tower.

2007-06-11 15:25:45 | Weblog
 久しぶりにロラン・バルトの話が本の中に出てきて、「零度のエクリチュール」について言及されていた。
 エクリチュールというのは、使用者の数だけ意味があるような言葉ですが、もともとはフランス語で”書かれたもの、書法”といった意味合いです。ここでは「選び取られた文体」といった意味合いで僕はこの言葉を使います。たとえば先生っぽい喋り方とか、政治家っぽい喋り方、ヤンキーっぽい喋り方とか色々な「喋り方」があると思いますが、その喋り方です。
 僕達はこの喋り方を自由に選択することができますが、一度選択したあとはその喋り方に自分の思考を縛られることになる。僕が中学生くらいのとき「今日から俺は」という漫画があって、それを友人が愛読していたので僕もいくらか読んだ。それは特に目立たない普通の高校生が急に「今日から俺は不良になってやる」と決心し、髪を金髪にして制服を改造して不良になるところから始まるストーリーです。これが過剰な拡大解釈を許してもらえるならばエクリチュール(話し方)を選ぶということです。
 どのスタイルを選ぶかは自由だけど、一度選んだならばそのスタイルに従わなくてはならない。今まで「私」という一人称を使っていた人が、今日から「私」はやめて「俺」を使うことに決めると、直ちに彼の思考体系は全体が変化せざるを得ません。何故なら「私がそれをやらせていただきます」というのは許されるけれど、「俺がそれをやらせていただきます」という文章は許されないから。

 そして、たいてい全ての言葉は政治家っぽいかヤンキーっぽいかはわからないけれど、何かのスタイルに所属している。真に何者っぽくもない話し方、書き方というものはなかなか見つからない。もちろん、僕達一人一人の話し方だってそうだ。僕は昔「君は探偵みたいな話し方をするね」と指摘されて、そういえばそうかもしれないと初めて自分が採用しているエクリチュールについて自覚的になったけれど、誰もがきっと何かっぽい話し方をしている。

 バルトのいう「零度のエクリチュール」というのは、「何者っぽくもない話し方」のことです。
 バルトは例に「ジャーナリズムの話法」を挙げているけれど、もちろん、これは願望であって現実にはそんなに無垢なジャーナリズムは存在していない。
 他に、カミュの「異邦人」、日本の俳句があがっている。
 異邦人は、昔フランス語のできる友人が「こんなに簡単な文章は他にはない」と言っていたけれど、随分と淡々とした描写が行われている。僕は日本語訳しか読んだことがないし、冒頭の「今日ママンが死んだ」以外はもう何も覚えていませんが。俳句に関してはバルトの東洋に対するたんなる誤解ではないかと思う。

 それでは零度のエクリチュールというのは一体どこにあるのか、そんなものは存在していないのか、という疑問が当然発生します。
 零度のエクリチュールで書かれた文章をどこかで読んだような気がしたので、しばらく考えていて、そして思い至ったのが「辞書の例文」です。

 何日か前の日記に、僕は辞書の例文が好きだ、みたいなことを書きました。それはもしかすると辞書の例文が零度のエクリチュールで書かれているからではないかと思ったのです。辞書の例文というのは、あくまでその単語の使用例を挙げるために作られた文章で、一切のバックグラウンドを持ちません。そこにはときとして豊かな感情描写も含まれますが、それが辞書の例文である以上、含まれる感情や豊かさというものは必然的に乾ききっていて実体を持ちません。

 [その犬はしかられた後、しっぽを後ろ脚の間に挟んでおとなしく歩き去った。]

 この例文から、僕達は犬がとぼとぼ歩く様子を思い浮かべます。ありありと。だけど、そこには何の含みも存在しない。
 とは言うものの、これはすこしずるい考え方かもしれませんね。
 仮にこの文章が絵本の中に置かれているならば、それはもはや零度のエクリチュールだと受け取られなく。つまり文体ではなく、文章の置かれている場所に「無垢かどうか」が依存することになる。僕が辞書の例文を「零度」だと感じるためには僕がそれを辞書の例文だと知っている必要があって、これはすなわち「辞書の例文だから零度に違いない」という偏見のことにすぎないのかもしれない。



2007年6月8日金曜日

 夕方にドラッグストアへ行った帰り、またばったりYちゃんにあった。この1週間の間に3回目だ。いくら家が近いとはいえ、これはちょっと多すぎる。ハムスターを買いにいくところだ、と驚くことを言うので、そのまま一緒にペットショップへ行ってハムスターやハムスターグッズを買って帰った。僕の周囲でこの春からハムスターを飼いはじめた人がこれで3人目。どうなってるんだろう。
 ハムスターって500円くらいで売られているわけですが、毎日の世話だとか餌だとかテナントに占める面積あたりのコストだとかを売値500円でペイできるなんてペットショップというのはどういう構造になっているんだろうと思う。

2007年6月9日土曜日

 夜中にOとKさんとメトロ。
 久しぶりにクラブらしいクラブ音楽を聞いた。
 なぜか分からないけれど、僕は最近全ての音楽が遅く聞こえてしかたない。感じとしてはBPMを1.2倍程度以上にして貰わないと気持ちよく動けない気がする。

2007年6月10日日曜日

 夕方からT君、H、M君、Sちゃん、Mちゃん、Oと京都タワーのビアガーデンへ行く。僕は生まれて初めてビアガーデンというところに行った。少し肌寒い日だったので、ほとんど客はいないだろうと思っていたら意外にも開店前から入り口に並ぶ盛況ぶりで、僕達も行列に並ぶ。
 もっとアダルトな雰囲気で大人ばかりかと思っていたら子供もたくさん居て、屋上で、見上げればそこには京都タワーが聳え立っていて、食べ放題で飲み放題で、ぐるりには例の堤燈がぶら下げられていてとても平和な空間が出来上がっていた。僕は「一度どんなものか見ておくか」程度の心具合で行ったのですが、とても楽しかったです。ハイシーズンにまた行こうと思う。

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3 コメント

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Unknown (IM)
2007-06-12 01:19:12
エクリチュールって言葉を久しぶりに聞いた感じがする^^

自覚的・無自覚的に選択されるエクリチュールと思考体系は対称になる傾向があるだろうね
それが等価だとは言えないにしても

「俺」は多くの場合自分を「俺」って呼んでる、自覚的に
それが何を意味するかについてはあまり考えた事無いけどね
それ以外にも色々なエクリチュールを自覚的・無自覚的にも使い分けてる

零度のエクリチュールは存在しないだろう
真の客観もまた存在しないように

カントの統整的理念やニーチエの永劫回帰みたいなもんで
ま、がんばりましょう
って事かな

酔っ払って書き込むのは良くないけど「俺」はやってしまうんだよ
  (khan)
2007-06-12 14:00:26
エクリチュールという言葉は今日初めて聞いたけど、1,2年前に何かでこんなことを読んだのを思い出した。

映画などで英語の表現を覚えたいなら、話し手のキャラを考えろというのがあった。英語も日本語と同じで教養等によって話し方が変わるらしく、がんばって覚えた英語の表現を仕事で話したらすごい違和感あることになるかもしれないって。仕事で話したい英語があるなら、そういうキャラの出てる映画の表現を覚えろと。

てことは、外国語は零度のエクリチュールになれるのかもしれんな。英文読んで、どういう地位の人が話したかまでわかる気がしない。
Unknown (良太)
2007-06-13 11:22:45
IMさん
やっぱり零度なんてないのかなあ。
ないけれど、ないものを思考できるっていうのが人間のいいとこですよね。理想という意味ではなく。
僕は実は自分のことを「僕」って呼ぶのを子供のとき「俺」にしなさいって変えさせられたんですよ。だから未だに両方使っていて自分でも変な感じです。同じ人に話している5分くらいの間に両方の一人称を使うこともあります。利き手も左から右に矯正されているので、僕はいろいろとまどうことが多いです。

khan
僕は英語はちゃんと勉強してないけれど、何もしないよりはいいだろうと思って映画を見ていて、それも幼稚な映画ばかりだから随分下品な英語を喋っているんだろうなって結構自覚してるよ。
高校の英語の先生が「ときどき間抜けな親が、自分が英語を分からないせいでそれがひどい訛りのある英語だと分からないで、子供に勉強のためだと見せているけれど、ほんとに間抜けなことだ」みたいなこと言ってた。
外国語に零度を求めると、僕達の日本語でかかれたものは全て海外の人にとっては零度ってことになるし、そうしたら単に視点の問題ってことになっちゃうね。