風の形が見える

専業主婦の感傷日記

父のこと

2018-09-18 12:40:52 | 子どもの頃

こんにちは。
また、前回の記事から一カ月経ってしまいました。
書こう、書こうと思いながら!
では、さっそく、前回予告した通り、父のことを。
あ、でも、まあ、この記事に限ったことではないですが、
私は、悪く書いた人たちにも、親切にしてもらったり、
愛情を受けたりしてるんだよね。
だから、私だけが 悲しくて、正しいということではないので、
いちおう、それだけ。

亡き父は、中学校を卒業してすぐ外国へ行った。
時は第二次世界大戦が終わる一年半前位。
実際に戦場で戦ったわけじゃないけど、
軍隊にいたそう。
(私の父が戦争経験者というと、年数的に?かもしれないけど、
割と遅い子どもだしね)

軍隊は厳しくって、
朝起きた時から、夜寝るまで、
なんだかわからないけど、いっつも殴られてたそう。
殴られるうちに、だんだん痛みを感じなくなって、
自分の顔が、パコン、パコンていう音だけが聞こえてくるんだと言ってた。

食べる物もあんまりなくって、同じぐらいの歳の子達と、
「巻きずし食べたい、まんじゅうが食べたい。」と、
毎晩のように話してたそう。

そのうち戦争に負けて、敵に追われた父は、広大な土地を走って逃げるはめに。
父は十代で元気だから、どんどん走って逃げたけど、
女性や、子どもを連れた人はとても逃げきれない。
そういう人たちは、自ら死を選んだそうです。

でも、結局収容所?に入れられてしまう。
そこも食べるものがとぼしくて、
一個のおにぎり?を親子で奪いあっている姿を見て、
「ああ、この世には、神も仏もないんだな。」
と強く思ったそうです。
(だから、私や母の宗教に大反対だったのか?)

やっと日本に帰ってきてからは、
「日本なんて、これからどうなるかわからない。好きに生きよう。」
と思って、実際、好きに生きてたんだろうと思います。
東京に出て役者修行、また故郷に帰ってきてダンスの先生。
板前の見習い、セールスマン、溶接工……全部は知りません。
女性にもてたそうで、よく自分をめぐって女同士でケンカしてたと、
思い出を語ってましたっけ。

で、好きに一人で生きて行けば良かったのに、
なぜか、人の紹介で母と結婚。
あいかわらず、仕事をコロコロかえて、
自分で商売をやって、失敗したり。
おまけに体があちこち悪くなって入院を繰り返したりで、
我が家は貧乏一直線。
借金地獄へ突入です。
(両親とも助けてくれる親はすでになく、兄弟は頼れずで)
母も、私と弟を家に置いてパートで働いてたけど、とても無理。

助けてくれたりする人もいて、
私が中学へ入る頃には、
やっと金銭的にも落ち着いて、父も普通に働くようになって、
めでたしめでたし……
じゃないんだよ、なぜか、ずっと、
私が小学生の時ほどではないにしても、
借金があって、生活は苦しかった。
あれ?借金は片づいたはずじゃ?
女の人の影もちらつくようになり、
とにかく、いっつも家にいない、
外で何をしてるんだろう?的な父でした。

で、家にいるときはというと、
これまたじっとしてない。
お酒は飲めなかったので、
酔って暴れるということはなかったですが。
借家に住んでた時は、父が自分で建て増ししたり。
(大工じゃなかったんだけど)
家の隣の空き地で、持ち主の許可をもらって、
父自ら、家庭菜園のレベルを超えた畑を作り。
(農業の経験なかったはず)
動物が好きで、水槽に工夫して金魚を飼ったり。
ストーブなんかは、冬が終わると、父が掃除して、しまってたなあ。
ミシンなんかもかけたりして。
まあ、器用な人だったんでしょう。
で、私に向かって、
「お前は、俺の親父にそっくりだ。いっつも、黙ーって、じーっとして!」
棚ひとつ満足につけられなかった、おじいさんの不器用さを受け継いだ私というわけだ。

でもね、私は思うのだ。
私はぼーっとした人間で、必要なこともしないけど、
そのかわり、余分なこともしない。
父は、何でも器用にこなすけど、しなくていいこともする。
まめな人というのは良いようで、トラブルも呼び込むのだ、と。
ああ、父が生きてる時に言ってやればよかった。
それと、どうして一生、借金と縁がきれなかったのかも、
追求すればよかった。白状しなかったと思うけど。
私は、父親がずっと恐かったもので、
そういう話も、戦争の話も、あまりしなかった。

親戚付き合いというものがほとんどない家だったけど、
一回、父の兄のお通夜の時に、父の弟たちが、
「(私の父は)外国へ行ってから、どうしようもなくなった。」
と言ってるのを聞いたことがある。
でも、戦争に行った人はたくさんいるもの。
それでも、戦後まじめに、堅実に生きてる人はたくさんいるもの。
でも、やっぱり、戦争は父を変えたんだろうか?

私は働きだしてから、ずっと家を、というか、
父を、金銭的に助けていたわけだけど、
ある時から父は、一緒に外国でいた人たちとの同窓会を仕切るようになった。
父は、自分の中の戦争に区切りをつけたかったのか、と、今はそう思う。
まあ、悪いことではない。
同窓会メンバーで行く旅先の下見に行ったり。
ただ、どうしてそれを、私が働いたお金でするんだ!?
どうしていつも、借金を抱えてるの?
母も私も働いて、弟は家を出て自立してるのに。
私は何も父に言わなかった。
こういうのも洗脳?とかいうんだろうか。
黙って、言われるがまま、お金を渡してた。
それは私が結婚してからも続いていた。
でも、私はどこかで信じてた。
きっと、いつか、父が、
「お前のおかげで、借金が全部返し終わったよ。」
と、言ってくれる日が来るだろうと。

結局、父から感謝される日は来ないまま、
父は逝ってしまった。
病院のベッドで、もうだいぶ意識がもうろうとしてきた父に、
「すまなかったのう……」
と言われた、でもこれは、
感謝じゃないでしょう?
余分なことはしないが、私の自負だったのに、
もしかしたら、父にお金を渡してきたことが、
もっとも余分なことだったのかも。
私が突っぱねていれば、父は早く立ち直れていたのかもしれない。

これだけ書いてきて思うんだけど、
私は父に似ていない。
ほんとに親子か?と思うほど。
(顔は似てると周囲に言われてたけど)
ただ、 ずいぶん前に、父が、
自分の若い頃の写真を集めたアルバムの一ページ目に、
書いてた文章を読んだことがある。
詳しくは覚えてないけど、最後の部分に、
《おお、我が青春……!》
とあって、やっぱり親子かも、と思ったことはある。
こういう所だけ似るんだなあ。

長くなってしまいましたが、今日はこれで終わりです。
またね。