汎智学を唱えたコメニウスは、「あらゆる人に、あらゆる事柄を、わずかな労力で、愉快に、着実に教える方法」を考案しようとしました。人間が生来、内に持っている能力を成熟させて、自分自身の理性で物事を正しく認識・利用できる人間を育てようと説きました。
モンテッソーリは一九〇七年(「子どもの家」を作った年)、神智学協会の代表者アニー・ベサント(一八四七-一九三三)によって「未来の教育者」とされました。モンテッソーリは一九三九年から四六年まで、インドの神智学協会本部に滞在して、彼女の教育学の新たな体系化を行なっています。
ルドルフ・シュタイナーは一九〇七年、『精神科学の観点からの子どもの教育』を発表しました。彼は人智学を創始した思想家です。シュタイナー教育は、特定の宗教団体とのつながりのない教育運動のなかでは、世界で最も大きな広がりを持っています。モンテッソーリが「科学的教育学」を開発したのに対し、彼は「教育技芸」を唱えました。
ルソーは書物中心の教育を批判して、感覚体験を重視し、自由な存在として生まれた子どもに幸福な幼年期を過ごさせることを説きました。彼は理性重視の合理主義に対して、心情の意味を強調しました。感性的判断(幼少年期)から悟性的判断(少年期後期)、そして理性的判断(青年期)にいたるという三段階の発展を説き、自分自身で生きていける人間を育てようと考えました。
ペスタロッチは模倣を教育手段として、子どもの自然な歩みに従う教授法を打ち立てようとしました。頭(知性)と心(心情・道徳)と手(技能)の調和的な発達を大事に考えて、子どもの持って生まれた本来の素質を延ばす教育の方法を探求し、中世の画一的つめこみ主義を改革しようとしました。
ペスタロッチに学んだのがフレーベルです。フレーベルもモンテッソーリも知育のための玩具=教具を使いますが、これはシュタイナー教育では用いません。
シュタイナーは、人間を〈からだ・いのち・こころ・たましい〉の四つからなるものととらえました。そして、これらの部分がおよそ七年ごとのリズムで開発されていく、と彼は考えました。
七歳までは周囲を反映し、人々は善であると感じているときで、愛を感じられる家庭環境であることが重要です。七歳から十四歳までは、生きることの楽しみを感じ、すべては素晴らしいと感じるときで、教師を信頼できることが大切な時期です。十四歳から二十一歳までは、内的な自立に向かいます。知識を概念・理念の形で受け取り、ものごとを自分で判断できる人間になる時期です。七年ごとの節目以外にも、自分と外界を区別する九歳、因果関係を理解する十二歳、将来の方向を意識する十八歳が注目されます。
シュタイナーの人間観で特徴的なのは、子どもはこの人生でやるべきことがあるから生まれてくる、という見方です。自分のテーマを持たずに生まれてくる人間はいない、という人生観です。親と教師は、子どもが持って生まれた能力・素質を尊重し、それを成就させようとします。子どもは自分の課題に適した親を選んで生まれてくる、という言い方をシュタイナーはしています(親による子どもの虐待という問題がありますが)。自分の魂を生かすのに相応しい身体を、遺伝を通して与えてくれる親を選ぶというのです。
子どもは一〇歳ごろまでに、親の言動を模倣することをとおして、親の考え方・感じ方を吸収します。それが、その子の道徳を形作っていきます。シュタイナー学校では、あらゆる学科が道徳感覚を育成するので、別個に道徳の時間はありません。例えば理科の授業で、自然界の秩序・調和を学べば、それが道徳感覚を育てるはずです。例えば生物を、個々のものに切り離して教えるのではなく、生命を成り立たせている環境全体との関連において体験させれば、生徒たちは自然界の法則=道徳を実感します。数学にしても、その美しい秩序を学ぶことによって、道徳感覚が養われます。地理や歴史からは、人間の存在の条件を感じ取れます。
学童期は、イメージ的・絵画的・音楽的な学習が大切な時期です。この頃、尊敬できる大人がいないと、自由な人間へと成長していけない、とシュタイナーは考えていました。また、思春期に個性が目覚めないと、依存的・反抗的になっていく、と考えていました。少年期における抽象的思考は、批判的・衝動的な行動を誘発します。
シュタイナー学校では、教師は教科書に頼って授業をしません。自分が身に付けた知を、メモにもノートにも頼らずに、語ることができて初めて、生徒はその先生の話に耳を傾ける、と考えています。
子どもが自分で判断できる年齢になるまで、大人が模範を示すことが大事です。幼いうちから子どもに自分で決定させると、無気力で不機嫌な人間になります。子どもの言いなりにしていると、子どもは自分の基準とするべき見本がなくて、自分を支配できないようになります。見本を示されていると、思春期になって、自分の考えで自制できるようになります。なじみの話、いつもの遊びなど、生活のなかに繰り返しがあると、意志の強い、落ち着いた子になります。
「しかる・ほめる」が、思春期に良心が目覚める準備になります。自分の良心から行動する人間が自由な人間だ、とシュタイナーは考えていました(良心が目覚めるのは十歳ごろからです)。大人が感情的に怒ると、子どもは大人の怒りに反応し、叱られている内容を洞察できません。いつも叱られて、びくびくし、不安になると、子どもは不器用になっていきます。叱り過ぎると、子どもは過敏になり、叱らないと、良心が欠如した人間になります。甘やかすと、断念を学べず、意志の弱い、無気力な人間になる可能性があります。厳しいしつけは、子どもを受動的にし、やがて外界に対する関心を失わせ、ついには暴力的な行動に走らせます。
学童にとって、大人は確かな判断をするオーソリティーである必要があります。教師の適性は、学識ではなく、生徒に信頼される人格(親しみやすいと同時に、よい意味での権威者として見上げられる風格)です。大人が子どもと同じレベルに下りる必要はありません。子どもは本来、大人を見上げて、そこに向かって成長していこうとするものです。
大人の意志が弱っていると、子どもは落ち着きがなくなります。大人が手で仕事をすることが少なく、機械に頼りすぎたり、大人に将来への不安や悲観があると、子どもは落ち着きをなくします。大人が世間を中傷することが多い場合も、子どもは落ち着かなくなります。落ち着きのない子を癒すのは、大人が発する敬虔な雰囲気です。そのためには、大人が内的な平安を育てる時間を確保しておく必要があります。
大人自身が知的に硬化していない、自由で創造的な人間である必要があります。そのためには、自然体験・芸術体験によって、心に抑圧のない、開放的でくつろいだ人間になっている必要があります。シュタイナー学校の教員養成では、まずシュタイナーの人間観・精神科学、第二に芸術体験、そして教育方法の習得というふうに、教師になる人の芸術体験が重視されています。
思春期には、内面とは逆の行動するという特徴があります。思春期の少年は、内面に閉じこもりがちです。自分を外に出さず、不良の真似をしてみることもあります。少女の個我は、大自然に結び付いている心の影響を受けます。自由で開放的な自分を示しますが、人に対して批判的になります。シュタイナーは、少々のことは、いちいち注意せず、大目に見ていました。少年には、ユーモアをもって接するのがいい、と考えていました。思春期に必要なのは、理想を持っていることです。少年には、英雄の性格を物語り、少女には偉人の美しい行為を絵画的に物語ります。思春期の少年少女は本来、人生は崇高な目的のためにあると思っているので、それを挫くようなことを大人が言ってはなりません。自然の雄大な美を体験することが、思春期の非行を防ぎます。思春期には、父母を人間として知ること、両親が子どもの話相手になることができます。
特に日本で問題になるものに、テレビがあります。テレビは、ただ見ていれば、自分の努力なしに楽しめるものです。その結果、テレビを見ていると、思考が受動的・表面的になります。言葉が単純になり、集中力・創造性が低下します。意志が弱くなり、攻撃的になります。シュタイナー教育では、テレビを見ても害がないのは十六歳以降と考えています。十歳以後なら、害はいくぶん少なくなりますが、親が一緒に見て、番組の内容についてあとで話し合って消化する必要があります。
子どもは、人類が通過してきたことを、自分の成長につれて順に体験していくものです。例えば、楽器はまず昔からあるもの(笛や弦楽器や打楽器)を手にし、近代の楽器(ピアノ)は、もう少し大きくなってからにします。現代の発明品であるコンピュータは、大人になってから-早くても青年になってから-習得するものです。コンピュータは仕事に使うものであって、ゲームに使うものではありません。遊びに使うと、没頭してしまって、受ける影響が多くなります。
建築に譬えれば、小学校までが、基礎を固める時期です。小学校時代は柱を立てる時期、中学・高校時代は屋根を乗せる時期だといえます。インスタント食品で手早く料理することもできますが、味わい深いものは、本格的に、じっくりと時間をかける必要があります。基礎(体)や柱(心)がしっかりできていないうちに、急いで屋根(頭)を乗せようとすると、安定感に欠けた家になります。
三歳ごろにしっかり歩けることが、しっかり話せる基盤になります。五歳ごろにしっかり話せると、しっかりと考えられる基盤ができていきます。早く歩かせようとしたり、大人が子どもに幼児語で話しかけたり、いろんなことを記憶させたりすると、のちに心身に問題が出ることがあります。幼年期の成長力が、やがて想像力に変化し、さらに知力に変化していきます。感覚的印象と想像力が脳を形成していきます。穏やかな感覚的印象と、想像力を刺激する素朴なおもちゃが大事になってきます。完成されたもの(本物そっくりにできている玩具)だと、想像力がせき止められるし、知育目的の抽象的な遊びは、子どもを生活から引き離していきます。遊びは、大人の仕事の真似をして、生活能力へとつながっていくものがいいのです。想像力がないと、他人に敷かれたレールの上を歩むことしかできなくなります。
幼児は全身で周囲の印象に没頭しているので、環境が穏やかで安らかな印象を与えることが大切です。子どもは、きつい味付けのものを好むことがありますが、それが体によくないことは、だれでも知っています。同様に、けばけばしい色・形や騒々しい音は、子どもの心身を害していきます。まわりの大人の行為と思考が、落ち着きと愛情あるものであることも重要です。
一日を静かに始め、元気に過ごしたあと、静かに終えることが大切なので、たとえば童話を語るときも、劇的にせず、淡々とした語りに終始します。幼稚園時代に知育すると、心身が虚弱になる可能性が出てきます。最も大事なのは、親が明確な考えをもって行動することです。真似をする手本を親が示さないと、子どもの意志は盲目のものになります。
子どもは、親の手伝いをできることがうれしいのですから、「これをしてくれたら、ほうびをあげる」と言う必要はありません。親の手助けをできること自体がうれしかったのに、ほうび目当てに手伝うようになってしまいます。叱るときも、「罰を与える」と言うと、自分の行為の善悪を考えないまま、罰を恐れて行動を控えます。それだと、教育になりません。
両親がそろっている家庭の場合、妻が夫をどう思っているか、夫が妻をどう思っているかが、そのまま子どもに伝わります。父親と母親の間に、教育方針のずれがあると、子どもは迷ってしまいます。父親の態度が、思春期の子どもに大きな意味を持ちます。会社員の場合、子どもは父親が働く姿を目にしていないので、休日に家庭労働をすると、子どもは父親の価値を認めます。また、母親が子どもに家庭で、父親のことをしばしば話題にすると、子どもと父親との結び付きを支援できます。
子どもをしつけるには、まずその子を信頼することから始めます。すると、親の信頼に応えて、子どもが親を信頼します。親は夜、自分の子が今日どんなふうだったかを、ありのままに思い浮かべてみます。教師は、学校に行くまえに、自分の担任する生徒たち一人一人を思い浮かべます。そのようなことが、不思議なことに、子どもとの関係をよくしていくものです。
幼年期・少年期に体験した暖かさ・楽しさは、たとえ意識の表面からは消え去っても、生きていこうとする力として、深みから作用しつづけます。
モンテッソーリは一九〇七年(「子どもの家」を作った年)、神智学協会の代表者アニー・ベサント(一八四七-一九三三)によって「未来の教育者」とされました。モンテッソーリは一九三九年から四六年まで、インドの神智学協会本部に滞在して、彼女の教育学の新たな体系化を行なっています。
ルドルフ・シュタイナーは一九〇七年、『精神科学の観点からの子どもの教育』を発表しました。彼は人智学を創始した思想家です。シュタイナー教育は、特定の宗教団体とのつながりのない教育運動のなかでは、世界で最も大きな広がりを持っています。モンテッソーリが「科学的教育学」を開発したのに対し、彼は「教育技芸」を唱えました。
ルソーは書物中心の教育を批判して、感覚体験を重視し、自由な存在として生まれた子どもに幸福な幼年期を過ごさせることを説きました。彼は理性重視の合理主義に対して、心情の意味を強調しました。感性的判断(幼少年期)から悟性的判断(少年期後期)、そして理性的判断(青年期)にいたるという三段階の発展を説き、自分自身で生きていける人間を育てようと考えました。
ペスタロッチは模倣を教育手段として、子どもの自然な歩みに従う教授法を打ち立てようとしました。頭(知性)と心(心情・道徳)と手(技能)の調和的な発達を大事に考えて、子どもの持って生まれた本来の素質を延ばす教育の方法を探求し、中世の画一的つめこみ主義を改革しようとしました。
ペスタロッチに学んだのがフレーベルです。フレーベルもモンテッソーリも知育のための玩具=教具を使いますが、これはシュタイナー教育では用いません。
シュタイナーは、人間を〈からだ・いのち・こころ・たましい〉の四つからなるものととらえました。そして、これらの部分がおよそ七年ごとのリズムで開発されていく、と彼は考えました。
七歳までは周囲を反映し、人々は善であると感じているときで、愛を感じられる家庭環境であることが重要です。七歳から十四歳までは、生きることの楽しみを感じ、すべては素晴らしいと感じるときで、教師を信頼できることが大切な時期です。十四歳から二十一歳までは、内的な自立に向かいます。知識を概念・理念の形で受け取り、ものごとを自分で判断できる人間になる時期です。七年ごとの節目以外にも、自分と外界を区別する九歳、因果関係を理解する十二歳、将来の方向を意識する十八歳が注目されます。
シュタイナーの人間観で特徴的なのは、子どもはこの人生でやるべきことがあるから生まれてくる、という見方です。自分のテーマを持たずに生まれてくる人間はいない、という人生観です。親と教師は、子どもが持って生まれた能力・素質を尊重し、それを成就させようとします。子どもは自分の課題に適した親を選んで生まれてくる、という言い方をシュタイナーはしています(親による子どもの虐待という問題がありますが)。自分の魂を生かすのに相応しい身体を、遺伝を通して与えてくれる親を選ぶというのです。
子どもは一〇歳ごろまでに、親の言動を模倣することをとおして、親の考え方・感じ方を吸収します。それが、その子の道徳を形作っていきます。シュタイナー学校では、あらゆる学科が道徳感覚を育成するので、別個に道徳の時間はありません。例えば理科の授業で、自然界の秩序・調和を学べば、それが道徳感覚を育てるはずです。例えば生物を、個々のものに切り離して教えるのではなく、生命を成り立たせている環境全体との関連において体験させれば、生徒たちは自然界の法則=道徳を実感します。数学にしても、その美しい秩序を学ぶことによって、道徳感覚が養われます。地理や歴史からは、人間の存在の条件を感じ取れます。
学童期は、イメージ的・絵画的・音楽的な学習が大切な時期です。この頃、尊敬できる大人がいないと、自由な人間へと成長していけない、とシュタイナーは考えていました。また、思春期に個性が目覚めないと、依存的・反抗的になっていく、と考えていました。少年期における抽象的思考は、批判的・衝動的な行動を誘発します。
シュタイナー学校では、教師は教科書に頼って授業をしません。自分が身に付けた知を、メモにもノートにも頼らずに、語ることができて初めて、生徒はその先生の話に耳を傾ける、と考えています。
子どもが自分で判断できる年齢になるまで、大人が模範を示すことが大事です。幼いうちから子どもに自分で決定させると、無気力で不機嫌な人間になります。子どもの言いなりにしていると、子どもは自分の基準とするべき見本がなくて、自分を支配できないようになります。見本を示されていると、思春期になって、自分の考えで自制できるようになります。なじみの話、いつもの遊びなど、生活のなかに繰り返しがあると、意志の強い、落ち着いた子になります。
「しかる・ほめる」が、思春期に良心が目覚める準備になります。自分の良心から行動する人間が自由な人間だ、とシュタイナーは考えていました(良心が目覚めるのは十歳ごろからです)。大人が感情的に怒ると、子どもは大人の怒りに反応し、叱られている内容を洞察できません。いつも叱られて、びくびくし、不安になると、子どもは不器用になっていきます。叱り過ぎると、子どもは過敏になり、叱らないと、良心が欠如した人間になります。甘やかすと、断念を学べず、意志の弱い、無気力な人間になる可能性があります。厳しいしつけは、子どもを受動的にし、やがて外界に対する関心を失わせ、ついには暴力的な行動に走らせます。
学童にとって、大人は確かな判断をするオーソリティーである必要があります。教師の適性は、学識ではなく、生徒に信頼される人格(親しみやすいと同時に、よい意味での権威者として見上げられる風格)です。大人が子どもと同じレベルに下りる必要はありません。子どもは本来、大人を見上げて、そこに向かって成長していこうとするものです。
大人の意志が弱っていると、子どもは落ち着きがなくなります。大人が手で仕事をすることが少なく、機械に頼りすぎたり、大人に将来への不安や悲観があると、子どもは落ち着きをなくします。大人が世間を中傷することが多い場合も、子どもは落ち着かなくなります。落ち着きのない子を癒すのは、大人が発する敬虔な雰囲気です。そのためには、大人が内的な平安を育てる時間を確保しておく必要があります。
大人自身が知的に硬化していない、自由で創造的な人間である必要があります。そのためには、自然体験・芸術体験によって、心に抑圧のない、開放的でくつろいだ人間になっている必要があります。シュタイナー学校の教員養成では、まずシュタイナーの人間観・精神科学、第二に芸術体験、そして教育方法の習得というふうに、教師になる人の芸術体験が重視されています。
思春期には、内面とは逆の行動するという特徴があります。思春期の少年は、内面に閉じこもりがちです。自分を外に出さず、不良の真似をしてみることもあります。少女の個我は、大自然に結び付いている心の影響を受けます。自由で開放的な自分を示しますが、人に対して批判的になります。シュタイナーは、少々のことは、いちいち注意せず、大目に見ていました。少年には、ユーモアをもって接するのがいい、と考えていました。思春期に必要なのは、理想を持っていることです。少年には、英雄の性格を物語り、少女には偉人の美しい行為を絵画的に物語ります。思春期の少年少女は本来、人生は崇高な目的のためにあると思っているので、それを挫くようなことを大人が言ってはなりません。自然の雄大な美を体験することが、思春期の非行を防ぎます。思春期には、父母を人間として知ること、両親が子どもの話相手になることができます。
特に日本で問題になるものに、テレビがあります。テレビは、ただ見ていれば、自分の努力なしに楽しめるものです。その結果、テレビを見ていると、思考が受動的・表面的になります。言葉が単純になり、集中力・創造性が低下します。意志が弱くなり、攻撃的になります。シュタイナー教育では、テレビを見ても害がないのは十六歳以降と考えています。十歳以後なら、害はいくぶん少なくなりますが、親が一緒に見て、番組の内容についてあとで話し合って消化する必要があります。
子どもは、人類が通過してきたことを、自分の成長につれて順に体験していくものです。例えば、楽器はまず昔からあるもの(笛や弦楽器や打楽器)を手にし、近代の楽器(ピアノ)は、もう少し大きくなってからにします。現代の発明品であるコンピュータは、大人になってから-早くても青年になってから-習得するものです。コンピュータは仕事に使うものであって、ゲームに使うものではありません。遊びに使うと、没頭してしまって、受ける影響が多くなります。
建築に譬えれば、小学校までが、基礎を固める時期です。小学校時代は柱を立てる時期、中学・高校時代は屋根を乗せる時期だといえます。インスタント食品で手早く料理することもできますが、味わい深いものは、本格的に、じっくりと時間をかける必要があります。基礎(体)や柱(心)がしっかりできていないうちに、急いで屋根(頭)を乗せようとすると、安定感に欠けた家になります。
三歳ごろにしっかり歩けることが、しっかり話せる基盤になります。五歳ごろにしっかり話せると、しっかりと考えられる基盤ができていきます。早く歩かせようとしたり、大人が子どもに幼児語で話しかけたり、いろんなことを記憶させたりすると、のちに心身に問題が出ることがあります。幼年期の成長力が、やがて想像力に変化し、さらに知力に変化していきます。感覚的印象と想像力が脳を形成していきます。穏やかな感覚的印象と、想像力を刺激する素朴なおもちゃが大事になってきます。完成されたもの(本物そっくりにできている玩具)だと、想像力がせき止められるし、知育目的の抽象的な遊びは、子どもを生活から引き離していきます。遊びは、大人の仕事の真似をして、生活能力へとつながっていくものがいいのです。想像力がないと、他人に敷かれたレールの上を歩むことしかできなくなります。
幼児は全身で周囲の印象に没頭しているので、環境が穏やかで安らかな印象を与えることが大切です。子どもは、きつい味付けのものを好むことがありますが、それが体によくないことは、だれでも知っています。同様に、けばけばしい色・形や騒々しい音は、子どもの心身を害していきます。まわりの大人の行為と思考が、落ち着きと愛情あるものであることも重要です。
一日を静かに始め、元気に過ごしたあと、静かに終えることが大切なので、たとえば童話を語るときも、劇的にせず、淡々とした語りに終始します。幼稚園時代に知育すると、心身が虚弱になる可能性が出てきます。最も大事なのは、親が明確な考えをもって行動することです。真似をする手本を親が示さないと、子どもの意志は盲目のものになります。
子どもは、親の手伝いをできることがうれしいのですから、「これをしてくれたら、ほうびをあげる」と言う必要はありません。親の手助けをできること自体がうれしかったのに、ほうび目当てに手伝うようになってしまいます。叱るときも、「罰を与える」と言うと、自分の行為の善悪を考えないまま、罰を恐れて行動を控えます。それだと、教育になりません。
両親がそろっている家庭の場合、妻が夫をどう思っているか、夫が妻をどう思っているかが、そのまま子どもに伝わります。父親と母親の間に、教育方針のずれがあると、子どもは迷ってしまいます。父親の態度が、思春期の子どもに大きな意味を持ちます。会社員の場合、子どもは父親が働く姿を目にしていないので、休日に家庭労働をすると、子どもは父親の価値を認めます。また、母親が子どもに家庭で、父親のことをしばしば話題にすると、子どもと父親との結び付きを支援できます。
子どもをしつけるには、まずその子を信頼することから始めます。すると、親の信頼に応えて、子どもが親を信頼します。親は夜、自分の子が今日どんなふうだったかを、ありのままに思い浮かべてみます。教師は、学校に行くまえに、自分の担任する生徒たち一人一人を思い浮かべます。そのようなことが、不思議なことに、子どもとの関係をよくしていくものです。
幼年期・少年期に体験した暖かさ・楽しさは、たとえ意識の表面からは消え去っても、生きていこうとする力として、深みから作用しつづけます。