が判読できます。
原文
- 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
- 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
- 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ
改ざんされた句
- 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ 口惜し
- 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
- 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ
バロン西こと西竹一大佐と共にアメリカ側に最も知られる人物の一人であった。悲運な時代に生きた不幸と言わざるを得ません。
個人的歴史観ではとても興味深いところでした。
基本的に撮影禁止場所はありませんでしたが(撮影禁止場所にはいけない)A棟内部と著作権がらみのDVD上映中が撮影禁止でした。
省内の売店(PX)、コンビニ、スターバックス等もあり見学者も買い物できます。価格が安く驚きます。
最後に案内してくれた担当官の挨拶の言葉は私にはシビリアンコントロールよしっかりしてくれと聞えた。。。。。。。。。。。。