シーン32

2016-01-23 00:00:53 | Weblog
 高畠は若い頃ニューヨークの大学に2年間留学していたらしい。美雪のような田舎の中学生にとってニューヨークというのは世界最先端のオシャレで遠い街というイメージしかなかった。ただ、高畠は最先端でもオシャレでもなく、安物の白いポロシャツと紺のスラックスを履いた田舎の中年英語教師で、映画で見るような流暢な英語を話すわけでもなく田舎の中学生でも分かるくらいに発音が悪かった。
「自己紹介のときに、日本から来ましたというのは、分かるよな、さっき勉強したフロムを使って、アイ アム フロム ジャパンだな」
 ジャパン? どうして日本じゃなくてジャパンなのだろうと美雪は思い、挙手の上発言した。
「ジャパンじゃなくて、I'm from Nihon.とかNipponでは駄目ですか?」
「えっ、だってそれじゃあ日本語でしょ。ニホンとかニッポンって日本語だから。日本のことを英語でジャパンっていうんだよ」
 大丈夫、中野ちゃん?と高畑はおどけた調子で付け加え。クラスの数名がクスクスと笑った。
「日本のことを英語でジャパンというのは知っています。そんなのは誰でも知っています。私が質問しているのはそういうことではなくて、どうして日本人である私達自身が日本と呼んでいる国のことをわざわざ外国人が勝手に呼んでいる呼び方で紹介しなくてはならないのかということです。たとえば私の名前は中野美雪なので、誰が何と言おうと私は自分のことを紹介するときに、私は中野美雪です、と言います。誰かが勝手に私のことをリサ・ランドールと呼んでいるからといって、私はリサ・ランドールです、とはいいません。そういうことです」
 おー言われてみればそうだとか、また美雪が変なことを言い出したとか教室が少しざわついた。それで通じるんだったらいいけど、通じないから、向こうの人にも分かるように言わないと。高畠は笑いながら言った。
「いっつも言ってるけど、コミュニケーションは優しさ。オッケー? 分かるように言ってあげないと。みんな何の為に英語の勉強してるの?受験?受験だけ? 英語でいろんな国の人と話す為でしょ。これからは英語の時代だから。そしたら分かるように言ってあげないと。オッケー? 優しさだぞ」
 "や・さ・し・さ"と高畑が大きく頭を上下させ、それに合わせて一音一音区切って大袈裟に言ったので、教室は再び軽い笑いに包まれた。しかし美雪は笑わなかった。これは本当は優しさなんかではなくて別の何かもっと屈辱的なもののような気がした。それにコミュニケーションを強調する割には高畑に英語でのコミュニケーション能力があると思えなかったし、いつも何か大事なことを誤魔化されているような気がしていた。高畑が生徒の前でおどけた態度を取るのは自身の無能を悟られないためではないかとも思えた。
 高畠のコミュニケーション能力は、2ヶ月後に転校生がやって来て判明した。転校生は佐々木香織という女の子で、両親ともに日本人だがサンフランシスコで生まれてニューヨークで育ったバイリンガルだった。佐々木香織は、私は英語のネイティブ話者なので英語の授業を受ける必要はないと高畑に繰り返して二度言った。英語で言ったところ高畠には理解不可能な様子だったので日本語で言い直したのだ。何かが完全におかしいと美雪は思った。高畑は、ここは日本で僕達は二人共日本人なんだから日本語でいいのにというようなことをおどけた調子で言った。
「日本人同士なのに急に英語で話すからびっくりしちゃったよ本当にもう佐々木ちゃん」
「英語の先生だということでリラックスしてつい英語で話しました。英語の方が私には自然なので。あと佐々木ちゃんというのは佐々木さんの間違いではないですか?日本語はそれほど詳しくもないですけれど」
「佐々木ちゃんというのはね、佐々木さんっていうのを親しみ込めて呼んだらそうなるんだよ」
「私はあなたとは親しくないので親しそうに呼ぶのはやめて頂けますか、それから授業についてですが受けないということでいいでしょうか」
「うーん、それはねえ、日本では中学校は義務教育でそういうことはできない。受けてもらわないと困る」
「日本で中学校が義務教育なのは私も知っています。そういう誰でも知っていることを聞いているわけではなくて義務教育の中にもこういった場合への配慮はあるんじゃないですかというのが質問です」
「うーん、ちょっと日本ではそういうのできないねえ。それに英語が話せるかどうかというのが授業の目的ではないからねえ」
 佐々木香織は1週間英語の授業に出席して、その翌週から学校には来なくなった。どこかの私立に転校したという噂だった。
 さらにその翌週、中野美雪は登校を止めた。

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just qu-it

2015-12-04 12:32:21 | Weblog
 金曜日の夜に仕事が早く終わったのだが、村野は嬉しいともなんとも思わなかった。先週末は嬉しかった気がする。先週は楽しい予定があって、今週はそういうものがないというわけではない。先週も今週も忙しすぎない程度に適度な予定が入っていて、それらは全部遊びで楽しいはずのもので好んで自分から入れた予定のはずだった。嬉しさや高揚感がない理由はわかっている。秋津美紀という女のせいだ。秋津は40代の半ばで独身で外資系証券のトレーダーだと自分では言っていたが一度会っただけなので本当は何者なのか分からない。
 村野が秋津美紀という女にあったのは2日前の午後で仕事の帰りに恵比寿のバーで飲んでいた時だ。

 秋津は最初に、あなたは何が好きで、何をしている時が一番嬉しいのか、というようなことを聞いてきた。村野は最近凝っているコーヒーやカメラやパンのことを喋った。週末に、少し遠出して有名なカフェでコーヒーを飲んだり、小さいけれど有名なパン屋でパンを買ったりして、その過程で気になったものや風景の写真を一眼レフのニコンのデジタルカメラで撮るのが最近は好きでほとんど毎週末どこかに出かけてパンとコーヒーとカメラで過ごしていると言った。コーヒー豆の産地や種類にも随分と詳しくなったし、家にはアンティークのコーヒーミルもドリップ用の器具もそれなりにこだわって揃えていて、次はサイフォンを買う予定で、パンはやっぱり天然酵母のものが食べた時に体が喜んでいるような感じがして好きなんですと、村野は秋津美紀に丁寧に話した。村野にとってそれらはやや誇らしいことだったが、秋津の反応は批判的だった。例えばあなたはどこでもいいのだけどタヒチとかニューヨークとかドバイとかへ遊びに行くことはあるのかしら、どこでもいいのだけれどそれなりの休暇とお金がないと行けないようなところへ。毎週郊外のカフェだかパン屋さんだかへ行くのが好きとのことだけど。ハワイに一ヶ月遊びに行くのと郊外のカフェはどっちがより魅力的かしら。小さいけれど有名なお店の天然酵母のパンというのと、一流のフレンチとか懐石とかとどちらが好き? あなたの好きなことというのは、別に一番好きなことではなくて自分のできる範囲がごくごく限定的で、その中で仕方なくしていることの中ではまあ好きというだけのことよね。それで本当に満足なの?私が今10億をあなたに上げたとして、それでも今週末あなたはその郊外のカフェへ写真を撮りながら向かうのかしら。それともパリへでも飛ぶ?
「それは違う話です」と村野は声を荒げた。「できる範囲で楽しみを探すのは当然のことじゃないですか。あなたはもしかしたらお金持ちかもしれないけれど、失礼ですよ。金持ちの傲慢みたいな発言だと取られても仕方ないもの言いですよ」
「金持ちの傲慢だと取られても仕方ないじゃなくて、私はお金持ちでまさに金持ちの傲慢を言っているの。だけど金持ちの傲慢にもそれなりに理屈はあるのよ」秋津美紀はそう言ってカウンターに置いてあったマルボロを一本箱から取り出しライターで火をつけた。マルボロは何の変哲も無いどこにでも売っているメンソールで、ライターもどこにでもありそうなプラスチックの100円ライターだった。だがこの嫌な女は本当に金持ちなのだろうと村野は思う。金の匂いをさせているわけではないが、この社会で起こるほとんどのことに対してはダメージなく切り抜けられるという自信と安心感のようなものが秋津からは感じられた。それはある程度のコネクションと十分な蓄えがあるということを意味している。
「あなたは平日ボロ雑巾のようにこき使われてそれでもこの仕事は好きで始めたはずだし社会的にも意味があるはずだと信じ込むように努めていて、十分なお金と十分な休暇がない言い訳に”日常の中のささやかだが大切な喜びを見出すことが幸福なのだ”とコーヒーミルとかカメラとか買ってるのよ。並んで有名店のスイーツだって買ってるのかもしれないわね。それでこんなに豊かで安全な国に住んでいて不満なのがおかしいと呪文みたいに繰り返し唱えて生活しているんでしょ」
「勝手なことを言わないでください。初対面で何がわかるっていうんですか?」
「それがわかるのよ。悪いけれど、あのね、あなたみたいな詰まらない男を掃いて棄てるほど見てきたのよ、今まで」
「あなたと違って僕にはそれほどのお金はないかもしれないけれど、その中で楽しみや満足を探して何が悪いっていうんですか。だいたい幸福とか満足というのは人と比べてどうこういうものではないです。人は人で自分は自分です。そういう誰かと自分を比べて満足感を得たりするのは間違いですよ。社会的な病理じゃないですかそれこそ。自分の幸福は自分で決めます。そして僕は郊外のカフェとパンで十分幸福です」
「まあいくらあなたでもぶどうは酸っぱいという話を知っているとは思うけれど。あなたがそうやってぶどうは酸っぱいって言っているうちに死ぬほどエキサイティングな仕事をして死ぬほど綺麗な景色を見ながら死ぬほど美味しいものを食べている人たちがいるのは別に何とも思わないの?」
「だから人と比べることは間違っているって言ってるじゃないですか。世の中が不公平なのは仕方のないことです。いつだって世の中はずっと昔から不公平で一部の人たちが特権的な階級にいるのは仕方ないんです。もちろん格差は良くないと思いますが」
 しまった、余計なことを言った。格差は今の文脈では関係がない。村野はそう思ったが秋津はすでにこいつは単なる退屈な腰抜けではなくてバカなのだという表情を浮かべていた。
「あなたはバカなのね」

 どうしてあの時俺は格差なんて思ってもいない言葉を口にしたのだろうか。秋津という女はバカなのねと言ってから一切口を利かなくなった。村野が話しかければ返答はしたのかもしれないが、もうあなたとは会話するつもりがないという完全な意思表示が体全体で隙間なく形成されていて、3分後に彼女は挨拶もせずに帰った。格差という言葉を口にしてしまったのは、お金があるとかないとか、公平だとか不公平だとかいう話をしているときには「格差」という言葉を持ち出すことが今の社会では常識として浸透しているからだ。挨拶のあとに今日は寒いですねとかいうのと同じだ。いやもっと悪い。不公平のあとに格差という言葉を使えばまるで何か社会的なことを思考しているような気分なるのだが、そんなものは思考でもなんでもなくて条件反射にすぎない。つまり思考ではなくてヨダレだ。秋津美樹は俺がベルの音でヨダレを垂れ流すのを見てバカだと言って帰ったのだ。当然か。村野にもそれくらいのことは分かった。マスメディアに条件反射を叩きこまれないように、それなりに注意しているつもりだった。格差という言葉を口にした直後からすでに自分に愕然としていた。
 明日は宇都宮にある天然酵母のパン屋まで行くつもりだった。「手間暇掛けてヒトツヒトツ焼いている」というそのパン屋にはイタリアンのレストランが併設されていて、お腹の具合によってはそこで食事をしてもいいと思っていた。2ヶ月前にコーヒーの豆と淹れ方による味の違いを体験するワークショップで知り合ったナミちゃんという女の子と一緒に行くことになっていて、ナミちゃんは今日の昼に「村野君の影響でわたしもついに一眼のカメラ買っちゃった!明日もってく!」というラインを送ってきていたのだが、そういえば村野はまだ返信をしていなかった。「実は僕も新しいフィルター買ったから明日持っていくよ。試すの楽しみ」 本当に楽しみだろうかとスマートフォンの画面に親指を滑らせながら村野は思った。フリック入力ってこんなに面倒だったっけな。あの秋津という女はフリック入力で誰かにメッセージを送ったりするのだろうか。俺は明日天然酵母のパンを齧りながらナミちゃんに向かって得意気に偏光フィルターの使い方を説明するのだろうか。ナミちゃんは新しい一眼レフのデジタルカメラで一体何の写真を撮るつもりだろうか。村野は書いたメッセージを消して書き直した「今日の午後からなんとなくおかしいとは思っていたんだけど、風邪みたいで、これから帰ったら寝るよ、熱もありそうだし。。。明日楽しみだったのに行けないかも。。。」
 送信ボタンを押して、村野は呟いた。「グッドバイ」

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広告化社会の繁殖する柔らかな文体

2015-10-27 15:54:56 | Weblog
 生ぬるく柔らかな文体がネットの発展と広告のより深い浸透に伴い廃屋のカビのように繁殖している。
 その文体で書かれた文章を絶対に読みたくはないのだが、不思議なことにとても疲れているときにはその文体で書かれたテキストを読んでしまう。たぶん何も考えなくていいからだ。村上龍がどこかに精神が限界のときには懐石しか食べれないと書いていた。懐石はすべて柔らかく調理されていて、小さく加工されていて優しい。味にはバラエティがあるが、強いスパイスが効いていたり異常なボリュームがあってなにかと戦うように食べる必要もないしナイフで切ったりスプーンに持ち替えたりする必要もない。ただ箸で食べやすく盛られた料理を口に運んで抵抗もなくそれらを噛み砕いで飲み込めばいい。
 懐石料理の悪口をいうつもりではない。懐石料理は素晴らしいが、懐石料理しか食べることのできない人間はどこか病んでいて弱っているのではないかという話だ。反対に懐石だけを食べて育った人間がいれば、きっとその人間は硬い肉や大きな野菜の塊なんかを食べたことのある人間よりもずっと弱くなってしまうのではないだろうか。

 ネットを中心としてその柔らかな文体が異常に繁殖し、僕たちは知らない間に懐石ばかり読むようになっている。
 柔らかな文体は主に若者向けに何かを紹介する記事に使われている。つまり広告のような記事というか、記事のような広告に。
 ナウいけれどみなさんと同じ等身大の僕ワタシという体で毎日毎日何かが無数に紹介されていく。

 そんなことを言われても、漠然としていて何かよくわかりませんよね。
 なのでちょっと例を挙げてみようかと思います。具体的に例を挙げると、「これは例のあれだ!」とみなさんも納得して頂けるのでは。
 著者の主張によると、どうやらその柔らかい文体というのは「ギズモード」や「たびらぼ」なんかのバイラルメディアでよく使われているそうなんです。うーん、バイラルメディアは大好物なので身につまされます。。。スキマ時間だけではなく結局気づいたら毎日長時間読んでいるという人も多いのでは。たしかに柔らかなぼやっとした文体だと言われてみればそうかもしれませんね。べつにそういう文章をたくさん読んだからといって何か悪いことがあるとの研究結果がでているわけではないようなので過度の心配は禁物ですが、たしかにぼんやりした文章ばかり毎日読んでいるのは不安にもなりますね。ちょっと頑張って難しそうな本にでも、たまにはチャレンジするのかいいのかもしれません。僕も帰ったらドストエフスキーを引っ張りだしてみようかと思います。

 というようなのが等身大の「僕ワタシ的懐石文体」で、これについてだけ書くつもりだったのだがついでに「ちょっと頑張る俺ワタシ」スタイルについても紹介しておきたい。

 「関連するものを、ひとつプラスする」という選択。
 もう十分なのかもしれませんが、それでもさらにもう一つ加えることにしているんです。そうして一つ余分にプラスするには、日頃の準備が必要になってくるので自然と情報収集のアンテナが磨かれますね。もちろん、いつもいつも何かをプラスする必要もないですし、プラスすることを考えない人達のことを否定しているわけではありません。スタイルは人それぞれですし、実際にはわたしもプラスすることが難しいときは諦めて気持ちを切り替えます。無理はしないでなるべく自然体でいたいからです。でも、できればあと一つプラスしたいという日頃の心構えがステップアップにつながっていくのかなとも感じています。

 自分で書いていて虫酸が走るのだが、インターネットの「コンテンツ」がこういう文章だと吐き気がするので内容の如何にかかわらずなるべく読まないことにしている。「等身大の僕ワタシ文体」「ちょっと頑張る俺ワタシ文体」がネットに溢れているのはいうまでもなくネットの情報で目に付くものの大半が広告宣伝だからだ。「等身大の僕ワタシ」はマスに寄り添うためで、「ちょっと頑張る俺ワタシ」はマスの欲望を点火するため。ネット以前、世の中の「文章」は広告ではないものが多かったが、ネット以後の社会では広告として書かれた文章が指数関数的に増加している。思考の根幹でもある言語が広告に汚染されることは僕たちの生活に大きな影響を与えるようになるのではないかと思う。

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京都から東京、2月、バイク、引っ越し and all: day 3

2015-09-10 11:11:42 | 東京日記
 三軒茶屋の不動産屋から、下北沢のアパートへ向かう。今度も道は良くわからないが、時間の制限がないので気が楽だ。なんといっても鍵は僕の手の中にある。茶沢通りを北上して途中で一度道を間違えたが、すぐに下北沢。行き止まり路地の多い入り組んだ住宅街に僕がこれから住むアパートはあった。まだ8時半だけど、住宅街の中は静かで冬のクリアな空気が音を吸い込んでいるかのようだった。車もほとんど通らない。実際に物件を見るのははじめてだった。バイクが置けると聞いていたけれど、どこだろう。とりあえず入り口の前にバイクを止めてさっき受け取ったばかりの鍵で扉を開けた。静かな夜に知らない土地で知らない部屋の鍵を開けるのは変な気分だ。懐中電灯を点けてブレーカーを探して上げると、白い蛍光灯の明かりが部屋を満たした。前の住人が付けたままにして行ったいかにも普通の丸いペンダントライトはすぐに外すことになるだろうけれど、今はないよりましだ。ダイニングと寝室には蛍光灯、バスルームにはやや暗い白熱灯、和室には電器がなくて真っ暗。バイクから荷物を下ろしてとりあえず部屋の中へ放り込んだ。駐輪場らしきものはやっぱり見当たらないので、バイクは路駐する。ただ道路が車一台ギリギリ通れる幅しかないから、止めても問題なさそうな場所へ移動させた。
 ガスも通っていないし、布団もないので今日はホテルに泊まるつもりだった。部屋に入ってラップトップをデザリングでネットに繋いで周辺のホテルを探す。東京にはどこにでもホテルがあるだろうと思っていたら、下北沢にはホテルがほとんどなかった。一度アパートの”自分の部屋”に入ってしまうと、気が抜けて疲れがどっと押し寄せてくる。バイクの止められる比較的近いホテルを探していて、土地勘もないので段々と面倒になってくる。もういいや、今日はここで寝よう。

 問題は寒さだ。布団がないだけではなく、暖房器具もない。エアコンは付いているのだが、聞いた話ではもう古くてダメだから入居したらすぐに取り替えるということだった。実物を見てみると場末の安い旅館とか民宿とかにありそうな、リモコンが有線のかなり古いもので使わないほうがいいような雰囲気があった。もう一歩も動きたくなかったけれど、そうも行かないので一番近いコンビニを探して僕はまた外へ出た。
 ローソンでラーメン、けんちん汁、焼きそばパン、飲むヨーグルト、水、カロリーメイト、カイロ、70リットルのゴミ袋などを買って部屋に戻る。電子レンジもお湯もないので温めるべきものは全部コンビニで温めてもらった。熱が冷めないうちに全部食べて、それからゴミ袋とガムテープと新聞で寝袋を作ってから歯を磨いて、バイクに乗っているときと同様に着込んだウェアの下に新しいカイロを押し込んだ。
 床の上では硬いので、明かりのない和室に急ごしらえのゴミ袋寝袋を敷いて、そこに着膨れのままで入る。部屋が1階だからか地面の冷気が畳から伝わって来る。いや逆か、僕の体温が畳を抜けて地面へどんどんと吸い取られていく。和室の前はちょっとした庭になっていて、その向こう側の家についているセンサーライトがときおり点いたり消えたりしてカーテンのない窓から光が差し込んできた。ダンボールか何か、下に敷くものをもらってくれば良かった。畳を上げて重ねるという手もあったけれど、暗い部屋の中でそんなことをする気力はもうなかった。押し入れの中で眠ることも考えたけれど、カビとかを考えるとはじめて入った部屋の中の押し入れにはあまり入りたくない。

 疲れ果てていて寒くてもなんでも眠ってしまいたかったが、このまま寝てしまうと死ぬかもしれないと思ったので対策を考えた。ゴミ袋寝袋の中はすでにもう結露してベタベタだった。地面との接点を減らすために座って壁にもたれる。僕は一体なぜこんなことをしているのだろうと惨めな笑いがこみ上げてくる。
 選択肢は大きく分けて2つ。1つ目は、ホテルとか友達の家とかネットカフェとかどこでもいいけれど温かい場所へ移動すること。2つ目は、もうダメだというカビだらけ埃だらけかもしれないエアコンを点けること。
 体力的に移動は本当にごめんこうむりたかったので、僕はエアコンを点けることにした。実は、翌日になってわかったことだが、エアコンがダメになっていて交換するというのは間違いだった。エアコンは古いけれど別に動いていて、これだけでは足りないかもしれないから新しいエアコンも別に付けてもらえるというのが本当のところだった。だからエアコンはスイッチを入れると普通に動いて特にカビ臭くも埃臭くもなかった。なんだ。
 部屋が暖まると僕は一瞬で眠りに落ちた。

 翌朝9時前に引っ越し屋から電話が掛かってきて、そして荷物の搬入。
 元気な引っ越し屋と朝の光で、凍えて惨めな昨夜が嘘みたいな気分になる。でも、この倦怠感は本物だ。搬入の後、畳の上にベッドのマットレスを投げ出してその上でまた眠った。3時にガス会社が開栓に来るが、それまでは何もないしもうずっと寝ていたい。

 ガチャガチャと誰かが玄関のドアを開ける音で目が覚めた。
 えっ?鍵は掛けた筈だ。
 飛び起きて和室から出て行くと、吃驚した表情の女性と作業着を着た男の人が入ってくるところだった。
「あなた、どうやって入ったの?!」
 その女性は大家さんで、作業着の人はエアコンを付けに来てくれた電気屋だった。
「どうやってって、鍵でです」
「鍵は誰にもらったの?」
「不動産屋でもらいましたけれど」
「まあ、じゃああの人達勝手に鍵作ってるのね。ほんっとに困ったわ。あのね、鍵は全部私が持ってて、私が直接渡してるの、だいたい5本しかない筈でここに5本全部あるでしょ。あなた何本持ってるの?」
 大家さんは5本の鍵を差し出して見せた。
「2本です」
「じゃあ勝手に2本も作って、どういうつもりなのかしら。あとで電話して文句言います。そしてあの道に駐めてるバイクは多分あなたのよね。この物件にはバイク置き場はないの」
「えっ!」
「話は聞いています。バイク置ける物件探してたのよね。それで不動産屋が勝手に置けるって言ったの、私が聞いたのは全部事後的によ。仕方ないからうちの駐車場に駐めてね。うちの家は隣だから。隣の部屋に入ってくれてる人もバイク通勤なんだけど、バイクの駐輪場は別に借りてもらってるのよ。これじゃ不公平だけど仕方ないから。本当になんて不動産屋かしらね。色々話が早いから何かあったら不動産屋ではなくて私に直接言って。ピンポーンって来てくれればいいから。これで不動産屋に管理費払ってるんだから馬鹿みたいよ」
 とにかくバイクが置けるということでほっとして、大家さんの駐車場までバイクを移動させる。

 エアコンの工事はブレーカーの新設を伴うもので、2時間くらい掛かった。
 そのあと、しばらくしてガス屋さんがガスの開栓をしにやってきて、結局のところ一段落したのは4時前のことだ。開栓したてのガスで、僕は早速シャワーを浴びた。温かいお湯が体を流れ落ち、体の表面を覆っていた気だるさの膜みたいなものが流れていく。空腹や疲労や微かな緊張感の塊が体の奥底に残っていたが、血液の中には高揚感が巡っていた。これまで何かの記号に過ぎなかった東京という言葉が、生活の場という実在としてこのバスルームの外側に広がっている。ずっと昔何かのテレビ番組で飛行機のパイロットが選ぶ世界の夜景というのを特集していて、嘘だか本当だか第1位は東京の夜景で、その理由はどこまでも光る街が広がっているからというものだった。国際線のパイロットを何十年も務めているというその男は言った。「確かにきれいな夜景はいっぱいありますよ、単純にきれいさということならもっときれいなところもあると思います。でも東京はとにかくどこまでも広がっていてそれに圧倒されるんですよ、いつも」
 冬の夜は早い。そのどこまでも続くという光の街は、まもなく現れる。

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京都から東京、2月、バイク、引っ越し and all: day 2

2015-09-07 18:23:09 | 東京日記
 ホテルのベッドで目を覚まし、テレビを点けて馴染みのない地域のニュースを見るのが好きだ。内容は特に気にならない。知らない土地で知らない人達が新しい1日をはじめようとしていて、その雰囲気が伝わって来るとどうしてか少し嬉しくなる。僕の知らない地域にも確固たる住人がいて、その土地の確固たるどこかで確固たるイベントを例年のように今日も執り行っているのだということが嬉しいのかもしれない。風土は違えど、言葉は違えど、ありとあらゆる地域で人々は生活している。
 そうだ、思い出した。内容はどうでもいいと書いたけれど、この朝のニュースでは中部地方のどこかの川の畔にある日本軍の研究施設のことが流れていた。軍部が科学者を集めて電波兵器だかなんだかを開発しようとしていたらしい。仁科芳雄、朝永振一郎といった錚々たる名前が挙がっていたはずだ。
 昨日の疲れと睡眠間際の暴食で予想通り体は重く、テレビから流れてくる天気予報を背景にしてバスルームでシャワーを浴びたが眠気はしっかりと残ったままだった。時間のことをはっきり覚えていなくて、出発したのが9時だったのか10時だったのかわからないのだけど、予定していた出発時刻から1時間近く遅れてのチェックアウトだったと思う。かなりゆっくりと歯を磨いたり荷物を整理したりした。今日は1日、また寒い中を移動するのかと思うと億劫になる。幸いにも天気は回復していて、天気予報が言うには今日は快晴みたいだ。しかしながら、快晴であろうが曇天であろうが、寒いことには変わりない。なんといっても2月なのだ。

 無料の朝食という触れ込みの抱き合わせ販売されている安物のパンや目玉焼きを無視して外へ出ると、朝は随分明るく、国道を走る車もそれなりの数になっていた。バイクに荷物を載せてネットを調節してから、自分も跨り、フェイスマスクを着けて、メットを被って、それから手袋を嵌める。窮屈な1日のはじまり。日光が眩しいのでサングラスも追加してさらに窮屈になる。
 この後はほとんどずっと走りっぱなしだった。国道1号線を主に辿ったのだが、どのように走っていたのかは詳しく書かない。とにかく走った。豊橋、浜名湖を渡り浜松。掛川をずっと超えて、たぶん焼津の手前でマクドナルドに入ってはじめて休憩した。シールドの隙間から入る風で顔が痛くて、そして全身は当然のように凍えていてずっしりとした倦怠感がある。時間はお昼時だった気がするけれど、店内は空いていて、マクドナルドは最近評判も業績も悪くてガタガタだということを思い出す。アルバイトをしているのは大半が初老の人達で、僕の注文したビッグマックセットを持ってきてくれたのはおばあさんと呼んで差し支えない女性だった。ポテトがベタッとしていて、容器にも濡れたあとがあったので交換してもらいたかったけれど悲しくなってやめた。カロリーとホットコーヒーを摂取して少し休んで行くつもりが、厚着のウェアと湿ったままのブーツで湿気たポテトのビッグマックセットを食べるのは全然心地良いことでもなく、最低限の体力回復を待った後、僕はお店を出た。

 静岡と富士の間だったと思う。
 僕はただ淡々とバイクに乗っていて、顔の痛みと寒さに耐えていた。もともと一人でどこかへ行くのは好きではなかった。寒空の中を一人で移動し続けることに小さな孤独を感じ始めた頃、右手に相模湾が近くなり冬でもなんでもとりえず海の景色はきれいだなと思ったり、カリフォルニアの海岸を思い出してやっぱり寂しくなったりしていたら、左手の景色が急に開けた。
 そして富士が聳えていた。
 麓へ緩やかに下りていく稜線が長く広く、文字通り場違いだが関東平野という単語が脳裏を過ぎった。駿河湾と富士の組み合わせは浮世絵みたいで一瞬時代が分からなくなる。どの観点からしてかとかそういうことは全部曖昧なまま、景色の雄大さにぼんやりとこれは関東には勝てないと思う。これまでに富士を何度も見ているけれど、海と一緒に見るのははじめてだった。

 体が冷え切ってきてセブンイレブンでコーンスープを買う。大型のバイクから下りてきたおじさんが「君、蒲郡の方から走ってきたよね。一回見たよ」と話しかけてきた。ちらっとナンバープレートを見て、「えっ京都から来たの?」と言うので、僕は京都から東京まで行くのだと言った。
「これから箱根の峠越えるの? 寒いよー。僕より先にここに着いているということは色々あれだと思うけれど気を付けてね。50分走ったら10分は休まないとダメだよ」
 箱根が山だということをすっかり忘れていた。
 関東が近くなってきて、そろそろ終盤だと思っていたらまだ一山あったわけだ。熱海の方へ迂回しようかと地図を見るとどっちにしても山地を越える必要があった。時間のことも考えると遠回りは避けたい。ここまでの路程でグーグルマップの経路検索は自動車のためのものであってバイクには全然適していないことも分かっていた。よく分からない道を使いたくはない。それにもう全く観光気分ではなかったけれど、箱根を通りたいという気持ちもまだあったので、セブンイレブンを出てそのまま箱根を目指した。
 結果的に箱根を通って良かったと思う。残雪が路肩に残る長い登り道の途中、開けた視界には怖いくらいの強度で存在している富士があったからだ。京都を離れた寂しさと東京に住む高揚感と一人で只管寒さに耐えているバカらしさがバランス悪く配合され血液の中を流れていてオーバードーズ気味の大脳新皮質が高いクロックで美しさという記号を組み立てる。中沢新一が東京の中心は皇居でも江戸城でもなくてずっと富士山なのだと言っていた気がするが、その意見に今こそ賛同しよう。そしてつまりハロー東京。

 やや危ない橋を渡り僕は箱根を越え、茅ヶ崎、藤沢、鎌倉といった地名が目に入るようになってきた。
 思えば2年前の夏に横浜や鎌倉へ行ったことが、東京移住の最大のモチベーションになっている。横浜の嘘みたいにきれいな夜と江ノ島や七里ガ浜の海岸線に僕は感動した。日本国内を観光してはじめて感動したと思う。こんな素敵な場所が日本にあったなんてと思った。134号線で渋滞に捕まっても海や人々を眺めながらゆっくりと車を動かして車内でラジオを聴きながらおしゃべりするのは気分が良かった。
 この横浜旅行の翌夏、僕はアメリカ西海岸をシアトルからサンディエゴまで旅行したのだが、カリフォルニアの海沿いをずっと走ってもこんな気分にはならなかった。なんというか湘南周辺の文化は西海岸のイミテーションという側面もあると思うのだけどLAの乾いて硬く明るいビーチに比べて、この湿って柔らかい神奈川県の沿岸部の心地良さは圧倒的だ。大仏も神社も歴史もある観光地に理想としてのサーフ文化という美しい上澄みがミックスされてできた大都市近郊の奇跡的な場所。

 横浜に差し掛かり少しすると既視感に襲われた。よく考えてみれば2年前に車で走ったのと同じ道で、ただそれだけのことで多少ほっとする。川崎。五反田。五反田ということはそうか東京か。時間は7時半を過ぎていて、タイムリミットまであと30分でちょっとやばいかな。この時まで実は高速道路なんじゃないかと思っていた環七を通ってやっと三軒茶屋についたのは7時50分。
 今でも三軒茶屋へ行くと、このはじめて三茶へ辿り着いた時のことを思い出す。不動産屋の場所がわからなくて時間ギリギリで、荷物満載のバイクと大袈裟な防寒着に身を包んだクタクタの表情の僕、暗い国道一転キラキラした街と仕事終わりの待ち合わせや帰宅といった日常を送るたくさんの人々。バイクを押して場違いな歩道を歩いて不動産屋を探して路駐してビルに入ったのは7時55分で、いつも通りほんとにギリギリだなと笑いが込み上げてくる。

 鍵や書類なんかを受け取り再びバイクに跨りながら、これで一段落だと安心していたのだが寒い夜はまだ長く続くことになった。
 (その3へ)

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京都から東京、2月、バイク、引っ越し and all: day 1

2015-09-05 00:23:12 | 東京日記
 2015年2月8日、天気予報は今季最強の寒波がやってくると言い、僕はバイクで京都を後にした。
 半年前のこの小さなバイクの旅、あるいは引っ越しのことを忘れてしまわないうちに書いておきたいと思う。とは言っても大体は既に忘れていて、さらにTシャツと短パンの季節から振り返れば凍えて死にそうだった行程全てが嘘だったような気分にすらなる。あの日は本当に寒くて、Tシャツと短パンの季節がこの国にあるなんてやっぱり嘘にしか思えなかった。

 京都から東京へ引っ越すことが決まったとき、同時にバイクで移動することも決めていた。普通自動車免許しか持っていない僕のバイクは、何年か倉庫で埋もれていたという96年のYB-1で、友達のお父さんにたったの1万円で譲ってもらったものだ。実家に乗って行った時、バイクを見た僕の母親は「これ動くの?大丈夫?」と怪訝な顔をしていたが、わずかなオーバーホールで既に1年以上極めて安定的に動いている。一通り全体を触ったのと、片道1時間近くかけて山の中まで通っていたこともあり、僕とバイクの間にはそれなりの一体感もあった。それに以前は78年の6Vモンキーに騙し騙し乗っていたので(いつもどこかを修理していた)、それに比べればYB-1の信頼感は圧倒的だった。

 ただ、バイクで移動しようと思ったのは引っ越しが春になると思っていたからで、色々なことがバタバタと繰り上がり引っ越しが2月になったときは少し考え直した。2月というのは日本で一番寒い時期で、そんな中50ccのバイクで京都から東京まで移動するのはどう考えても苦痛だ。大体雪が積もったり地面が凍ったらアウトじゃないか。しかし此の期に及んで引っ越しのトラックでバイクを送るというのはあまりにも味気なく、何かあったらその場からバイクを送るでもなんでもできると、結局はバイクで移動することにした。

 春のうららかなツーリングから厳寒の2月へ変更になったのは予定外ではあったがこれはまだマシなことだった。
 もう一つの予定変更は結構シリアスで、不動産会社や引っ越し屋の都合で僕は東京までたった1泊で行くことになったのだ。出発直前までは2泊を予定していた。道のりとして京都から東京まではざっと500キロある。平均時速50キロで移動できれば10時間で済むが、あいにく僕のは50ccのバイクで、法定速度のことはいいとしても、信号やなんだかんだ考えると平均時速50キロで移動することは難しい。平均して50キロで移動するためにはもっと早いマシンが必要だ。たぶん15時間は絶対に掛かるだろうと思った。
 さらに一泊というと丸2日間というイメージがあるけれど、今回の一泊というのはそういうことではなく、1日目の出発は京都で引っ越し業者に荷物を渡したりした後の昼下がり(結局友達と喋ってて夕方5時半に。。。)で、2日目は不動産屋の営業時間内夜8時までの実質26時間半しかなかった。6時間半眠って残り20時間。そこにシャワーや寝る支度、起きてからの身支度を2時間とって残り18時間。15時間が本当にバイクに乗っている時間だとしたら休憩に使えるのは3時間で、まあトラブルが起きて途中で修理などしなくてはならないようなことになったらお終いなプランだった。

 引っ越しが終わって、シェアメイト達にお別れを言い、タンクとリアにネットで無理矢理荷物を括り付けたバイクで家を後にしたのはすでに夕方に差し掛かる4時だった。その後、まっすぐ滋賀県へ向かわず岡崎にある友人の家へお別れを言いに行った。彼とはいつもついつい長話になるのだが、この日も一言の予定がパンとコーヒーで1時間以上話し込む。朝から慌ただしくて、僕はまだこの日朝から何も食べていなかったのでこれはとても助かったし、このあと厳寒の中5時間以上バイクで走ることを思えばカロリーの摂取は必要なことだった。
 さらに彼はどうみても高価で高性能な手袋を「北極で水に手を突っ込んでも大丈夫なやつ」と言いながらくれた。この手袋は肘まであって、まあここまで大袈裟なのは要らないだろうと思っていたのだけど、数時間後にこの手袋の有り難みが寒さと共に骨身に染みることとなった。これがなければ今回の小旅行は無理だった。

 さて、本当に京都とお別れだ。
 5時を過ぎて夕方はいよいよ夕方らしくなっている。今日の目的地は愛知県の蒲郡。予約してあるホテルに遅くても11時には着く予定だった。もう何年も何度も通っている白川通からインクラインを抜けて山科、滋賀へとバイクを走らせた。この道をもう戻って来ないのだと思うと少し寂しい。
 僕は京都市内に19歳から36歳まで17年間も住んでいて、いわゆる「若者」時代の全てが京都市近郊にあった。大津にも琵琶湖にも楽しい思い出や悲しい思い出がたくさんあって、それらを思い出すと感傷的にはなるが離れることは清々しくもあった。少しだけ降ってきたこの雨を遣らずの雨だと呼んでもいいだろうか。そのような感傷に浸る余裕があったのも、知らない角を曲がって知らない道に入り、それが山の奥へと進むまでのことだった。地図を見るとよく分かるのだけど、滋賀県の大津辺りから三重県の四日市に抜けるには山岳地帯を越えなくてはならない。普通は高速道路でスイスイと文字通りバイパスするわけだが、50ccのバイクでは高速道路には乗れないので山の中をひた走るしかない。冬の日没は早くすっかり完璧に日は落ちていた。暗く寒い峠道を走る車はほとんどない。雨の暗闇を走っているのは僕だけであまりいい持ちはしない。
 そういえば、さっき友達の家で「関東から自転車で京都まで来た人が、三重から滋賀に抜ける峠が本当に寂しいって言ってた」というようなことを聞いた。峠には家も店もそしてガソリンスタンドもなかった。ガソリン満タンにしてくれば良かったな。このバイクは古いバイクなのでガソリンメーターが付いていない。メーターの付いていないバイクは大抵予備タンクが付いていて、普通に走っていてガス欠になったら予備に切り替える。たとえば僕のバイクは全部で7リットルのガソリンが入るのだけど、そのうち5リットルが通常走行用で、残り2リットルが予備だ。ガソリンタンクからキャブレターへの途中にあるコックを「ノーマル」にしておくと、残りが2リットルになった時点でガス欠になる。そこですかさずコックを「予備」に切り替えて残りの2リットルでガソリンスタンドへ向かうという段取りになっていて、2リットルあれば7、80キロは走れるから普通なら困ることはない。
 ところが、あいにくコックが壊れていて僕のはずっと「予備」になったままだ。つまり、5リットル使った時点での警告的なガス欠はなく、7リットル全部使ってしまって本当にタンクがスッカラカンになるまでガス欠にはならない。もちろんそれは正真正銘のガス欠であり、そうなればバイクはもう1メートルも動かない。こんな寂しい峠でそれは絶対に御免こうむりたい。たしか蒲郡まで走れるくらいガソリンはあったと思うのだけど、こんなに登りばかりだと少し不安になる。

 と思っていたら、なんとエンジンが止まった。路肩に寄せて、バイクを揺らしてタンクの音を聞いてみる。まだジャブジャブいっているのでガソリンはある。
 キック。
 掛からない。
 キック。キック。キック。
 掛からない。ガソリンがあって掛からないということは故障してしまったのだろうか。
 もちろん一通りの工具は持っているし、部品もタイヤチューブの他にスパークプラグ位は持っている。が、時間も体力も奪われるし面倒だし寒いし暗いし雨だし、こんなところで故障というのは絶対に嫌だった。
 悪い予感で一杯になりながらの押し掛け。
 掛からない。。。
 悲惨な気分になりながら、坂のきつい場所に移動しての押し掛け。
 掛からない。
 祈るような気持ちで、もっと加速付けて押し掛け。
 ブー、、、ボン、ボンっ、ボボボボ。
 掛かった。助かった。。

 エンジンが掛かると、バイクは何事もなかったかのように走り出した。ちなみに、この後は一度もバイクに不調はなく。半年経った今日に至るまで全く快調に動いている。どうしてあの時止まってしまったのかは分からない。
 峠を抜けてもしばらくはガソリンスタンドがなく、最初に目に付いたスタンドまで平坦な道を何分走っただろうか。スタンドの明かりが見えてほっとする。バイクの調子が悪いかもしれないし、そうであればエンジンを止めるのは怖いがそうも言っていられないので給油することにした。冬の雨の日に荷物満載のバイクへ給油するのは本当に面倒だ。バイクを止めて、手袋を外し、カッパの下の防寒のツナギの下から財布を引っ張り出し、ネットを外してタンクの上の荷物を一旦下ろして、それからようやく通常の給油手順をはじめることができる。何もかもが濡れて冷たくて不快だ。
 ガソリンは3リットルも入らなかった。「こんなちょっとの給油ですみませんね。峠でなんとなくガス欠が不安になって思わず寄っちゃいました」僕は多少ほっとしたのもあってアルバイトの店員にそう言った。「そうでしょ、あの辺全然なんにもないですし」

 給油後、エンジンはキック一発で掛かり、一旦冷えてしまうと掛からなくなるかもしれないというのは杞憂になってくれた。オッケー、エンジンは快調みたいだし、ガソリンは正真正銘の満タンで、そして峠は終わった。あとは都市とはいかなくても田舎町とか市街地とか、いわゆる国道沿いを走るだけだ。
 山の向こうとこちらで気候が違うのか、それとも夜が深まりつつあるせいか、スタンドを出て20分ほど走ると急激に寒さが浸透してきた。それまでは「寒いなー、まったく」という感じだったのだが、ここへ来ては「これは真剣に考えないと良くない気がする」というシリアスな寒さに変化していた。相変わらず雨も降っていたので、僕は国道から左折して田圃の先に見えるアパートのピロティへ一旦避難することにした。荷物の中から予備の服を取り出して着れそうなものは全部無理矢理着込む。それからカバンの中を引っ掻き回すとホッカイロが3つ入っていたので、3つとも全部お腹の辺りに貼り付けた。峠を越えてから全然お店の類を見ていないが、次にコンビニとかドラッグストアとか何かがあったら絶対にカイロを買おう。引っ掻き回した荷物を再び整理して、それからカッパを着て、防寒用のフェイスマスクを付けて、僕はまた雨の国道へ向かった。

 ドラッグストアが見つかるまで、そんなに距離はなかったのだが、ドラッグストアに辿り着くと同時に雨が雪へと変わった。なんというか、「そうか、そうなるんだ」というような意味のない感想しか持てず、バイクを止めてカッパを脱ぎ、庇の下から僕はしばらく雪を眺めていた。積もったり地面が凍結したらお終いだ。店内に入ると、当たり前だけどそこは普通のどこにでもあるドラッグストアだった。ちょっと広くて、薬の他にお菓子とか食べ物とか、洗剤とかゴミ袋とか化粧品とかシャンプーが売られていて、蛍光灯が明るく隅々まで照らし、お得だという何かの情報やチェーン店独自のヘンテコな歌が流れていて、何人かの買い物客が日常的な買い物をしていて、パートナー社員という良くわからない肩書きと苗字を書いたバッジを白衣に付けた店員がその相手をしている。そして暖かい。
 体の芯が冷たくて、店内の暖かい空気がはっきりとしたエネルギーの流れとして入ってくる。カロリーが必要だ。僕は貼るカイロを10個、それから靴の中に入れるカイロを10個の他にチョコバー2本とホットココアを買って食べた。カイロをウェアの下に貼り、ブーツの中にカイロを入れる。ブーツの中はすでに濡れていて不快だ。快適さという観点からして、今はどこにもポイントを稼げるところがなかった。寒さも雨も雪も暗さも重苦しい服もブーツもメットも全てが不快だった。

 とりあえず体が温まり、ある程度のカロリーも摂取したので、ついでにトイレを済ませてからドラッグストアを後にする。すでに濡れているカッパを着ると不快さは一層強まり、シールドに張り付く雪もさらに不快だった。道路に落ちた雪はすぐに溶けていき、今ならまだ走れる。とりあえず先を急ごう。腹部に貼り付けたカイロは低温火傷でもしそうなくらいに暑かったが、ブーツの中のカイロは湿気ですぐにダメになったのかほとんど何の役にも立っていなかった。しばらくして雪が止んでくれたのは幸いだった。いつ上がったのか忘れてしまったけれど、四日市に入るまでには上がっていたはずだ。四日市に差し掛かって、夜の工業地帯に見とれそうになっていたときは雪はすでに上がっていた。
 この後は蒲郡まで一度コンビニで休憩を挟んで国道を走るだけだった。ホテルに着いたのは11時半くらいで、僕は部屋に入ってすぐにシャワーを浴びた。この日一番幸せだった瞬間は暖かいお湯を浴びたこの瞬間かもしれない。そのあと、近所のコンビニで買った唐揚げとか焼きそばパンとかとにかく脂っこいものを大量に食べ、そして普段は絶対に見ないどうでもいいバラエティ番組でタレントがベビー用品店に行ったりするのを眺めて、どうにかカッパやブーツの手入れをしてから眠った。多分1時くらいに眠りに落ちたのではないかと思う。そうして寒い夜は終わった。

 (その2へ続く)

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狭い世界の外側の無数の専門的な広さ

2015-08-31 22:16:33 | Weblog
 パクリ問題で盛り上がるネットを見ていて、僕はコーヒーマニアのことを批判していた自分のことを恥じた。

 まず、僕が持っていたコーヒーマニアに対する批判がどういったものなのか説明しておくと、だいたいは「本当はもっと別のことをしたいのに、それをするのが怖いから本当のところは別にどうでもいいコーヒーに拘って誤魔化している」というものだった。
 コーヒーに凝るのは手軽だし、それに多少は高尚な気もしなくはないし、オシャレな気がしなくもないし、日常における「隙間時間」を利用した「癒し」になり得るし、ドミナントな飲み物で大勢の人間との共通言語にも成り得る。なんだかそれはそれで悪くない気がして、別に本当は缶コーヒーでもいいくらいなのに、辞めたいと言いながらもう4年以上働いている会社のこととか、長期休暇なんて望めなくて1年くらいの旅に出たくて仕方ないのに行けないこととか、そういうことを誤魔化す為にコーヒーミルを買ってみて私はコーヒーが好きなのだと自分に言い聞かせて、人には蘊蓄を聞かせているのだと思っていた。

 消費者としてのコーヒーマニアについてだけではなくて、お店についても否定的だった。有名な珈琲店に何件か行って高いコーヒーを飲んでみて、確かに変わった味だがコーヒーはまあコーヒーだなとしか思えなくて、そんなに違わないのに自分たちに付加価値をつける為にあれこれコーヒー豆の焙煎の仕方とかドリップの仕方とかについて拘りがあるようなフリをしているのではないだろうかと思っていた。

 コーヒーという飲み物は世界中で恐ろしく大量に飲まれていて、エナジードリンクとかヒロポンみたいに疲れてもう本当は休みたいのに休むことが許されていないときに飲むものでもあって、何かに追われて疲れ果てている人が眠い頭を働かせる為に仕方なくカフェインの投入を行っているのに豊かな香りとか寛ぎとかそういうものにうっすらと覆われていてまるでただ嗜好品として好きだからコーヒーを飲んでいるような気分にもなりやすくて、その巧妙なすり替えみたいなものがなんとなく嫌だった。現代社会という壊れかけの巨大な機械はカフェインの注入によって各部品に異常な負担を掛けながら動いている。そして強い国がカフェインを手に入れる為に弱い国では弱い人たちがこきつかわれて死んでいく。
 平和でリラックスしたイメージに包まれた、人々をこき使って作られた、人々をこき使う為の飲み物。
 デストピア映画なんかでよく人々が自らすすんで感情を消す薬を飲むように、それと同じように僕たちは好んでコーヒーを飲んでいるんじゃないかという気もして、そんな考えのせいでコーヒーというものに対して斜に構えずにはいられなかったのかもしれない。

 オリンピックエンブレムについて、ネット上でたくさんの素人が専門家やデザイナーの意見を「偉そうにしたいだけでしょ、素人でもダサいってわかるw」みたいな感じであしらっているのを見て、僕はコーヒーマニアに対して同じことをしていたのかもしれないなと思った。
 コーヒーマニアやコーヒーに詳しい人がコーヒーを飲むとき、感じている味はもしかすると僕の感じているそれと同じなのかもしれない。でも、その味の背後に広がる世界の広さには決定的な差がある。僕のそれは彼らのそれに比して圧倒的に狭いのだと思う。僕はコーヒーに関して素人で、その世界の広がりを知らない。

 現代社会には「素人のピュアな意見は専門家の凝り固まった意見より正しい」「自分基準の好き嫌いがイチバン正しい!」という考え方がかなり浸透していて、かつグラフィックデザインはパッと一目で目に見えるので素人が得意げに意見を表明しやすい。偏微分方程式を解かなくても、不規則な動詞の活用を何十個と暗記しなくてもオリンピックエンブレムは目に見える。本当は知識や経験や技術がないと見えない部分がたくさんあるのだが、そういう部分があるということを認めない人はたくさんいて、彼らは「素人にもぱっと見てわかるのか良いデザインだから、専門家にしかわからないようなのはダメ」と、もっともらしい詭弁を口にする。

 ほとんどトートロジーなくらい当たり前のことだが、ある専門分野においては素人は専門家に劣る。素人が「素人にも分かるように説明できないのはダメ」ともっともらしいルサンチマンを振りかざしても、素人が専門分野のことを理解することはできない。「素人さんの新鮮な意見が大事」とかいうリップサービスが、人々の自分は無能ではないと思いたいという欲求に合致して、さらにマスメディアやインターネットがそれをブーストした所為で、現代社会には「素人のピュアな意見は専門家の凝り固まった意見より正しい」という考え方がかなり浸透している。
 かつて貧なる弱者が「聖」を与えられたように、現代では無知で思慮も気力もない人間が「スマート」という称号を与えられようとしている。馬鹿が馬鹿なのではなく馬鹿にでも分かるように説明できないあいつが馬鹿なのだという馬鹿に都合のいい信仰が蔓延している。「CHA-LA HEAD-CHA-LA 頭カラッポの方が 夢詰め込める」と人気アニメのオープニングで歌われてから20年以上が経過して、子供達は今日も教室で「もっと分かりやすく説明して」「あの先生わかりにくい」と鉛筆を投げ出し、大人たちは池上彰に飛びつき「分かりやすい"分かりやすいプレゼンの仕方"」に躍起だ。

 分かりやすいのがいいというのは、それはそれで一つの考え方なのかもしれない。
 幼稚園児からおばあさんまでみんなでオリンピックエンブレムを考えて応募しよう!素人のピュアな感覚こそが望まれます。どれが一番いいかはみんなの投票で決めよう!というやり方で選ばれた素人の素人による素人の為のオリンピックエンブレムを使うことが、神聖な民主主義みたいで一番心地いいと思う人もいるかもしれない。

 けれど、素人の素人による素人の為のものは息が詰まる。
 素人の世界というのは狭っ苦しく広がりがないからだ。
 ついでに言っておくと「子供はみんな芸術家!」「子供は発想が自由!」みたいなやけに耳触りのいいフレーズも大嘘だ。
 子供は素人で子供の世界は狭い。

 素人の世界は狭い。狭く、浅く、息が詰まる。
 なぜなら、素人の世界は肉体という小さな装置に直接制限されているから。

 料理を例に挙げると、素人の世界が肉体に直接制限されているということが分かりやすい。
 一皿の料理を作るのに、素材の採取や育成まで遡れば、コストはいくらでも掛けることが可能だ。畑の土にも肥料にも産地にも牛の育て方にもシカの捕り方にも野菜の切り方にもスパイスの組み合わせにも無限の選択肢がある。一皿が1000万円する料理だって作ることは可能だ。だが、最終的に1000万掛けて出来上がった料理が到達するのは人間の舌にすぎない。人間の舌が感じることの可能なレンジは決まっている。1000円の料理と1000万円の料理にはコストに10000倍の差があるが、舌の上で10000倍の差は見られないだろう。これが1億だろうが1兆だろうが話は同じだ、どんなにコストを掛けても出口のレンジが狭い以上、ほとんど全てが無駄に終わる。
 味覚以外の感覚に関しても同じことが言える。
 僕たちが感じることのできる範囲は、感じることのできる範囲だけで、その外側のことは感覚では感知できない。
 贅沢の限りを尽くしてファーストクラスや豪華客船で旅行して一流ホテルに泊まって、自然の刺激を求めて時にはキャンプだってして、一流レストランで食事をして絶景を眺め、欲しいものは全部買って、エックスでも決めて踊り明かして、ゆったりと温泉にでも行って、何をしても、どこへ行っても、僕たちが体験できることは僕たちが体験できることだけだ。これは冷静に考えてみるととても息の詰まる話で、だからその世界の外側に出たくて僕たちは学んだり訓練したりする。そうして素人の世界を抜け出そうとする。
 1000万円のコストが掛かった料理の持っている世界がわかるのは、たとえばシェフとか農家とか食べ物に関する専門家だけだ。実際に感じた味の背後に広がる世界を想像するためには一定の知識や経験が必要で、そういったものは素人にはない。

 ここで「食べてパッとわからないことには意味がない」というのは簡単で、誰にでも感覚的にわからないことはほとんどフィクションでバーチャルで嘘でダメだと言いたくなるのはパッと聴いただけだと筋が通っているような気分になる。
 けれど、それでは僕たちの世界は狭いのだ。
 自分にはわからないけれどそのジャンルの専門家がこの世界のどこかにいて、先人を含めたそういう人達が自分にはほとんど関わりがないけれど人類の持つ観念的な世界を広げてくれていると考えたほうが嬉しくはないだろうか。ぱっと見ただけではほとんど同じアリにしか見えないのに、それを細かく分類したり生態を調べたりしている専門家がどこかにいるというのはなんだかほっとするし嬉しいことじゃないだろうか。何百年も前に書かれた詩について研究している人とか、地域によって同じ鳥なのに鳴き方が違うのはどうしてかという研究をしている人とか、そういう人達が自分の生活に一切関わりを持たないとしても世界のどこかに存在しているというのは僕には何かの救いみたいに思える。

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戦場のボーイズライフ序章「坂城」部分

2015-07-30 23:08:24 | Weblog
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■  坂城(1)
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 坂城(1)

「90歳なのに自在にインターネットを駆使して老後を楽しむおじいちゃん」というのが、今のところのマスコミの捉え方だった。活力を失いつつある高齢化の進んだ日本に明るいメッセージを流そうと、マスコミは最近連日のように坂城のことを取り上げている。もっとだ、もっと騒げ。坂城は思う。もっと騒いで俺を有名にしてくれ。俺は有名にならなくてはならない。

 元プログラマの90歳のおじいさんが面白いサイトやソフトを作ってネットの中で活躍しています。すごいですねー。おじいさんなのに。今はネットがあるから老人になってからでも色々なことができるんですよ。テレビでアナウンサーだとかコメンテーターがそういうことを言う度に強い不快感を感じた。素人どもが若いというだけで一体何様のつもりだ、俺はエンジニアで、お前らが生まれる何十年も前からコンピュータをずっと触っていてコンピュータのことなら何から何まで知っている。何の知識も技術もないくせにパソコンとかスマートフォンでネットをしているだけそれらを使いこなしていると勘違いしているようなお前達に「老人なのにすごいですね」なんて言われる筋合いはどこにもない。お前達はただの消費者で俺は開発者だ。
 だが坂城はテレビカメラの前で気のいい物腰柔らかな老人を演じた。テレビの欲しがるようなキャラクターを演じて出演機会を増やすことに努めた。俺は今有名にならなくてはいけない。流行に乗っているイケてる若々しいおじいちゃんを演出するためにどうでもいいJポップも覚えた。イントロクイズのコーナーで坂城が俳優やタレント達を差し置いて答えると客席からはおーっという歓声が上がり視聴率が延びた。

 やがて、坂城は夕方の生放送にレギュラー出演するようになった。つい一昔前までは相撲が放送されていた時間帯だ。この時間帯には多くの老人が家で暇を持て余していた。
 相撲は暗部が世間に晒されたりして段々と人気がなくなり、キャッシュも回らなくなってきてテレビから消えた。
 相撲という競技はルールも簡単で分かりやすく、滅多に血も出ないので気楽に見ることができた。この人達は普通ではない、とはっきり分かるくらいに鍛え上げているのに脂肪が付きすぎていてどこかコミカルで他の格闘技のように鋭い筋肉の躍動を見せつけられるということもなかった。元気で失礼な若者が現れたら品格がないと言って追い出せば済んだ。伝統的な国技だとお国の安心印まで付いていた。要するに安心して見ていることができて、かつ退屈はしない程度の刺激を簡単に得ることができた。
 相撲の代わりに、今は坂城の出演するワイドショーのようなバラエティ番組のような情報番組のようなものが流れている。当たり障りのないことを「これは面白い娯楽なんです」というパッケージに入れて差し出すだけの簡単なことなので、坂城はすぐにルールをマスターして求められる役割を演じていた。時々、この人は本当はやり手のプログラマーで実は賢いのだ、ということを視聴者に思い出させるようなことも言うことにしていた。そうすると視聴者は「この人は本当は賢い人だし、本当は賢い人が出てるのだからこの番組はバカにしか見えないけれど本当はバカなんじゃなくて本当は面白いちょっとした教養番組なのだ」と思いこんで安心してテレビを見続けてくれる。

 だが、物わかりのいい道化も今日までだ。
 坂城はポケットの中でバタフライナイフの手触りを確認した。朝からずっとポケットに入れていたので、ナイフはしっとりと温まっている。今このナイフは俺の体温と同じ温度だ、と坂城は思う。バタフライナイフをさっと一振りして開くのは肝心なとき絶対に失敗しないように何度も何度も練習した。流石にもう電光石火で手を動かすというのは難しいな、これが年をとるということか。ナイフを開く練習をしているとき、坂城はコレヒドールのことを思い出した。 
 1942年5月5日の夜、坂城たち歩兵第61連隊は戦車第7連隊と共にコレヒドール島への上陸作戦を実行した。坂城たちは島の北東部に上陸したが、それはかなりの犠牲を見越した危険な作戦だった。砲撃戦で既にアメリカの要塞には大きなダメージを与えていたが、アメリカが1936年から6年間もかけて補強した要塞は満身創痍であろうと坂城たちをただで通してくれるほどやわではなかった。これが構えて護るということか、と坂城はその時思い知った。自分達は遠い祖国を離れてフィリピンまで、ものすごいスピードで侵攻し、バターン半島からコレヒドール島へ渡ったところで消耗していた上、控えめに言っても弾薬は豊富ではなかった。対してアメリカは長い間かけてこの要塞を準備してきたのだ。歩兵隊に降り注ぐ弾薬の量は半端なものではなかった。どうして自分が生きていられたのかいつまで経っても、今になっても不思議でしかたない。すぐ近くにいた谷沢は榴弾の破片を食らって脇腹が吹き飛んでいた。脇腹というか腹部の半分がなくなっていた。「サカキー」と谷沢は叫んで言った。痛い痛い痛い痛い殺してくれ。坂城は谷沢の所へ走っていって躊躇わずに喉にナイフを突き立てた。全力で全体重を乗せて頚椎を走る神経と動脈が一瞬で切断されて一瞬で意識がなくなるように。
 谷沢はただの戦友ではなかった。親友だった。
 翌々日、日本軍はコレヒドール島を支配下においた。
「谷沢、あれからざっと70年だとよ、まったく70年も俺はあれから生きてるんだぜ」



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 ◆  坂城(2)
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  坂城(2)
 
  どうして谷沢が死んでしまって、俺が生き残ったのだろう。弾道のほんの僅かな違いで、脇腹を吹き飛ばされたのが俺であってもおかしくはなかったはずだ。どうして谷沢が死んで俺が残ったんだ。いや、分かっている。理由なんてない。理由はない。すべて只の偶然だ。たまたま俺の方が運が良かっただけだ。頭ではそう思う。でも心と体はそう簡単に納得しなかった。70年経った今も坂城は自分が生き残ったことに対する答えを求めていた。答えを求めているというよりも、生き残ったことに対する罪悪感があるのかもしれない。仕方がなかったとは言え、谷沢にとどめを刺したのは自分だった。自分のこの手で谷沢の首にナイフを打ち込んだ。坂城はその手応えを今も鮮明に覚えている。ほんの数秒のことだったが、あの戦争で一番はっきりと記憶に残っているのは谷沢の首の骨に自分のナイフの切っ先が触れた瞬間かもしれない。喉に突き刺さったナイフの縁から真っ赤な血が吹き出して来て首元に掛かった。湿った熱帯の空気で蒸された肌になお血液は熱かった。それは温度ではなく命だった。最後の瞬間、谷沢の目は笑っていた。それが坂城にとって唯一の救いだった。最後に目と目で交わしたあの瞬間がなければ、たぶん坂城は谷沢の喉に突き立てたナイフを抜いてすぐさま自分の喉を掻っ切っただろう。あそこは地獄だった。
  谷沢が絶命するまでの僅かな時間、交わされたのはメッセージだとか言葉ではなく谷沢の人生そのものだったような気がする。死ぬ寸前、走馬灯の様に人生が頭の中を駆け巡るというような話があるが、坂城は谷沢が絶命するまでの一瞬間に谷沢という人間の一生を体験したような気がした。
  谷沢とは何だったのか。谷沢の存在とは何だったのか。そして谷沢はどこへ行ってしまったのだろう。さっきまで谷沢という名前の体に宿っていた何かは一体どこへ消えたのだ。本当にこの世界からなくなってしまったのだろうか。
  戦争が終わってから、魂の重さを測ろうとした実験があることを知った。アメリカのダンカン・マクドゥーガルという医師が行ったもので、実験結果は1907年に発表されている。彼は6人の人間と15匹の犬それぞれについて、死の前後で重さがどのように変化するのかを調べたようだ。そして、人間は死ぬと物質的な変化では説明の付かない重さの変化を示し、その値は21グラムであるという結論を出して、この21グラムが魂の重さであると言った。
  実験に対する信憑性は低い。実際に人間が死ぬ瞬間に立ち会って、その系全体の重さを厳密に測定することはとても難しいからだ。さらに、被験者6名のうち2名で測定を失敗しているので、実際にはわずか4人分の測定結果しかなく、データが不十分であると言わざるを得ない。
  坂城もこの実験結果を信じてはいなかった。
  1907年の時点でどれだけ厳密な測定ができたのかも疑問だったし、魂には重さがあって、死の前後で質量変化が見られるはずだというのは随分安直な仮定に思えた。
  とはいえ、死は明らかに何かの変化だ。死んで行く谷沢から失われたものは、吹き飛ばされた腹部の半分と首から吹き出した鮮血だけではなかった。あのとき谷沢の体からは確かに何かが出て行って、どこかに消えていった。それがどこかに消えるまでの間、極めて短い時間であったが、坂城はそれの存在を明確に感じることができた。あれは一体何だったんだ。
  いつの間にか、自分が生き残ったことへの罪悪感は、魂とは何か、生命とは何かという問いへの探究心に変化していた。考えてみれば、人間が死んで失われることよりも、人間が生まれて存在できることの方が不思議だった。どうやって俺は存在しているのだろう。
  坂城にとっての敗戦後は、人間の存在や意識の存在そのものに対する好奇心と疑いにドライブされたものになった。もしかするとそれは国家という人間の集団に対する欺瞞を、個々人の存在不可思議性に投影して誤魔化す行為だったのかもしれない。「俺は人間の存在や意識の存在に興味があるのであって、国家を論じたりするつもりは毛頭ない。人間存在の不思議が分かれば、その集合である国家のことも自ずと明らかになるだろう」とでも言いながら、社会への目を閉ざして人間存在の探求にだけ励むのは心の平安を得るのに都合が良かった。
  本格的に学問をするほどの余裕はなかったので、探求といっても限られた哲学や生理学の書籍の前で一人思考にふけるだけのことだった。それでも自分の存在が不可能な筈だということは分かった。
  たとえば生理学によると、我々は目に入った光を杆体や錐体という網膜細胞で捉えて電気信号に変換しているとのことであった。その電気信号は視神経を通じて脳へと送り込まれる。我々の脳は、このたかだか「電気信号」を、「色や形」に変換して「見える」という状況を生み出している。
  そういうことになっているのだが、どう考えてもそんなことは不可能だ。電気信号から色を作り出すなどという芸当が、この世界で許されるわけがない。電気と色は次元の異なる全くの別物だ。その間を取り持つことのできる手順なりシステムなりがあるとは考えられない。電気から色を作るというのは、いわば並べられた数字を好きに足したり引いたり掛けたり割ったりしていいから、どうにかして計算結果が「水」になるようにしてくれ、と言われているようなものだ。数字と水は全くの別物なので、そんなことはできない。電気と色も全くの別物なので、電気から色を作ることはできない。色だけではない、音も味も匂いも熱いとか冷たいも全部そうだった。つまり自分が世界を認識しているその拠り所となる感覚は全部「あるはずのない」ものだった。あるはずのないものによってできている我々とは一体どのような存在なのであろうか。すべては嘘なのではないか。
 
  現実感のないまま、それでも坂城は一見普通の社会生活を送った。小さな商店を経営し、結婚して3人の子供にも恵まれた。1人目の子供が生まれた時、坂城は著しく現実感を喪失して気が狂いそうになった。この子は一体どこからやってきたのだ、どうして子供が、新しい人間が生まれるなんてことが可能なのだ、そんなことできるわけないじゃないか。何か巨大な嘘に騙されているような気がして怖くなって街へ出てしばらく家へは戻らなかった。お父さんは感激して男のくせに涙が出そうでそれを見られたくないから街へ飛び出していったのだ、と詮索されるような身振りをすることだけは忘れなかった。
  街へ出ても本当は人間が怖かった。この存在不可能性を軽々と乗り越えて存在していて自分に話し掛けたりこっちを見たりしてくる何かは一体何なんだろうか。でも、それらは往々にして坂城に親切にしたり楽しげに話しかけたりしてくれたので、どうやら害があるようでもなくて、形而上の疑念以前に彼らが見せてくれる笑顔と単純な挨拶に救われてどうにか平静を保つことができた。自分や人々の存在自体は本当に不思議だったが、どうやら恐れる必要はないようだった。坂城は段々と不思議だと思う感覚を忘れていき、自分の商店の営業や子育て、地域での付き合いと言った世俗的なことを楽しむようになっていった。あの頃は戦争で人を殺したり色々と過酷な経験をした直後だったので、もしかしたら少し頭がおかしくなっていたのかもしれないな。
 
  平穏な生活が破れたのは1968年のことだ。
  1968年、「2001年宇宙の旅」という映画が公開されて、坂城は大阪OS劇場へ行ってそれを見た。映画の中に出てくるHAL9000という人工知能が坂城に衝撃を与えた。HAL9000というコンピュータはまるで意思や感情を持っているかのように見えた。HAL9000は「怖い」という感情すら口にしたのだ。坂城にとってそれはもうただの映画でもフィクションでもなかった。啓示だった。HAL9000という人工知能は赤いランプの灯ったカメラから世界を見ていた。それはあちらからこちらを見ていた。  
 コンピュータが意識を持つなんて。そんなことが本当にできるのだろうか。
 それまで坂城はコンピュータのことも人工知能のことも、ほとんど何も知らなかった。コンピュータで人間の意識に近いものを生み出す。そういった研究が現実に行われているという情報は坂城を点火した。自分の中にこんなに強い学びへの欲求があるということもそれまで坂城は知らなかった。人工知能のことをもっと知りたいという思いは、もはや感情というよりも肉体的な実体だった。人工知能を使って人間の意識を再現すれば、俺たち人間の意識がどうして生まれたのかも分かるのではないか。坂城は持てるリソースの全てを投入してコンピュータの勉強を始めた。既に53歳になっていて、プログラミングの勉強を始めるには遅すぎるとも言われたが気にしなかった。当時いわゆるパソコンはまだなかったので、色々なミニコンを買っては試した。最初は使い方も良く分からなかった。混在するプログラミング言語のどれを使えば良いのかも良く分からなかったでCもPascalもFORTRANもCOBOLもとりあえず目に付くものは片っ端から勉強していった。
  70年代というのはパーソナルコンピュータが急進した時代だ。象徴的な出来事としては、1975年にビル・ゲイツがBASICをAltair8800上で動作させるのに成功し、1977年にアップルがAPPLE2を発売している。しかし、人工知能にとって70年代というのは難しい時代だった。人工知能最大の問題とも言えるフレーム問題が1969年に提出され、70年代は「人工知能には極々限定的なことしかできないのではないか」という悲観論の時代になっていた。
  それでも坂城が情熱を失うことはなかった。
 
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 ◆  坂城(3)
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  坂城(3)
 
  結局、意識を持った人工知能を作ることはできなかった。坂城は膨大な時間と労力をコンピュータに費やしたが、チューリングテストをクリアする人工知能すら作れそうな気が全くしなかった。チューリングテストというのは人工知能に意識があるのかどうかを調べるテストのことだ。方法と言っても、本当に意識があるのかどうかは確認できない。意識というのはあくまでそれを持っている主体にとってだけ「ある」ということが分かるものであって、ある対象について客観的に意識の有無を判断することは不可能だ。不可能だ、とばかり言っていても仕方がないので、とりあえず対話をしてみて、人間と区別が付かないくらい流暢にコミュニケーションが可能であればそれは意識を持っているかもしれないということにしよう、というのがチューリングテストの考え方だ。とても素晴しい考えとは呼べた代物でなかったが、それが人類の考え得る「もっともましな」意識の存在判定方法だった。
  そのもっともましなテストすら人工知能がクリアすることは不可能だった。不可能だったしアプローチの方法を見ていると、たとえそれがチューリングテストをクリアしたとしても、到底そこに本物の意識が宿るとは思えなかった。基本的に人工知能はデータベースと探索アルゴリズムに過ぎなかったからだ。こんなところに精神や意識が宿るわけない。残念なことだが、意識の探求をコンピュータサイエンスで行おうとしたのは最初から間違いだったのかもしれない。救いは坂城にプログラミングとコンピュータアーキテクチャの才能があって、仕事には困らなかったことだ。ずっと企業の中で働いていて名前が世間に出ることはなかったが、坂城は日本にパーソナルコンピュータを普及させた立役者の1人と言っても過言ではなかった。業界では知らぬ者はなかった。
 
  しかし、それはおまけに過ぎない。
  俺は結局、意識の探求には失敗したのだ。何も分からなかったし、何も作ることができなかった。「なあ谷沢、結局なんにも、あれからなんにも分からないままなんだよ」俺が創り出そうとしていたのは、意識を持った人工知能というだけではなく、もしかしたら谷沢だったのかもしれない。この世界にまだ谷沢の断片が散らばっていて、それらをコンピュータの中に掻き集めて谷沢を蘇らせることができると思っていたのかもしれない。
  馬鹿げている。
  俺は一体何をしていたんだろう。
  気が付くと信じられないことに90歳になっていて体はボロボロだった。これ以上人工知能を触ろうという気力もなくなっていた。妻も、少ししかいなかった友人達も既に死んでいた。3人の子供達はイタリアと北海道と南アフリカに住んでいて多忙でそれぞれに家族を持っていてほとんど会うこともない。
  孤独が怖いわけではなかった。全てを諦めていて、もう怖いものなど何一つなかった。かつてはテレビの出演者達がときどき食事や酒の席に誘ってくれていたが、上辺だけのものであることは明白だった。いつも坂城が断りやすい状況が設定されていて、坂城の方も彼らに全く興味がなかったので、自然と誘われることもなくなっていった。孤独は恐怖ではなかったが精神を蝕んだ。肉体が乾いていき、人との接触がなくなっていくと坂城は自分が本当に存在しているのかどうか段々分からなくなってきた。昔なら1人でいる時間はプログラムを書くことに集中していたので孤独だと感じることはなかったし、はっきりと自分の輪郭が分かって生きている感じがした。でも、もうこれ以上何かを開発したいという気持ちもなく、だいたいコンピュータのディスプレイを眺めること自体が苦痛になっていた。
  テレビに出るようになったのは、腑抜けた日本人に残酷な殺人場面を見せつけて、さらに自分と同じようにくすぶり死に行く老人たちに決起を促す為だったが、もしかしたら孤独で寂しくて自分の存在が日に日に消えていくのが分かって毎朝起きたらもう死んでしまってもいいんじゃないかという気分になってそういう感覚から逃げ出したかったからなのかもしれない。テレビでバラエティ番組に出てはしゃいだ振りをするのは人々に殺人を見せつける為の手段に過ぎないと自分に言い聞かせていたが、本当はテレビでちやほやされることが嬉しかったのかもしれない。いや、嬉しかったのだ。それは分かっていた。
 
  足元の血溜まりに、映画の宣伝を兼ねてゲスト出演していた若い俳優の死体が転がっている。スタジオを照らすライトが肌に熱い。こんなに眩しかっただろうか。ひどい汗をかいている。スタジオの中央にも血溜まりができていて、司会者の小男とレギュラー出演しているアイドルの女が倒れている。殺してしまった。悪い人間ではなかった。俺は本当は彼らとテレビに出ることが楽しかったのではないだろうか。家に帰って1人で風呂に浸かっているとき、いつもその日のスタジオでの出来事を思い出していたのではなかったか。俺はこのバラエティ番組に出ることが好きだったのだ。全てを壊してしまった。司会者もタレントの女の子も殺してしまった。二人の体から流れ出した血液は合流して大きな赤く深い血溜まりになっている。天井のライトが反射して強い光を坂城の目に押し込んでくる。こんなに大量の血液があの司会の小男にも痩せたアイドルの女の子にも流れていたのか。熱帯雨林では大地が血液を吸い込んでくれてそれは優しさに似ていた。スタジオの床は血液を一切吸収しない。血は大地へ返らず彼らの魂はまだこの室内を漂っている。そうだここはテレビ局のスタジオだ。現実と虚構の間だ。そんな場所で死んだ人間の魂には救いがないかもしれない。そうか、ここでは死ねないな。出演者を何人か殺した後、自分も死のうかと思っていた。でもここでは死ねない、ここは死ぬには適してない。谷沢が熱帯の中に消えていった時と全く違う。戦場は悲惨だったし谷沢の死に方も悲惨だったが、それでもここで死ぬよりも"まとも"だった気がする。ここは駄目だ。待てよ、本当にそうなのか。本当に「ここは」駄目なだけなのか。ここではないどこかでなら死んでもいいのか。あのジャングルの中でだったら死んでもいいのか。違う。嫌だった。そうだ、俺は死にたくない。生きているのが嫌になってもう死んでもいいと思っていて死ぬ気になれば何をしても平気だと思っていたが本当は死にたくなかった。俺はまだ死にたくない。もうしたいことも何一つなくて体が乾いて枯れているのに、それでもまだ死にたくなかった。急激に何かの感情が沸き上がってきて制御できない。この世界に存在していたい。この生にしがみついていたい。どんな形であってもしがみついていたい。噴出した感情は慈しみだった。生命に対する愛おしさが思ってもみない強さで溢れ出してくる。たった今俺はそれを4つも奪ったのだ。コンピュータという最先端のテクノロジーを使って数十年努力しても生み出せなかった意識を、ナイフという原始的な道具であっさりと4つ消してしまった。激しい後悔と自責と寂しさと悲しさが申し訳無さに混合されて、さらに殺してしまった人間の家族や恋人のことを考えると気が狂いそうになった。腑抜けだろうが老人を舐めていようがなんだって構わないじゃないか。それくらいのことは全く構わなかったのだ。俺は何をしたかったのだ。馬鹿にされたって蔑まれたってそれがどうだっていうんだ。大体本当に俺は蔑まれていたのだろうか。枯れゆく肉体を蔑みの対象にしていたのは自分自身ではなかったか。自分が老いていくことが許せなかったのは他でもない俺自身だったのではないか。
  最初に気付いたのは、首元が濡れているということだった。その生ぬるい液体は血液とは違い透明で涙だった。顔中が涙で濡れていた。老いて乾いた体に、まだこれだけの涙があったのか。そういえば俺は谷沢が死んだ時泣かなかったな。あれから全然泣いていなかったな。あの島へも行かなかった。谷沢のことを弔うのであれば、コンピュータをいじるよりも谷沢の骨を探しに行ったほうが良かったのではないだろうか。ずっと何から目を逸らしていたのだろうか。谷沢なんて本当にいたのだろうか。俺が何十年も掛けてコンピュータで実現しようとしてきたことは、人間にも自力で別の意識を持った存在を作り出すことが可能だということを証明する試みだった。コンピュータは時代の寵児で、コンピュータで意識を生み出すことが実現できれば、HAL9000みたいにすごい人工知能を作れば、人間には、いや、俺には意識を持った存在を作り出す能力があることをみんなが認めてくれるに違いない。あの戦場で坂城は気狂いだと呼ばれていた。谷沢は完璧にチューリングテストをクリアしていたが、坂城にしか見えなかったからだ。
 

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キティちゃん目覚まし時計3D修理

2015-07-24 22:13:18 | fab
 小学生のときから20年以上使っているという目覚まし時計の修理依頼がありました。
 修理とはいっても、クォーツのメカ自体は正常に動いていて外装に欠損があるだけです。欠損箇所は2箇所で、オーソドックスな目覚まし時計の頭に付いている「ピピピピッ!」と鳴ったときに押す(あるいは叩く)ボタンと、背面の電池蓋。
 今回は、大事な部分なので頭のボタンの修理です。





 元々部品の嵌っていた部分を測定して、大まかな形を想像しつつ3DCADでデータを起こします。



 それを世田谷ものづくり学校プロトタイピングルームの3Dプリンターで出力したものがこちら。



 軽く表面を磨いてから時計に収めます。



 ぴったり収まり完成です。

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color me pop

2015-06-19 23:52:17 | 東京日記
 飛行機が離陸するとき、いつも鳥肌が立つ。地面から足が離れてしまう恐怖からでも、閉所に閉じ込められた恐怖からでもなく、この巨大なテクノロジーの塊が纏っている人類の知力と労力に圧倒されるからだ。航空力学、ジェットエンジン、構造設計、素材、塗料、制御系。翼の付け根に掛かる応力をイメージする。軽量化と剛性を実現した機体に走る微かな歪みをイメージする。エンジン内部の高温に晒された金属部品たち。さっきまで巨体を支えていたタイヤが機体へ格納される音がする。管制塔のレーダー。交信。奇跡だ。僕たちは、歴史のはじまりにおいて木と草と石と水と土くらいしか持ってなかったのだから。どうしてこんな遠くまで来ることができたのだろう。フラップの角度が変わる。制御系を完璧に動かしている電子回路。超高密度で集積されたチップ。論理ゲート。半導体。ドープ。電子の動きを計算する第一原理計算。窓の外は何度で何気圧だろう。コーヒーを飲みながら映画を見つつ思う。僕は今テクノロジーに守られていて、それなしには生存することができない空間にいると。

 でも、まだこのまま月へすら行けない。
 飛行機は、別の空港へ、地上へ戻るのだ。

 振り返ってみれば、子供のときからずっと世界の外側へ行きたかった。
 自分の遥か遠い子孫に当てて、「タイムマシンで迎えに来るように」という手紙も書いて引き出しに保存していた。指定した場所はその手紙を書いていた場所で、指定した時間は手紙を書き終えた1分後だった。つまり僕はその手紙を書いた1分後にタイムマシンに乗って未来へ行くはずだった。なぜだか分からないのだけど、タイムマシンは来なかったから、僕はまだこの世界にいる。その所為で引き出しにしまっていた手紙はなくしてしまった。
 スターウォーズという映画をはじめて見たとき涙が出そうになった。
 ジョージ・ルーカスは「(もちろんフィクションだが)これは大昔に起きたことだ」と言った。そして僕は、宇宙はとんでもなく広いのだから、大昔ではなく今この瞬間にこういうことをしている宇宙人たちが本当にどこかにいるに違いないと思った。
 けれど、僕は彼らに会うことはない。

 なにせ、まだ月へすら行けないのだから。

 僕は地球に閉じ込めらていて、さらに現代に閉じ込められていた。長ずるにつれ、それどころか自分の知覚や肉体にも閉じ込められていることが分かってきた。せめて考えることは自由だと思っていたら、その考えというものも檻の中だとポストモダンは痛いほど教えてくれた。

 見えないものが見たかった。
 思考し得ないものを思考したかった。
 そして、語り得ないものを語りたかった。

 同時に、地球も現代も知覚も肉体も、全部が素敵な体験をもたらしてくれる大事なものだった。あっちの世界が見たいのと同じくらい、この世界のカラフルにも心打たれていて、単に人を驚かしたりもしたかったし溢れる色彩を見たり見せたりもしたかった。遠くの天体の写真を眺めることと、拾った木片を削ることは同列ではないが全く性質の異なるものでもなく、うまい具合に僕の中で共存していたのだと思う。だからパーティーも開いたし、インスタレーションもしたし、便利グッズを買ったり、美術館へ行ったり、ハイキングも開催して、夏には花火も見上げた。

 2011年3月、僕は溢れる色彩のことを大事だと思えなくなった。いちいちミルでコーヒーを轢かなくなってインスタントコーヒーを飲むようになった。黒い服ばっかり着るようになった。日常の小さな喜びなんてどうでもいいと思うようになった。
 大事なのは力だ。世界は底が抜けている。圧倒的なものは圧倒的でないものを一瞬で駆逐する。ミサイルはオートクチュールを一瞬で飛び散る灰に変える。
 どっちみち潮時だったのだろうけれど、僕は研究室を辞めた。

 それからの4年間は、まさに糸の切れた凧だった。とは言っても結局は京都にずっと留まっていて、概ねは楽しくハッピーに過ごして貴重な体験も積み重ねた。江戸の後期かもしれないというスーパー古い家にもみんなで住んだし、線路沿いで新幹線もSLも見える家にもみんなで住んだし、中国にも韓国にも香港にもアメリカにも行ったし、観光名所になっている神社の階段も作らせてもらった。なんだかんだたくさんの人に会った。
 けれど、やっぱり僕はどこか虚ろで、現実を支配している力というものばかりが気になっていた。

 4ヶ月前に東京へやってきて、どうしてか感じる懐かしさのことを不思議に思っていた。少しして懐かしいのは不思議でもなんでもないことが分かった。僕がかつて長い間見聞きし、あるいは憧れていた音楽や物語の舞台は東京だったからだ。インターネット前夜のテレビと雑誌が支配する世界では、東京の中心性というものは今より強かったのかもしれない。僕は良くも悪くもそういう時代を生きて来た。
 渋谷という無数の他人たちが歩く都市を歩くとき、不思議と感じる街への親近感はそういった何十年か積もった「文化」のせいだろうか。もう夜は8時を過ぎているが、それでも東京は夜の7時で、すでに誰も舌を噛まなくなったくらいに変な名前が日常に浸透した女の子が切りすぎた前髪のことを歌っているのを聞いて、バスルームで髪を切る100の方法が頭を過る。
 そうして、過去のあるフルカラーに直接リンクした現代の止まらない都市は、一歩歩くたびにポスターカラーのしぶきを跳ね上げ、真っ黒だった僕のTシャツにはいつの間にか色が付いていた。この夏は花火を見上げるだろう。インスタントコーヒーは飲むけれど。

オン・プレジャー・ベント ~続・カラー・ミー・ポップ
フリッパーズ・ギター
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