long.

2007-03-22 15:21:37 | Weblog
 「中学高校と、6年間も英語を習ってきたのに英語が話せないのは日本の英語教育が間違っているからだ」という古典的な意見を久しぶりに耳にした。そういう意見を聞くと「それじゃあ、あなたは小学校、中学校、高校と12年間数学の勉強をしてきたのでどんな数学の難問も解くことができて、同じく12年間体育の授業を受けてきたので月面宙返りができるんですか?」と質問したくなる。

 学校での教育はスペシャリスト養成のことではない。1年も留学すればじゃべるようになるのに、6年も習ってしゃべれないなんて、という人は比較対象にものすごい無理があるということに気がついていない。それから日本の学校教育における英語というのはあくまで英語であって英会話ではない。道具として英語を習得する目的に併せて、そこには他言語を分析しながら習得することで日本語の枠組みでは不可能だった思考回路を指向するという目的がある。日本語の文法も国語で習うけれど、既にネイティブな日本語話者である僕達は、日本語文法の習得を煩わしい、役に立たないものとしてスルーする傾向がある。たぶん、文法という観点からすれば、多くの日本人は日本語の文法よりも英語の文法に詳しいはずだ。僕はこれが最も大きな学校教育における英語の効用だと思う。日本語の場合はその中にどっぷりと浸かっていて、日本語そのものを対象化することは難しい。そこで、代わりに手頃で便利な言語体系を持ってきて、その言語に対して外からの視点でメスを入れると言うのが最大の意義だ。それによって僕達は初めて文法という概念、ひいては思考のベースである言語に仕組みがある、思考には仕組みがある、ということを体感する。このことに比べたら、はっきりいって、英語の会話ができる、なんてどうでもいいような小さいことだ。

 僕は間違えて電子情報工学科というところに入学してしまったのですが、プログラミングの授業か何かで最初のセットアップを行うとき、「ここはパソコン教室じゃないから、パソコンの使い方なんてわざわざ教えないから、そんなのは各自勝手に勉強してください。この授業で勉強することは街のパソコン教室でやってる”使い方”じゃなくて、パソコンの中身、仕組みの方です」と先生が言って、僕はなんとなくそれはそうだな、と納得した。
 中学高校の英語というのはこれに近い。留学したりNOVAへ通ったりするよりも、僕にはずっと重要なことに思える。その上に会話の能力を積むかどうかは各自の好みの問題だ。

red.

2007-03-09 16:23:08 | Weblog
 コンタクトレンズを目に入れると目がビリビリと痛くなった。慌ててコンタクトを外して、目を水道水で洗い、鏡を覗き込むと目は充血していたけれど糜爛などは見られなかったので一安心して考え込んだ。

「一体何が原因なのだ?」

 僕は1時間半くらい前に部屋に戻ってきて、そしてコンタクトレンズを外して0.9パーセントの食塩水にそれを浸しておいた。それからMちゃんの誕生日パーティーに持っていくためにプッタネスカを作り、それを冷ましている間に身支度を整えようと、再びコンタクトを入れると目が痛いと言うわけだ。痛いはずがない。僕は過酸化水素水か何かと食塩水を間違えたのかと思ったけれど、今は過酸化水素水を使っていないのでそれはありえないことだった。食塩水を入れたレンズケースになにか薬品が付着していたことも考えられない。周辺にあったものはコンタクトレンズのケア用品だけなのだ。

 一体なにが起こったのかしばらく考えていると、原因はプッタネスカにあったことが分かった。僕はプッタネスカに鷹の爪を入れたのだ。鷹の爪から種を取り出すとき、僕はそれを指で行った。必然、指先にはカプサイシンが付着している。そんな指でコンタクトレンズを扱えば目がビリビリするのも当たり前だ。
 試しに指先を舐めてみると、案の定舌がピリピリした。なんだ。唐辛子か。

 僕は指先をこれでもかと洗い、舌に当ててみてピリピリしなくなるまで洗い。それからレンズも念入りに洗ってもう一度目に入れてみた。今度はもう全然痛くなかった。レンズを入れて、僕はパーティーに出かけた。

plot.

2007-03-05 16:02:52 | Weblog
 ハリウッド映画ばかり見てやろうと思う。軽薄なポップソングばかりを聴いてやろうと思う。新しい携帯電話を自慢してやろうと思う。マクドナルドが世界で一番おいしいって言ってやろうと思う。あの人の前では。物事の本質がジャン・リュック・ゴダールとかマイルス・デイビスとかスローライフの中にあると信じているあの人の前では。芸術なんてゴミだって言ってやろうと思う。音楽なんてクズだって言ってやろうと思う。コミック雑誌を読んでやろうと思う。美術館の帰りに電車の中で実存主義についてフランス語で書かれた本を読むあの人の前では。
__________________________

 待ち合わせの本屋で雑誌をパラパラ捲っていると秋山さんが載っていてびっくしりた。日本人ではじめての宇宙飛行士だ。彼は当時TBSかどこかの記者で、宇宙に出張取材に行ったわけだ。正式な宇宙飛行士ではなくジャーナリストが宇宙へ行くというのは世界ではじめてのことで、まだ子供だった僕は奇妙な気持ちで彼が宇宙船の中から送ってくるリポートを見ていた。
 今、秋山さんはどこだかの田舎に住んでいて、そして自給自足の農業生活をしているとその記事には書いてあった。宇宙へ行くという体験は「いってきました」ではすまされないものだった。と彼は語っている。
 彼はその昔宇宙へ行った人だ。そして今は田舎で大地に近く暮らしている。なんだかそれはとてもしっくりくることのように思われた。

___________________________


 数日前、50から60万だという数字を知って一瞬呆然となった。
 日本で1年間に保健所で処分される、つまり殺される犬や猫の数だ。
 僕達はたくさんのものから目をそらせて生活していて、だけど本当は信じられないようなことがたくさん起こっている。

____________________________


2007年2月28日水曜日
 昔、中国人のIが「ここは僕が日本で食べた中華料理屋の中でベストだ」と連れて行ってくれた中華料理屋へ行く。なんだか奇妙な雰囲気の店なので、I君と恐る恐る行ってみようかと思っていたのだけれど、I君が色々な人に声を掛けていてくれたので結局7人で行った。改めて行ってみるとそんなに変な雰囲気でもなかった。
 帰りにYと合流してぐるぐるカフェでチャイを飲んで帰る。

2007年3月1日木曜日
 図書館が改装するのかなにかで、たくさん椅子や机があまるということで、N先生の指揮下I君やS君達と図書館まで椅子や机を調達しに出向く。3月の初日に相応しく、春うららかな陽気のなかで机を運びながら大学の中というのは長閑だなと思う。

2007年3月2日金曜日
 夜にAと東山まで歩いて行くと、途中で4匹のシーズーを散歩するおばさんを道路の向かい側に見つけ、Aが「わあかわいい」と言うや否や「渡ろう」と言うので道路を横断して一直線にシーズーを触りに行く。ディズニーランドのお土産クッキーをもらう。その帰りにやっと僕は延滞していた本を図書館に返す。

2007年3月3日土曜日
 I君の引率下みんなでサントリーのウイスキー工場を見学する。工場内の見学は思ったよりもあっさり終わったけれど、全体的にとても丁寧で心地よかった。無料の試飲と、さらに有料の試飲で昼間から少し酔っ払う。
 駅前の何とかという店で昼ごはんを食べて大山崎山荘美術館へ行く。僕はここは二回目だけれど、はっきりいって美術館としては成立していないと思う。建物は悪くないけれど、展示物が邪魔だと感じる美術館はあまりない。

色の名前を何度も繰り返す。

2007-03-02 15:02:59 | Weblog
 最近、というかもう何年も前から小学校は週休二日制だというのを聞いて吃驚していたら、そんなことすら知らない僕に吃驚したYちゃんは続けて、「最近はもう道徳って教科はなくなったのよ」と、さらに僕が驚愕せざるを得ないことを言った。そうか土日は休みで、道徳の授業はないのか。僕は小学生のとき道徳と国語の授業の違いがあまり良く分からなかったのだけど、道徳の教科書に載っているへんてこな話を叩き台にしてクラスでガヤガヤと文句を言い合う授業はとても楽しかった。Yちゃんの言によれば、なくなった理由は、道徳観なんてそれぞれで、学校で一くくりに教えることのできるものではないから、というものらしいけれど、あれは「こういうときにはこう感じなさい」という授業ではなくて、単にがやがやするということに意味のあった授業だと思う。確かに教科書に載っていることを真に受けるととんでもないことになるけれど、ガヤガヤするにはとても良い機会だった。

 道徳の教科書に載っていた話で、一つだけ良く覚えている話がある。
 それは危篤に陥った祖母を見舞うため、ある女の子がお父さんの運転する車で病院へ向かうのだけれど、高速道路で渋滞に巻き込まれる、というもので、女の子は一番左にある緊急車両用の通行路を見つけて、「お父さん、あそこは空いてるよ」と言うのだけれど、「あそこは救急車だとか消防車だとか、緊急のときにどうしても通らなくてはならない車のために開けてあるのだよ。だからあそこは通っちゃいけないんだ」とお父さんに窘められる。
 しばらくすると、渋滞に痺れを切らした若者の車がその緊急用レーンを使いだして、すいすいと渋滞の横を抜けていく。女の子は、みんな使っているのだから、と言う。でもお父さんは頑として「あそこは使っては駄目なのだ」と首を縦に振らない。

 なんともいかにも作られている話で、べつに面白くもなんともないのですが、どうしてか僕はこの話を良く覚えている。それはたぶん僕が「いや、危篤の母親にあいに行くのは十分緊急事態なんじゃないの」とその父親につっこみを入れていたからで、その批判性というのはつまり道徳の授業や教科書全体の持つ「道徳とはこうだ」という囲い込みの態度に向けられたものだった。僕はこの話を読んだときに道徳の教科書が持っている戦略が分かったのだと思う。だから良く覚えているのだろうと思う。

 道徳というのが本質的に何を目指していたのか、未だに良く分からないけれど、でも人を大事にしなくてはならない、という精神が根底に流れているのは明らかだった。そのイデオロギーは別に悪くない。だけど、いつも腑に落ちなかったのが、「あなたは世界にたった一人しかいない。代わりになる人はいない。だからあなたは大事なのだ」と言ったように意味の分からない理由をつけて人は大事だと言うところだ。
 人ではなくても、別になんだって、あらゆるものは世界に一つしか存在していない。路傍の石ころだってなんだって。だけど、だからといって全てが大事なわけじゃないことは明々白々だ。ものの希少性が価値に直結するのははっきりいって、そのもの自体の「価値」が空虚なときだけだ。そんなものを、希少性なんかを人間が大事な理由のたとえ一角にでもあげてはならないと僕は思う。

 「君は世界にたった1人しかいない。だから君が大事だ」なんて言葉は本当に空っぽだ。「君が世界に100万人いたとしても、それでも君が大事だ」というような文脈でしか本当に大切なことは伝えられない。