深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

Trick or Treatment ? 第6部

2010-04-13 11:06:47 | 一治療家の視点
この記事は、第5部のコメント欄に有機創世派さんからいただいた3回目のコメントに対するレスポンスでもあります。コメントとして書くには長くなりすぎてしまったため、独立した記事としてupすることにしました。だから以下を読まれる方は、前もって第5部のコメントによるやり取りをお読みいただきたい(ただし、かなり長い)

これまでのやり取りで、私と有機創世派さんとの間の論点は、「治療効果というもののを、純粋に治療行為による結果の部分とそれ以外の部分とに明確に分離することができるか」ということに集約されてきたように思います。これは『代替医療のトリック』の核心部分ともリンクするものです。

>(代替医療と対比しての)通常医療は、治療効果が治療行為によってのみ発生するとは考えていません。sokyudo氏のおっしゃる通り、治療効果には様々な要因が存在します。
>しかし、その要因のすべては治療効果が一様に等しくはありません。
>とても強い治療効果を持つ要因や、回復率を引き上げる程度の要因、あるいは理論上は治療効果があってもほとんど観測不能な要因もあるでしょう。
>治療行為とは本質的にはこれらのうち可能な限り強い治療効果を持つ要因を人為的に引き起こすことです。

という、有機創世派さんの治療行為についての考え方に私も全く異存ありません。そして、医療行為とは全て統計学と切り離せないものであることも。遙か昔から今に至るまで、さまざまな治療法が考案され、その中で経験的に比較的効果が高いものだけがずっと残って使われてきた。それは即ち、統計学的な分別が行われてきたということです(もちろん、ここで言う「統計学的な…」とは素朴な経験則の延長にあるレベルのもので、数学的な厳密性を持った「統計学的な…」ということではありません)。

そして『代替医療の~』が行おうとしたのは、その「経験的に」の部分を「科学的に」に置き換えることであり、そのための最高のツールが二重盲検法だというわけです。二重盲検法を用いれば、得られた治療効果の中から治療行為そのものによる結果を分離できるので、その治療法が純粋に有効であるかどうかを判定できる──それがこの本や有機創世派さんの考え方であり、それに対して私は、治療効果とは治療行為と患者の内的・外的なさまざまな要因との関係性によって決まるので、治療法そのものの純粋な効果を求めることなどできない、と考えています。

この2つの考え方の違いは、通常医療と代替医療というものの、医療あるいは治療そのもののあり方の違いが大きく関わっているのかもしれない、と2回目のコメントへのレスを書いた後、ふと思いました。

私は、通常医療で「○○病に対してこの治療は有効か?」という問いは意味があるけれど、代替医療では「○○病に対して鍼灸は有効か?」とか「カイロプラクティックは有効か?」という問いには意味がないと思うのです。

通常医療では病名診断がなされると、その診断に基づいて治療法が選択されます。実際には、患者の症状の程度などの他、年齢や性別などの疾患名以外の要因も当然加味されるでしょうが、大枠としては患者個人の属性といった要素の影響は相対的に小さく、疾患名に対して治療法が決まってくる。ですから「○○病に対してこの治療は有効か?」という問いには大きな意味があるわけです。

それに対して、代替医療の治療はそうではありません。単に、疾患名に対応して治療法を選択する、ということではありません。○○病である特定のAさんに対応して治療法を選択する、といったことでもありません。○○病と診断された特定のAさん現在心身の(構造的、電気的、エネルギー的、…)の状態に応じて治療法を選択する、ということなのです。だから極端な話、Aさんを診るのが1時間早かったら、あるいは遅かったら、治療の流れは全く違うものになっていたかもしれない。つまり代替医療では、治療法の選択そのものが患者の内的・外的な要因と不可分なのであり、だから治療効果から治療行為そのものの結果だけを分離することなど最初から不可能なのです。

薬の治験であれば、特定の疾患を持った人を大勢集めて、実際に投薬を行うグループと投薬を行わない対照群とに分けて、その差を比較することでその薬の有効性が測れると考えることには一定の合理性があるでしょう(実際には、これだけではただの大規模な調査にすぎず、二重盲検検査ではありませんが)。しかし、鍼灸、カイロプラクティック、オステオパシー、…何でもいいですが、代替医療でそれと同様のことを行ったとして、それをもって治療行為による効果を測れるものでしょうか。

例えば、ある特定の疾患に対する鍼の効果を調べるために、その疾患と診断された人を大勢集めて、鍼を打つグループと打たない対照群とに分けます。しかし、ここで問題となるのは、鍼を打つグループに対して、どこにどれだけの鍼を打つことを認めるのか、ということです。ある人にはツボAを使い、ある人にはツボBを使う、あるいはある人には鍼を1本だけ打ち、ある人には10本打ち、ある人には接触鍼だけ、…といったことは認められるのか? もし、公平を期すために使うツボ、使う鍼の本数、使う手技は全て統一しよう、などとなったら、それはもはや鍼治療ではなく、そんなことで対照群と比べて疾患の改善度合いが云々などと言っても、そんな結果には何の意味もありません。

『代替医療の~』の最大の問題は、全く違うあり方をしている2つのものを同一の基準で評価しようとしたことにあるのです(この本を読む時、自分がいつも感じていた「何とも言えない違和感」の正体が、これを書くことでやっとわかったような気がします。有機創世派さんにはお礼を言わなければなりませんね)。

それでも、「通常医療も代替医療も同じ『医療』なのだから、同じ基準で評価できなければならないはずだ」と言い張る人もいるでしょう。そういう人に私の考えを述べるなら、
「代替医療は、通常医療とは違うあり方をしていることに意味がある。もし代替医療が通常医療と同じあり方に変わってしまったら、通常医療を『代替』することも『補完』することもできなくなるだろう。そして、あり方が異なるものを同一の基準で評価できるはずもないし、またする必要もない。『では代替医療の評価は誰がどのように行うのか』と問われるならば、『それは、それを受ける患者と時間が決める』と答える。本当に効果のないものならば、その治療法からは自然に患者は離れて、時間の経過とともに消えていくものだから」
ということになるでしょう。

※なお、私はこの場で単に自分が個人として信ずることを述べているだけで、これが代替医療のスタンダードな考え方だ、などということではありません。誤解なさらぬよう。

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昇華戦争の勝利者の矜持 (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-13 23:05:28
 失礼な発言をした私に対し、真摯な返事をいただき、またこういった場を用意していただいたことを感謝します。

今回のお返事も長文となること、お許しください。

いくつか言わねばならないことはありますが、まず効果があるかどうかはは歴史が判断する、という考えを私は容認できません。
 瀉血という治療法をご存知でしょうか?欧州をはじめ、沖縄や中国大陸でも行われてきた歴史ある治療行為の一つです。これは患者の体を傷つけ、出血させることで治療を行う治療を一般的にいうもので、通常医療においてもごく限定された病状にならば効果があるだろう、と考えられています。
しかし、中世の欧州においてこの治療法はあらゆる病気に(作用理由が明確でないままに)行われました。霊的な思想と結びついて、魔術として行われていた側面もあったようです。
その結果、当時は衛生的に不十分であったために感染症などの原因となり、また弱った患者の体に傷をつけた結果かえって寿命を縮めてしまった側面もあったようです。そういったことから、今では瀉血はごく一部を除いてほとんど行われていません。
これは、歴史としてみたなら一つの失敗にすぎません。しかし、その結果病気の治りが遅くなった人や、あるいは死んでしまった人にとっては一つの失敗とは思えないでしょう。
歴史的にみれば、これと同様のものはいくらでも存在します。すなわち、正しくなかったがために結果的に被害者を出してしまった[誤った医療]は、数多くあるのです。私たちは、その失敗から学ばなければなりません。歴史、あるいは治療の結果が審判を下す頃には、被害者が出ている可能性はあるのです。むろん、あらゆる医療は不老不死を実現できていません。よって治療の結果治らなかった人は、すべてこの被害者だとはいえないでしょう。しかし、治療効果を発揮させるための努力を怠ったならば、被害と言われても仕方がないでしょう。
(通常医療でも、万波医師の病腎移植問題の被害者はこれに相当します。万波医師は病腎移植によって発生するリスクを回避する努力を怠ったのです)
しかし、sokyudo氏のおっしゃるやり方では全くそれが作用しません。なぜならば、良い評価ならば治ったからよいのですが、悪い評価をする頃には患者の病状が悪化しており、被害を受けているためです。さらに厄介なことに代替医療はsokyudo氏のおっしゃる通りならば治療失敗という結果が本人に合わなかったためか、代替医療そのものの欠陥なのか判断するのが困難であるためです。
通常医療ではそうではありません。ある治療が効果があるかどうかは理論の段階でその可能性を評価され、それが十分であると判断されたならば、動物実験などで確かめられたのちに、初めて最先端医療として世に出すことで、可能な限り効果がある医療を提供するよう努力を重ねています。それは確実ではなくとも、科学によって支えられた、堅実な方法なのです。

 sokyudo氏のおっしゃる通りならば、代替医療は常に十分な裏付けなしに行われています。sokyudo氏は間違っているなら経験則によって淘汰されているはずだと主張しておられていますが、人の知覚できる範囲は限られ、人の判断には思い込みも混じります。経験則によって積み重ねられた常識に反する現象など、いくらでも起こりうるのです。また、現在そうでないからといって未来にその過ちが認められ、淘汰されないとは誰にも言いきれません。(ここは通常医療もそうですが)。そのような状態を回避し、患者を確実に救うために科学的検証が必要なのです。
 
 とはいえ、科学的検証の手段が思いつかないだけなのかもしれません。が、sokyudo氏のおっしゃられる通りならば、代替医療を科学的に検証することは可能であると考えます。
今回の返信でsokyudo氏は、以下のようにおっしゃられました。
>それに対して、代替医療の治療はそうではあ
>りません。単に、疾患名に対応して治療法を
>選択する、ということではありません。○○
>病である特定のAさんに対応して治療法を選
>択する、といったことでもありません。○○
>病と診断された特定のAさんの現在の心身の
>(構造的、電気的、エネルギー的、…)の状
>態に応じて治療法を選択する、ということな
>のです。だから極端な話、Aさんを診るのが
>1時間早かったら、あるいは遅かったら、治
>療の流れは全く違うものになっていたかもし
>れない。つまり代替医療では、治療法の選択
>そのものが患者の内的・外的な要因と不可分
>なのであり、だから治療効果から治療行為そ
>のものの結果だけを分離することなど最初か
>ら不可能なのです。

私個人としては、そういった総合的なデータをもとに医者が経験から有効な治療法を見出すのが代替医療の在り方ならば、その判断を(数値化はできなくても、大まかでいいので)集積し、どのような時にどのような治療をするのかを導き出すことで、代替医療がどのように人体に作用するかを研究することができるような気がするのです。むろん、これは一例であり、これをやれと命令するつもりは毛頭ありません。しかし、こういったアプローチも存在するかもしれない、とは提案させていただきます。
返信する
科学的検証を巡って (sokyudo)
2010-04-16 13:25:31
>有機創世派さん

文才に乏しく、ずいぶん時間をかけないとまとまった文章が書けないもので、いただいたコメへのレスに時間がかかってしまい、申し訳ないです。

>正しくなかったがために結果的に被害者を出してしまった[誤った医療]は、数多くあるのです。私たちは、その失敗から学ばなければなりません。歴史、あるいは治療の結果が審判を下す頃には、被害者が出ている可能性はあるのです。

確かにそれは事実であり、だから医療はその検証に不断の努力をしなければならない、という点は、全く同感です。また

>sokyudo氏のおっしゃる通りならば、代替医療は常に十分な裏付けなしに行われています。

と言われるなら、そういう面もあることは事実だと認めなければならないでしょう。ただ、それでは通常医療であれ代替医療であれ、「科学的検証」によって本当に医療の効果や確実性が十分に担保されると言えるのでしょうか。受診した人に全く被害者が出ないような「十分な裏付け」がなされるのでしょうか(これは「結果として被害者は出なかった」というのとは全く別のことです)。

今は何かと科学、科学、と科学的なことがもてはやされ、科学的でないと世間から指弾を受ける風潮がありますが、科学をもてはやす人がどれだけ科学というものをわかっているのか(これは後に述べるように、「難しい科学理論を理解している」という意味ではありません)、私はいつも疑問なのです。

これは以前、別の記事でも書いたことですが、科学とはすなわち解釈学のことです。さまざまな現象に対して多くの人が納得するような合理的な解釈を作る──それが科学です。要するに「現象の後付け」ということですね。決して科学的であることが、真理であることを保証しているわけではない。ただ「確かにそう考えれば納得できるね」というだけのことです。新たな現象、新たな事実が見つかって、それが今までの解釈で説明できなくなれば、その解釈は覆り、その現象・事実を含めて説明できる新たな解釈が作られ、それが新たな(当座の)真理(もどき)として語られるわけです。

そして、医学的常識といったものも、新たな事実の出現によって日々変わっています。昨日まで「医学的常識」だったことが今日には「医学的非常識」になっているかもしれない。昨日までの「医学的常識」によって「間違いない医療」だと思われていたものが、今日は「誤った医療」になってしまうかもしれないし、その逆も当然あり得るわけです。

また、私は大学では理学部で数学を専攻していましたが、純粋論理だけで構築された数学でさえ、「一定レベル以上の複雑さを持った完全な数学体系(数学体系の完全さとは、1:正しいと証明されたものは正しい、2:正しいものは正しいと証明できる、を備えたもの)を作ることはできない」ということが「数学的に」証明されています(ゲーデルの不完全性定理)。

数学でさえそうなのだから、ましてや物理学的・化学的機序だけで語ることのできない生体を「科学的」という切り口だけで検証しようとしても限界があるのは、自ずから明らかというのが私の見解です(数学書なら、「証明は自明」とだけ書かれて終わりでしょう)。

これをもって私は、「医療を科学的に検証することが無意味だ」などと言うつもりはありません。不完全性定理が、数学の世界は終わりだと示したのではなく「数学者の仕事には終わりがない」ことを示すように、「医療を科学的に検証することには終わりがない」と言いたいだけです。しかし、それは同時にどんな形の医療であれ「十分な検証がなされることは永久にあり得ない」ということでもあります。

通常医療がそうであるように、代替医療も代替医療としての検証の努力がなされていますし、それは今後も継続されるでしょう。ただ、そうした側面だけで医療の効果や確実性が担保されるものではない、ということは理解すべきだと思います。
返信する
Mage: The Ascension (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-22 10:45:28
 文才がないため、お返事に時間がかかってしまい、大変申し訳ございません。
sokyudo氏に伝えたいことは多くあるのですが、私の文章力ではそのすべてを伝え切れている自身がありません。
 sokyudo氏が理解している通り、科学は事実に対する解釈という性質を持っています。
言い換えれば、科学は、事実に対する「もっとも合理的で確からしい説明」です。
それは、sokyudo氏の目は現代科学の不完全性として映るのでしょう。事実、科学は常に進歩している知見で、完全なものではありません。
しかし、私はsokyudo氏とは異なった立場をとります。それは
【現代科学は現在最も合理的で、納得できる解釈だからこそ、現代科学に従った判断をすべきだ】
という立場です。
現代科学は、【実験によられた事実】と【合理的な判断】で成り立っています。無論、その知見は無限でも完全でもありません。
しかし、その不完全な知見は、現在最も効果のある方法の集合であり、否定するならばそれを上回る根拠を持ってこなければならない、と思います。

 sokyudo氏はその文章の中で、以下のようにおっしゃられました。
>「物理学的・化学的機序だけで語ることのできない生体を「科学的」という切り口だけで検証しようとしても限界があるのは、自ずから明らかというのが私の見解です」
では、逆に、科学―すなわち【事実】と【合理的な判断】で検証できないならば、あとは何が残っているのでしょう?
心?いいえ。現代科学は心を無視しません。患者と良好な関係を作り上げることが重要であることはすでにわかっています。
心理学的な立場からいかに患者とむきあい、良好な関係を作り上げるか、というのはすでに重要な医療のテーマです。
自然の力?いいえ。現代科学はそれをむしろ熱心に取り入れてきました。
抗生物質を始めとした多くの薬品は、まず自然界で発見された薬草などから見つかったものです。
患者に対する真摯な態度?いいえ。真摯な態度をとるために、根拠に基づく医療が必要なのです。
病気ではなく、個々の患者に対応する姿勢?いいえ。医療の研究が進めば進むほど、多くの治療法が発見されています。
そして患者には、その中から選ぶ権利が生まれるのです。一部の病気などは、すでにオーダーメイド医療と言っても差し支えのない治療ができるほどです。
……それとも、霊的な何か?
もしこれを選ばれるならば、これについての回答は長すぎて、次に回さなければなりません。

ともかく、科学は確かに100%ではありませんが、科学以上に患者に自信を持って薦められるものは私には思いつきません。
現代医療には科学という根拠があります。……では、代替医療には自信を持って患者に薦められるような、「何」があるのですか?
お答えいただけたら、幸いです。
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Unknown (プー子)
2010-04-23 13:51:03
私、よくわかりませんが、医学と医療は違うんじゃないでしょうかね。現代医学にも限界があり、なす術のなくなった人が、根拠がなかろうが、科学的な裏付けがなかろうが、本人がしてみたいと思う治療を受けてみることは、仮に治療自体の効果が全くないものでも、前向きになるとか、明るくなるとか、その結果免疫力が向上するとか、悪いことはないような気がしますけどね。悪徳治療家はまた別の問題です。だって医師にも金儲けしか考えていない人はいますから、その点はどっちもどっちです。科学の常識(根拠)も時代とともに変わることもありますしね。実験や治験で効果があっても、それは平均値のようなもの、あるいは最大公約数的なものですよね。害の方が少なく、多くの人に効果があるという・・・。科学とか、厚生省が認可するって、そういうものだと思います。けれど私たちは一人一人違った体(自然)を持っていますから、科学的なもの、厚生省が認可したものが効果がなかったからと言って、その人のこの世の終わりとも限らないわけで・・・。現代医療は科学という根拠に頼り過ぎて、医療という側面を忘れつつあり、代替医療はそこにつけ入り、エビデンスがないのに過信している側面が、一部の治療家、あるいは治療家の心の一部にあると思います。エビデンスがないのですから、謙虚でなくてはならないと思います。だからそもそも「代替」「補完」なのですから。にもかかわらず、効果のあった人がいる、よくなった人がいる、という、これもまた「事実」なのです。すみません。お二人のやりとりを拝見させていただいているうちに、頭がゴチャゴチャして来たので、この場をお借りして整理させていただいたまでです。
返信する
私の書きたかったこと (sokyudo)
2010-04-23 15:55:01
>ブー子さん

コメントありがとうございます。私がグズグズしている間に、書きたかったことの多くを書かれてしまったような気がします。

>現代医療は科学という根拠に頼り過ぎて、医療という側面を忘れつつあり、代替医療はそこにつけ入り、エビデンスがないのに過信している側面が、一部の治療家、あるいは治療家の心の一部にあると思います。

この一文が『代替医療のトリック』という本、そして私と有機創世派さんが長々と続けているここでの議論の、まさに核心を突いていると(私は)思いました。
よかったら、また書き込みしてください。

それから、私のレスについては、もう少し時間をください。>有機創世派さん
返信する
私たちがメイジならば、こんな議論はいらない (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-23 20:38:16
まず、あやまらなければならないことがあります。先のコメントの文章では、正確に私の意図が伝わらないのではないかと考えましたので、お侘びとともに補足をくわえさせていただきます。
科学とは、何かに対する理論や説明、のみではありません。統計的手法や、実験によって集められたデータもまた科学です。前のコメントで、通常医療の根拠として【科学】があるとしましたが、それはむしろ統計的手法や、実験によって集められたデータであることを伝えきれていませんでした。申し訳ございません。
そのうえで、sokyudo氏には失礼かもしれませんが、、ぷー子さんからの意見をいただいたので、ここで返答させていただきます。
ぷー子さんへ
真摯なお言葉をありがとうございます。
ぷー子さんは、「医学と医療は違う。代替医療に科学的根拠がなくたって、患者の心理へのいい影響はきっとある。すべてがすべて科学じゃないだろう。効く人が少なくても、治っているという事実は確かにある」
と、おっしゃられているのだと思います。
(間違っていたら申し訳ありません)

しかし残念なことに、その【治っている人】が確認できないのです。
いや、そんなこと言われたって納得できないでしょう。しかし、事実です。
統計学的に確かなレベルで治療効果を発揮した代替医療は残念なことにありません。それは、偶然治った、以上の効果がないことを意味しています。
おそらく、納得いかないでしょう。ゆえに、「けれど私たちは一人一人違った体(自然)を持っていますから、科学的なもの、厚生省が認可したものが効果がなかったからと言って、その人のこの世の終わりとも限らないわけで」
とおっしゃられたのだと思います。しかし、そのような立場をとられるならば、それは医療ではあり得ません。医療とはもっと確実なものでなければなりません。何らかの効果を得ようとする際に、偶然程度の確立しかない何かを、信念のもと行うというのならば、それは魔法でしょう。そして悪いことに、私たちはメイジではないのです。

私個人としては、きちんとした(ここでいう通常医療を指しています)医療を受けながら、代替医療を受けるというのならば否定しようとは考えません。しかし、それは治療行為ではなく、もっと別の何かと呼ばれるべきだと思います。
返信する
Unknown (プー子)
2010-04-23 22:51:55
「医療」という言葉の定義からコンセンサスをとらないと、話はかみ合いませんね。「医療とはもっと確実なものでなければなりません。」と私は思わないのです。医学は確実なものであってほしいですけど。医療が確実なものであったら、その確実なものに見放された人は、確実に絶望なわけですよね。それでも「今」生きているという現実。アウシュビッツのようじゃないですか。ところが医学が確実(医療ではなく)なら、確実な医学に見放されても、人が為す医療が残されていることは、もうそのこと自体救いです。あるいは迷い、誘惑、魔が差すものかもしれませんが。だからそこを商売のネタにしている物もゴマンとあることも事実です。人間社会ですから。でもそのマージナルなところに可能性を求めて情熱的に研究する人もいてもいいでしょう。むしろ全く新しい知見、パラダイム、発見、発明は、そういうところから生まれて来るものです。「確実なもの」も時代とともに変わります。偶然治ってどこが悪いのでしょう?現代の我々には「偶然」という大雑把なレベルでしか捉えられない必然かもしれません。でも残念なことに(?)「かもしれない」だけなのです。だから「代替」医療なのです。あくまでも『代替』なのです。ですから私個人としては、これ以上、それを「魔法」と呼ぼうが、「もっと別の何か」と呼ぼうが関心ありません。
返信する
それでもMagickを使わねばならぬときは (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-24 00:27:39
申し訳ございません。
以下の返答は、ぷー子さんのおっしゃられていることを正確に理解しての返事である自身がありません。
…あるいは、私の言葉がよく伝わっていないのかもしれません。

最先端医療や、実験的医療の存在を否定するつもりはありません。しかしそれは、それなりの知見と、研究施設の管理のもとおこなわれるべき行為だと思います。(新薬実験のアルバイトなんかが私たちにも知られた実験的医療でしょうか)。
私はただ、根拠に基づいた医療が必要だと考えているだけです。
「医療は確実なものでなければありません」と言ったのは、決して現在一般的な治療法がダメなら死ね、というニュアンスではありません。
先端医療や実験的医療は、確かに十分な実験データ、統計データがないかもしれません。それをやるなと言っているのではなく、それをやるなら十分な根拠(たとえば科学理論とか)が必要である、というだけの話です。

また、偶然で治ることは悪いことではありません。偶然で【治らないかもしれない】こと、そしてそれに労力や時間が支払われることが問題なのです。
これで治るはずだと信じて苦労した揚句、実はあなたには【偶然】効き目がなかったという話になっては、患者が不都合をこうむってしまうためです。
もし宝くじを買ったり、おみくじを引くような感覚で代替医療をやる、とおっしゃられるならば、私は否定するつもりはありません。
ただ、それは医療ではないので、代替医療という呼称も適切ではないという、それだけの話です。
返信する
化身よ、この手に魔法を (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-24 02:49:57
連投申し訳ございません。
前回投稿の後、ぷー子氏(女史でしょうか?)の言葉の意図がわかったような気がしたので、書き込ませていただきます。

ぷ―子氏には、ぜひわかっていただきたいことがあります。
たとえ現代の通常医療で治せなかったり、完治困難な病気があったとしても、通常医療は患者の幸福を諦めないということです。
通常医療は世界中の医者や研究者の手によって常に進歩を重ねています。その結果、新しい治療法が見つかったり、今まで直せなかった病気が治せるようになることは稀ではありません。
たとえばAIDSがいい例でしょうか。AIDSは医者や研究者の努力の結果、感染者の寿命を飛躍的に伸ばしています。
通常医療は、また自らが完治させることのできない患者を放置するようなこともしません。
末期ガンの患者の生活の質を高めるための方法論は完成していますし、少しでも体への負担の少ない薬の開発も行われています。

…通常医療で根本的な解決がみれない状態は、不安かもしれません。せめて何か出来ることがほしい、その気持ちも理解できます。
しかし……それは医療とは異なります。
医療とは、「治療技術を用いて患者を治療すること」と手元の辞書にありました。
しかし、代替医療は現状において根拠がなく、故に治療技術と言い難いのです。
ぷー子氏が希望を求めているのはわかります。しかし、代替医療はそれに答えられない可能性のほうがずっと高いのです。そして、ぷー子氏の期待にこたえるべく頑張っている現代医療の従事者がいるのです。
それでは納得できないかもしれません。現代医療に見放されたら、あきらめるしかないのか?と。
しかし、約束します。
現代医療は、そう簡単にあなたを見放しません。
最後の最後まで、あなたを救うために最善を尽くせるよう努力する、その方法論として通常医療があるのです。
返信する
Unknown (プー子)
2010-04-24 07:35:45
代替医療だろうが、魔法だろうが、代替療法、民間療法、自然療法・・・、そういう呼称について関心ありません。どうも私たちの争点は「医療」の定義の違いのようです。頭の中がスッキリしました。ありがとうございました。長々とお邪魔しました。
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