私は自主保育の出身です。本年9月に上演した『シンドウトオン』を、新しい保育を考える会「しんぽれん」の遠藤麻子さんが観に来て下さり、しんぽれん/ニュースレター「卒会生は今・・・」に、
・自主保育時代の思い出に残っているエピソード。
・自主保育で育ったことが、自分(仕事、ダンス、表現)に影響しているか?
・将来の夢(ギョッ★) ・・・・・など、原稿依頼をいただきました。
人と話している際、相手のことだけではなく、自分自身についても発見のあることがあります。文章も同じ。意外なことに気がつくことがあるので、文章を書くのが好きです。
今「満月がなりやまない」の稽古で、時間を(過去へ)さかのぼるというモチーフがあり、メンバーと稽古をしています。
また、制作をお願いした増山くん(まっすー)とも、「荒木志水が、ダンスとするモノとはなんなのか?」というやりとりがあり「なんなのでしょう?」と考えざる得ない。
で、ニュースレターの原稿を書いたところ、どうも私の身体感覚、指向は、暑い・冷たい・眩しい・暗い・広い・季節の匂いや、温度・湿度、明暗など、感情よりも皮膚感覚や情景の感覚が優勢であるような気がしています。
///////////////////////無題
幼いころの体験ほど強烈で新鮮なものに出会うチャンスは、大人になるにつれ減っていくように感じます。現在、私はダンサーとして活動していますが、踊りを観ていただいた方に「君は自然と会話ができるでしょ」と、冗談を言われたことがあります。
自主保育には3才から「駒沢おひさま会」に参加し、雨の日は児童館、晴れの日の多くは駒沢公園で過ごしました。夏には川に入り、秋には銀杏やドングリを拾い、焚き火で芋や枝の先につけたパンを焼く。一年中ビーチサンダルにTシャツの男の子が雪の日、ついに泣き出したときは「やっぱり寒いんだ」と、こっそり笑う。ザリガニを釣り、カエルやトカゲを飼い、エサであるハエの取り方を仕込んでもらいました。駒沢公園の他には羽根木公園や世田谷公園、その他、覚えきれないほど、近辺のあらゆる広場や公園にいきました。卒会後は区立の小学校に上がりましたが、自主保育時代のように自由で多様な体験を毎日のようにすることはありませんでした。
ダンスは大学を卒業する間際、大人になってから始めました。私にはバレエリーナーのようなテクニックはありませんが「雰囲気がある」「つい目がいってしまう」と言っていただくことがあります。よく踊れたと思えるとき、舞台に居ながら別の場所に立っているような錯覚を覚えます。嵐の中であるとか、真夏の蝉の声がうるさい木漏れ陽の中、冷たい雪が皮膚に染み込んでくるような吹雪の日など。あとは人間関係の中で抱く感情を投射することもあります。人から教えていただく技術以外のオリジナリティは、自分自身の体験や探求の中からしか得られないものだと思います。また感性に至っては豊かなモノとのふれ合い以外に育むことはできないでしょう。劇場、美術館、展覧会に行き、よいものを見る。音楽を聞き、本を読み、映画を観る。たくさんの人に会う。一緒に作業して、楽しかったり、喧嘩をしたり。身をもって体験し、舞い上がるほど喜んだり、背筋が凍ったり、冷や汗をかいて反省したり、実感したことだから舞台でもその身体になることができる。
自主保育では最低限、危険なことを叱られる以外は放任主義でした。全体での移動や日ごとのスケジュールに合わせることは必要ですが、皆が芋を焼いているときに、横で虫を追いかけていても、さほど問題はありません。幸せに生きるために大切なことの一つは、好きなこと、やりたいことがあることだと思います。親や先生が「やりなさい」と言ったからやるのではなく、自分でやりたいことを選ぶ。なにをしたいか自分で決める。失敗しても間違えても、焚き火の後、焼き芋が食べられなくても自分の責任。
自主保育は、主体性と責任を持つ姿勢を育んでくれる場だと思います。まっさらな幼いころに、同年代の子どもたちと共に自然の中で夢中になって遊び、のびのびと過ごせたことは本当に幸せなことでした。
/////////(ビックミスな誤字脱字などなければ、2009年1月号に掲載予定)
・自主保育時代の思い出に残っているエピソード。
・自主保育で育ったことが、自分(仕事、ダンス、表現)に影響しているか?
・将来の夢(ギョッ★) ・・・・・など、原稿依頼をいただきました。
人と話している際、相手のことだけではなく、自分自身についても発見のあることがあります。文章も同じ。意外なことに気がつくことがあるので、文章を書くのが好きです。
今「満月がなりやまない」の稽古で、時間を(過去へ)さかのぼるというモチーフがあり、メンバーと稽古をしています。
また、制作をお願いした増山くん(まっすー)とも、「荒木志水が、ダンスとするモノとはなんなのか?」というやりとりがあり「なんなのでしょう?」と考えざる得ない。
で、ニュースレターの原稿を書いたところ、どうも私の身体感覚、指向は、暑い・冷たい・眩しい・暗い・広い・季節の匂いや、温度・湿度、明暗など、感情よりも皮膚感覚や情景の感覚が優勢であるような気がしています。
///////////////////////無題
幼いころの体験ほど強烈で新鮮なものに出会うチャンスは、大人になるにつれ減っていくように感じます。現在、私はダンサーとして活動していますが、踊りを観ていただいた方に「君は自然と会話ができるでしょ」と、冗談を言われたことがあります。
自主保育には3才から「駒沢おひさま会」に参加し、雨の日は児童館、晴れの日の多くは駒沢公園で過ごしました。夏には川に入り、秋には銀杏やドングリを拾い、焚き火で芋や枝の先につけたパンを焼く。一年中ビーチサンダルにTシャツの男の子が雪の日、ついに泣き出したときは「やっぱり寒いんだ」と、こっそり笑う。ザリガニを釣り、カエルやトカゲを飼い、エサであるハエの取り方を仕込んでもらいました。駒沢公園の他には羽根木公園や世田谷公園、その他、覚えきれないほど、近辺のあらゆる広場や公園にいきました。卒会後は区立の小学校に上がりましたが、自主保育時代のように自由で多様な体験を毎日のようにすることはありませんでした。
ダンスは大学を卒業する間際、大人になってから始めました。私にはバレエリーナーのようなテクニックはありませんが「雰囲気がある」「つい目がいってしまう」と言っていただくことがあります。よく踊れたと思えるとき、舞台に居ながら別の場所に立っているような錯覚を覚えます。嵐の中であるとか、真夏の蝉の声がうるさい木漏れ陽の中、冷たい雪が皮膚に染み込んでくるような吹雪の日など。あとは人間関係の中で抱く感情を投射することもあります。人から教えていただく技術以外のオリジナリティは、自分自身の体験や探求の中からしか得られないものだと思います。また感性に至っては豊かなモノとのふれ合い以外に育むことはできないでしょう。劇場、美術館、展覧会に行き、よいものを見る。音楽を聞き、本を読み、映画を観る。たくさんの人に会う。一緒に作業して、楽しかったり、喧嘩をしたり。身をもって体験し、舞い上がるほど喜んだり、背筋が凍ったり、冷や汗をかいて反省したり、実感したことだから舞台でもその身体になることができる。
自主保育では最低限、危険なことを叱られる以外は放任主義でした。全体での移動や日ごとのスケジュールに合わせることは必要ですが、皆が芋を焼いているときに、横で虫を追いかけていても、さほど問題はありません。幸せに生きるために大切なことの一つは、好きなこと、やりたいことがあることだと思います。親や先生が「やりなさい」と言ったからやるのではなく、自分でやりたいことを選ぶ。なにをしたいか自分で決める。失敗しても間違えても、焚き火の後、焼き芋が食べられなくても自分の責任。
自主保育は、主体性と責任を持つ姿勢を育んでくれる場だと思います。まっさらな幼いころに、同年代の子どもたちと共に自然の中で夢中になって遊び、のびのびと過ごせたことは本当に幸せなことでした。
/////////(ビックミスな誤字脱字などなければ、2009年1月号に掲載予定)