読書の記録

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現代政治と現代音楽  ・ 線量計と機関銃

2013年12月24日 | クラシック音楽

現代政治と現代音楽 ・ 線量計と機関銃

片山杜秀

 すごいタイトルの本だが、実はラジオ番組の書き起こし本である。

 TOKYOFMの関連会社であるミュージックバードがやっているCSデジタル音声放送のスペースディーバという音楽放送チャンネル群のなかのひとつのクラシック音楽専門チャンネルの中のさらに「THE CLASSIC」というチャンネルの中の1コンテンツである「片山杜秀のパンドラの箱」という番組の書き起こしである。

 「現代政治と現代音楽」が3.11前まで。「線量計と機関銃」が3.11後を扱っている。

 いずれも政治や経済をはじめとする時事放談に、それにからめて色々な音楽を強引(?)に音楽をあてはめて紹介している。音楽といってもJ-POPとかではなく、チャンネルの筋が表すようにクラシック音楽が主である。とはいえ、戦前の歌謡曲とか、どこかの国の民謡とか、音楽の選択にあたってはかなりアナーキーであり、またそこがこの番組の特徴であろう。対する時事テーマのほうも、なかなか硬派で、政治や外交を頻繁に肴にしており、「線量計と機関銃」では原発事故と日本の原発国策がほとんどを占めるようになる。これらと音楽をどう噺として結びつけるかが、当番組のミソともいえる。

 しかし、音楽と時事を関係づけて話をつくる、というのが実に「コンテンポラリー=現代的」だと思うのである。

 正直に言って、これはやはり音楽の宗教性が喪失したことと無縁と考えずにはいられない。
 宗教性というのは、もちろん音楽のことの起こりのシャーマニズムとか、あるいはグレゴリオ聖歌このかたキリスト教との関係だとかいうのも意味するのではあるが、もっとマイルドに人々の心のよりどころ、浄化装置、熱狂の対象みたいなものも含めての「宗教性」である。宗教性という言い方が大げさならば「福音的効果」と言ってもよい。

 この音楽の人のココロをとらえて離さなチカラそのものが、いま弱くなっており、むしろ時事時勢の一アイテムとして片付けられる時代になっているように思うのである。、 

 たとえば、今ではもはや信じられないわけだが、90年代のJ-POPははっきりいってすごかった。小室哲哉プロデュースのアーティストがダブルミリオンセラーを放っていたし、ミスチルだ、ELTだ、ジュディマリだ、とさまざまなアーティストがヒットを出していた。2000年代になってもしばらくは宇多田ヒカルと浜崎あゆみがミリオン競争をくりひろげていた。今のような惨憺たる状況、オリコンのほとんどをAKBとジャニーズが占めてしまい、ボーカロイドの曲に人気が出てくるこの現代の傾向は、やはり考察の対象になると思うのである。
 ここで注目したいのはなぜAKBや初音ミクは人気があるのかということではなく、かつてのアーティストのようなものがなぜ流行らなくなってしまったのか、ということだ(かろうじていきものがかりとかミスチルがランキングのどこかにぶらさがっているくらいか)。

 2000年代も後半になって、音楽の歌詞やメロディによって魂をゆさぶられ、人生に少しでもモチベーションが生まれるという、すなわち音楽の力が、急速に無くなっていった。それは音楽みずからが力を失ったというより、聞く者が音楽を信じなくなったといったほうが正しいかもしれない。
 誰も信じない神は、奇蹟も祟りも起こせないのである。
 AKBも嵐も初音ミクも、音楽の力というよりは人そのもの(初音ミクは「人」かという問題はあるが)への参加感みたいなものが人気の根底(もしくは全体)にあり、「音楽」は副次的なものという印象が強い。(なにかパフォーマンスしないと体を成さないから音楽でもやっている、という感じ)。

 もちろん、これを悪とも嘆かわしいとも言っていない。これが同時代なのだということだ。
 つまり、「何か」よりも「誰か」が優先されているのである。日本人はもともとそうだ、という説もあるが、この格差がさらに拡大しているということだろう。「誰か」が魅惑的でさえあれば、「何を」していてもよい、いっそ何もしなくてもよい(「自分」の気分を害さなければ)、という時代になっている。かつては「何か」をする「誰か」は良いあるいは悪い、という判断順だったのだが、「誰か」がする「何か」は良い、悪い、ということだ。
 けっきょく、これはあまりにも「何か」が多すぎて似たものが氾濫し、そして氾濫するわりにはちっとも世の中は動かず(たまに「動く」ものがあるとなだれ式に大ヒットする)、それなら「誰か」の方をシグナルにしたほうが結果的にはずれが少ない、ということである。

 で、この「誰か」に全ての信頼性を託すところが、とっても今、コンテンポラリーなのである。安倍晋三が言っていることはすべて正しい(つい数年前は安倍晋三が言っていることはすべて間違いだった)、フジテレビが言っていることは全て揶揄の対象(数年前はフジテレビが言っていることは全てお手本だった)なのである。
 案外これはバカにならなくて、予言の自己成就性というか、一方で自信、他方で焦りが生まれるのか、前者はますます成功し、後者はますます自滅していくようなところがある。

 そうすると、音楽だって、誰かの意思表明を表すもの、あるいは誰かがその時代にやったことの傍証でしかなくなる。純粋にその歌詞やメロディに心を震わせる素朴な鑑賞は、むしろこの複雑な時代にあっては危険なことになってしまう。

 
 「片山杜秀のパンドラの箱」は音楽を絡めた辛口時事評論という触れ込みなわけだが、辛口なのは当番組の語り口ではなく、音楽に対する世の中の扱い方そのものだったりする。音楽受難の時代なのかもしれない。

 


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