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「ロスト・イン・トランスレーション」 前編(続く)

2007年02月22日 | Weblog
「ロスト・イン・トランスレーション」

写真は仕事部屋のデスクからの景色。今こうしてタイプしているまさに僕の目線アイレベルだ。
見えるのはごらんの通り、森のトップと空のボトム。
過密な生の営みの熱が鬱蒼としたベタな灰色でおおわれた東京のど真ん中で森と空だけが
窓枠のフレームに切り取られた風景はマーク・ロスコのように上下しかない。
ボトムの森は明治神宮の杜。トップの空は東京渋谷区の空。
画面を仕切るのは、そのふたつの接点が揺らぎ往還しあう緩やかな1本の曲線のみ。水平線
でも地平線でもない、もうひとつの曲線。森のスカイライン。
しかし一歩ベランダに出て、右を見わたせば都庁舎と西新宿の高層オフィス群に新宿駅南口
が。左を見渡せば、雲海のような明治神宮の森の先にぽつんとひとつだけ頭を突き出す渋谷
NHKの局舎。さらに左に向けば原宿駅と表参道が。。。ここは原宿と新宿のちょうど中間に位
置する首都東京の喧騒の只中である事を実感する。
冬には森を頭ひとつ突き出した白根の富士山が真正面に鎮座する。もちろん眼下は明治神宮。
一年中、この窓の真正面に太陽が沈み、黄昏には一番星、宵の明星が輝き、新月、三日月、
半月、満月と月明かりと万年カレンダーが差し込む。この部屋に訪れる太陽の強弱、月明かり
に星のまたたき、七変化する夕日、流れる雲、立ち込める暗雲、グレーの空が湿りだす雨雲、
滝のような豪雨と稲妻、熱風の青空にもくもくと遊ぶまばゆい綿雲、そこには365日、昼夜を
問わず一瞬たりとも同じ風景、同じ時間はない。だから飽きることがない。飽きようもない。季
節の変化、時間の推移、気象の気分が生み出す未体験の未体感の光と色がただただうつろう。
僕はこの自然の永遠に変り続ける意思のない結果に心奪われて、着信音ではっと我に帰るま
で時が手が止まっている。それも、しばしどころか一日中仕事にならないほどに。そういう意味
では仕事にならない仕事部屋で困ってしまう。自然の無限のエンターテイメント、しかもお代は
無料の小さな窓の大きな贅沢なのだが。。。

春一番や台風が到来すると、屈強な優に30メートルはある古木の密生した森のトップは、軽々
と風に舞い、時に右往左往、さ迷いあう。まるで見渡す限り一面の麦畑でたわわな穂頭がしな
やかに風になびき揺れ流れるさまだ。その景色の気配をしばし見とれていると目がまわり酔っ
てしまう。空中での船酔いみたいなえもいわれぬ不思議な気分に陥る。それは360度、見わた
す限りの雲海の只中に素足で降りて歩いているような、心もとない文字通り地に足が着かない
不安定な浮遊感。ちょっとでも気を抜くと集中力を失うとふっと地上に落ちていきそうな恐怖感が
ともなう。気持ちがいいけど気持ちが悪い。摑まるところのない不確かな不快な彷徨いだ。

この不安定な気分は、たぶん誰しもが子供のころ夜空を見上げては想いをはせた宇宙の果てや
死後の世界のように、考えれば考えるほど答えのない居所のない不安感に似ている。月を見上
げ、星を眺め、その先のそのまた先の星を想い遠い宇宙の果てを想像するに、自分は一体何処
にいるのだろう?何処から来たのだろう?何処へ行くのだろう?一体何者なのだろう?と。誰に
も語れない、書けない、言えない、言いようもない、まるでわからない、あの世、誰しもがこれか
ら行くであろう死後の世界のように。どこにも確かがない不安。その不安感がつのれば恐怖感
に襲われる。足元が急に揺らぐあの感覚だ。


高校受験の勉強を強いられる中3だった1968年。少年たちがこぞって憧れた、いや中3男子の
必須アイテムと化したモノが、ナショナル(松下電気産業)の新製品「ワールドボーイ」という多バ
ンドのラジオだった。そのトランジスター搭載で軽量化された多バンドラジオは、中波はもとより、
短波、FMも受信できる代物で、と言っても当時FM局がなかったのだが、その最新鋭の無線器
のような黒い外観に少年達はぞっこんだった。そのラジオを親にねだり、正月のお年玉で買うの
が夢だった。電波とインターネットでは本質がまるで違うし、そこからの情報の量も質もまるで比
べものにならないけれど、ワールドボーイと言うからには世界のラジオ局を一応は聞けるはずで
双方向のWWW(ワールドワイドウェブ)とは行かないまでも、とりあえず小さな地球規模の一方
通行な受信機は、少年にとってまだ見ぬ大きな世界が自分の小部屋で自分だけの情報を入手
できるという意味では今のパソコンのように当時としては画期的な夢のエントランスだった。僕は
たぶん親におねだりで買ってもらったのだろうが、受験勉強真っ只中の中3男子たちは夜な夜な
このラジオで当時の深夜放送を聞きながら受験勉強を、いわゆるながら族しては、翌朝、学校で
昨夜の放送の話題を語ることがならわしだった。リクエストの葉書が生放送で読まれて希望の
曲がかかり、ペンネームが放送されるなんて、まるでオスカー受賞者のように誇らしく学校では
英雄になれた。とにかく翌朝のみんなの話題についていく為にもこのラジオは買わなければな
らなかったマストアイテムだった。もちろんTVゲームもネットもない時代、昭和43年の話。

僕は小学校、中学校時代を札幌で過ごした。だから、当時の深夜放送は、HBCラジオ(TBS系
列のTV局/TBSにTBSラジオがあるようにHBC北海道テレビにもHBCラジオがある)、STVラ
ジオ(日テレ系列でこちらもSTV札幌テレビにSTVラジオがある)を聞くことで、この2局の局ア
ナたちがDJ(ディスクジョッキー)としてタレント化していた。地元少年達のカリスマだった。しかし
当時アマチュア無線にはまっていた僕は、この高性能なワールドボーイの中波を深夜、上手に
ダイアルをチューニングさせては、東京で大ブレークしていた深夜放送御三家を密かに聞いてい
た。 世はまさに深夜放送全盛期。文化放送では「セイ・ヤング」のみのもんたと落合恵子、ニッ
ポン放送では「オールナイト・ニッポン」の糸井五郎とカメちゃんこと亀淵昭信(ホリエモン騒動で
再びメディアに登場した前ニッポン放送社長)、TBSラジオでは「パック・イン・ミュージック」の野
沢那智と白石冬美が団塊の世代には国民的アイ ドルだった。僕はおマセにも札幌の中学生時
代、その生生しい団塊人たちの学園紛争前夜のリアル東京を深夜、不安定にかすむ電波に耳を
立てワクワクしながら聞いていた。空想のリアル東京を肥大化させて。今ならネットでロンドンカル
チャーにワクワクしたりする感じなんだろうけど、いやいや、ロンドンからトーキョー・カルチャ~ ク
ール!?ってところか。。。 まっ ともかく少年は東京ってすっげぇ~ おもしろそうっと ひとり心
ときめかしては無邪気にほくそえんでいた。

そして、その妄想がつのりにつのり、とうとう目指していた目の前の受験校から急転、僕は迷う
こ となく東京の高校に行きたいと親に嘆願。両親の猛反対を押し切り、説き伏せて、15歳にし
て単身東京暮らしをすることとなった。それは、今で言えば高校から海外留学をしたようなものだ
ろうか 。以来、今日までその後の大学時代からの幾多の同棲や幾多の結婚期間を除けば、男
の人生の半分は女性と暮らし半分は一人暮らし。ついに親元で過ごすことはなかった。親が他
界した今では天涯孤独。もう戻れるいつかは帰れる心の帰聖地はない。あるのは我が命ある限
りの未知の期待と未知の不安の明日だけだ。

その少年心を魅了した東京には、高校1年の賄い付き下宿に始まり、2年生から卒業までを親
戚のアパートと4畳半生活、2大学を卒業するまでを親が所有していた3DKマンションで過ごし、
通算10年間の東京暮らし。高校時代はとにかく一人がたのしくおもしろく正月さえ帰省せずに
閑散とした首都東京を大人びたつもりで徘徊しては、小生意気にもまるで植草甚一気取りで街を
かじり歩いていた。 曰く因縁、由緒歴史がそこらじゅうに転がっている、刺激的な最新がそこらじ
ゅうに沸き立っている、 そんな東京は好奇な少年にとってわくわくする夢のワンダーランドだった。
中でも、ファンキー、アウト・バック、赤毛とそばかす、メグ、ディグ、ダグ、タロー、ピットインは時に
授業をサボってまで出没していた。やがて長髪のヒッピーもどきな大学生に混じり煙草の煙に燻
された高校生は、それまで漠然と楽しかった東京の輪郭と時代の気配が薄暗い煙の向こうに見
え始める。それは当時、世界を熱病のように席巻していたステューデントパワー。気がつけば、団
塊人たちの学生運動の嵐を見上げて憧れ盲信する青二才になっていた。社会の改革、革命を声
高に叫び、デモ、投石、立てこもり、鬼の3機との攻防(第3機動隊は当時デモ鎮圧では最も過激
で屈強な精鋭部隊として学生達からそう略称され恐れられていた)、東大安田講堂、内ゲバ、浅
間山荘、連合赤軍と過激さをエスカレートさせていった時代。フォークソング、ジャズ、アバンギャ
ルド、アングラ、エログロナンセンスなサブカルチャーな時代。その熱波にすっか り浮かれたおマ
セな高校生もいよいよ満を持して大学デビューのころには、目指す戦いの場キャンパスはその団
塊人たちが無秩序に荒らしていった夢の後の残り香がただようまるで戦後復興の風景だった。か
ろうじて残る12連の立て看と500~600人と往時からは激減したメットの角棒たちのシュプレヒ
コールとアジテーションはもはやキャンパスに似合わない不快な騒音と化し、それを横目に新旧、
水と油のスケボーがサーフボードが綺麗な女子大生が闊歩するウェスト・コーストの波と華やかな
春が訪れていた。そんな眩しい学園に肩透かしをくらった僕は愕然と途方にくれながら理工学部
で建築を志すも、団塊人たちの手の平を返したような裏切りとそのおとしまいをつけない無節操な
、総括できない潔悪い態度が腑に落ちず、社会学の記号、情報、コミュニケーション論へその答を求め
て学部学科を移籍したのだが、直感どおり捜し求めていた明快な答はそこにあった。

以来、あれだけ愛してやまなかった東京の熱は冷め、東京は居心地の悪い生理的にも不快な
環境となってしまう。唯一の就職は、5年間、日米の百貨店最大手で人の百貨な欲望とそれを
満たすマーチャンダイジング、マーケティングを遊学し予定通り何のあてもなかったが僕は会社を
卒業して、社会の大海原に船出する。以後47歳まで東京を離れ広大な自然と適度な都会が接
する、そこは何よりピンとした空気、シャキシャキの雪音、待ち遠しい雪融けの春を細胞が四季の
リズムに喚起し喜ぶ北海道札幌の地から東京を優雅に刺激し世界で遊ぶ人生を選択したのだが
。やがて20年の時を経て来る地域を越えて地球規模の価値を創造できるIT時代の先駆けとして。

「女大好きだけど女大嫌い」これは僕の口癖だが僕の生きざまを知るものならきっと微笑むだろ
う。同様に「東京が大好きだけど東京が大嫌い」47歳で都落ちして再び東京暮らし4年のこの
台詞に苦笑するだろう。やっと到来したIT時代に何も鬱蒼とした巨大な灰色の精密な機械の中
で 重苦しくその機械のリズムに強要されて呼吸する理由などないワケだから。しかもフェイクがリ
アルな東京などに、もはやいる時代ではないのに。。。地球レベルの価値の創造に、もはや都市
でなければならない理由などない。孤島からでも山頂からでも世界の辺境からでも、たった一人
で創造できる時代に。。。

カルチャーを生業にしている身としては仕事では行き交うが、僕は今の代官山からあふれ出して
恵比寿、中目黒へ蔓延したカルチャー気分がどうにも好きになれない。90年代には札幌のオフ
ィスと代官山にもオフィスを持ち行き来しては東京を刺激してはいたものの。第二期ヒルサイドテ
ラスに誕生した生活雑貨のセレクトショップの先駆けスイート・リトル・スタジオや木屋ギャラリー
が誕生し、ビギがバー・スワミーが生まれ、ハリランが、まだキラー通りのペンシルビルの一室
からやっと越してきたぐらいまでの代官山が好きだからか。街にも人にも気分にも高雅な余裕が
あったからなのか。それは、時代の先駆けの点で蔓延する面になるはるか前夜。未来のイブだ
からかもしれない。ファッド(風俗)、ファッション(流行)の起点。 誰もいない誰も来ない未開の地
に想像力豊かに分け入る悦楽。後から着いて来る未来の普通の起源を見つける喜び。安易に
安価に手にできる多種多彩な価値がサイバースペースでエンドレスに跋扈するIT時代の東京サ
ブ軽チャーな気分の象徴が、僕には中目なんだろうか。。。 いやただ単に年寄りになってしまっ
たからなのだろうか。。。

そんな中目なお若い衆が絶賛していたソフィア・コッポラの第2作「ロスト・イン・トランスレーション
を遅まきながらやっと観ることができた。2003年の話題作だから4年も遅れて。見逃がしてきた理
由はたぶんあまり好きじゃない中目な諸兄に絶賛されていたことかもしれないが(冗笑)。そんな、
ある中目君は「旧世代ハリウッドとは登場するアイコンが富士山、芸者から製作者の世代が代わ
り、 ロボット、クラブと違いはあるものの相変わらず日本を差別的に扱っている」と言い。ある中目
ちゃんは「どこにも居場所がない時に感じる寂しさが東京の街に似合っている」と言うのだが。。。

話は話題作なだけに今さら説明する必要もないかもしれないが、映画の冒頭、画面いっぱいに
横たわるスカーレット・ヨハンソンのパンツ姿のアップ。その未熟で薄いお尻が心もとなく所在無
げに淋しさを語り事を予感させる。地上のアイレベルでの、一見、無秩序に見える混沌と実は律
儀に精緻に整然としたネオン、ゲーム、パチンコ、雑踏。その理解不能な超えている進化が蠢く
東京の不思議が鬱蒼としたベタなグレー都市は疎通不能の疎外感を淡く浮上させる。眼下に広
がる新宿、千駄ヶ谷、渋谷の昼夜を西新宿のパーク・ハイアットのピクチャーウィンドーから、手持
ち無沙汰にひざを抱え俯瞰レベルで眺めるスカーレット・ヨハンソンの姿態がそのすべてを物語る。
まるで行き場を失った籠の鳥のように。。。

僕はこれほど東京をリアルに明瞭に表した映像をいまだかって見たことがない。もんもんと気の
抜けない刺激の競争と欲望がどんより淀む快不快と苛立ち。「東京大好きだけど東京大嫌い」な
フェイクがリアルな東京を、毎日、件(くだん)の窓から眺めている僕の体が知っている東京が映
し出されているのに驚いた。日本人以上に東京人以上に東京を知り表している映像に共振した。
それは、表参道に建つ小さなイサムノグチの灯を立てたような風情と間合いのプラダビルを彷彿
させる。スイス人の中年建築家達にまんまとしてやられた。今の日本人に表せない純度の高い
リアルな日本。リアルな東京。日本人以上に日本のコアが何たるか知りえての表し。小さな敷
地が大きく雄大で優美な箱庭や盆栽のミクロコスモスのような風雅な風情を蘇らせてくれる。豊
富な知識と潤沢な資金で広大で貴重な土地に六本木ヒルズしか建てられない貧相な感性の日
本人にとって、彼女や彼らの冷静で真摯な日本感に感服だ。もはや美しくない国の首都東京に
あって。。。異国の若い目に我々が失った2600年来の美が佇まいが受け継がれている事に。

1300万人が精密に律儀に蠢くにもかかわらず、その生気が通りすがりには見えない東京と言
う 世にも稀なネオンと騒音またたく不眠不休のグレー都市、その不思議の国に偶然さ迷い、CF
取りの仕事で東京に来た中年俳優役のビル・マーレーと結婚間もないカメラマンの夫の出張に
同行したイエール出の妻役スカーレット・ヨハンソンは、宿泊滞在先の新宿パーク・ハイアットで出
会い共に抱えるどこにも居場所のない疎外感と淋しさを淡く共鳴しあうのだが。。。 長年連れ添
った夫婦は、アメリカの妻や子供たちと通じ合えない、自分を理解してもらえない、自分が置き去
りにされている孤独と淋しさを抱え。結婚間もない夫婦は、彼のリズムやテンポとかみ合わず、
同じホテルに滞在するも、自分を理解してもらえない、自分が置き去りにされている孤独と淋しさ
を抱える。ふたりは、仕事にも社会にも家庭にも確かな自分の居場所を見つけられない不安と
孤独から不眠性と化すも、本来唯一、理解され受け入れられるはずの心の居場所、妻や夫、家
族との疎通不能な孤独と淋しさを、最も理解不能な異文化東京と言う不思議の国で、どこにも自
分の居場所のない、言葉も気分も通じ合えない疎外感から孤独をつのらせ、そんな不確かな自
分自身を彷徨う。ソフィア・コッポラ(監督)は疎通不能の疎外感、居場所がない孤独感、通じ合
えない不安感、自分を見失い彷徨うもどかしさ、その輪郭をあいまいにしながら淡く切ない佇ま
いで間接的に灯しだす。。。 そんな共通の境遇をさ迷うふたりはいつしか偶然の知り合い以上、
恋愛未満の微妙で淡い共鳴で通じ合うのだが。。。

人は一人では生きられない生物として進化してきた。人と言う文字が「ノ」と「、」ふたりで支えあ
って成り立つように、いや二人セットで始めて一人前の人となるように。それは、「男」と「女」で
人になれる。そりゃそうだ、人を作るのは愛と言う名で結ばれた見知らぬ男女から始まる。人を
作り人を育てその人に育てらる一生。言い換えれば人を結ぶ愛を学ぶために生涯男を生涯女を
生きる。弱い人は集団生活で、その集団生活を支えたのが定住農耕社会によって。そして今、
集団生活は多種多彩な経済の営みによって、その社会の仕組み組織の中で成り立つ。人はそ
こで生涯逃げられないふたつの疎通、コミュニケーションを会得しなければならない。命がリレー
される社会、世界の基本単位、男と女の意思疎通と自我と社会との意思疎通を。いずれの目的
も明白だ。不幸な関係を望むものはいまい。みな幸せを希求する。その万国万人老若男女共通
の願いを400万年の時を経て生き延びてきた人類の今を生きる我々は未だにさ迷っているのだ
から。サルと袂を分かった人は文化文明を営々と築き、みなが便利でみなが快適でみなが人権
を等しく守られるみなの幸せな環境を作ろうとしてきたが、その過程で、たったひとつ単純な過ち
も犯し続けてきた。そもそも農耕から始まった集団生活の人は、自然への畏敬の念から「宗教」
を編み出し、みなの安心、平和、を希求した。その宗教は教えを書物に教えの儀式を教えの館
をメディアや建造方法の進化とともに聖書に教会にして世界へ布教する。しかしひとたび形に事
にした宗教はやがてその修正や変革を異端と呼び旧は新と諍う。みなの幸せを願い叫ぶ宗教
者達は自らの既知を守るために未知と本末転倒な宗教戦争を2700年も続け、その果ては世界
に散らばるテロを鼓舞し今もって真逆を真理と小学生でもわかる間違いに気がつかない。同様
に知恵は知識を紡ぎ、みなの等しい幸せのため「思想」を編み出した人は、不幸な東西の冷戦を
生みおびただしい命を不幸の奈落へ突き落とした。その過ちの果ても唯一、北朝鮮の笑うに笑
えない喜劇のような不幸を世界はまだ残しているが。。。

すべての起源、男と女の意思疎通の鍛錬。同じ幸せを希求するも同じ言語を通用させるも、その
異性の異国の翻訳コードを生涯を通じて命を費やして、互いが読み解き理解するまなざし態度が
なければ分かち合えない事を。「命をかける」それを人は愛と称するのだから。男と女の和平はや
はり世界平和につながるすべての起源に思えるのだが。。。 LOVE & PEACE... & SMILE... と。

■字数制限により後編【追伸】に続く。

【今日のおすすめ】

僕にさまざまな想いを去来、喚起させた
ソフィア・コッポラの静かな快作
ロスト・イン・トランスレーション
日本版以外は日本語の台詞部分がjapanese speaking
と出るだけで翻訳や吹き替えがないことでさらにさ迷う
技ありの仕立てにうなる

Lost in Translation (2003)
Directed Writing credits
Sofia Coppola
Scarlett Johansson
Bill Murray

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2 コメント

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Unknown (hanwen)
2007-06-06 11:46:50
世界の平和についてのstimulisさんのお考えとまったく同感です。

マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞したとき、記者からこんな質問をされました。

"What can we do to promote world peace?"

テレサはこう答えたのです。

"Go home and love your family."

家族の愛、平和は、世界の愛、平和へとつながっていくということですね。



★hanwenさん (stimulis)
2007-06-07 13:43:22
◆コメントありがとうございます。

テレサの言う「家族愛」。
その「家族」が生まれる元は、血のつながらない、生まれ素性、
背景の違う、「男と女」。
だから、いつも最も理解しがたい異性との理解しあう対話という
コミュニケーションについて、僕は言及するんですけどね。
「誤解は諍いを生み、理解は和平を生む」
誤解はいさかい、争い、憎しみ、を生むけど
理解出来ないからこそ、たくさんの労力を惜しまず
理解する努力を双方が出来れば、必ず、和平が生まれる。
国家間も同じ。
そして、何より、「和平ある家庭=男と女」は幸せで、
その回りも幸せなんですね。幸せの連鎖。まずは夫婦の対話~!