完璧なる超~~久々の更新。
ヤメたのか?と思った人もいたかも知れない。
自分でもそう思っていた
理由としては、3~6月くらいまでホント忙しかった。
まるでブログをやるなんて余裕がなかった。
7月からはようやく落ち着いて、
個人的なイベントも沢山あってネタはたまっていたんだけど、
ブログをする意味を見出せなくなってしまっていた。
有名人なら、そのプライベートやパーソナリティに興味のあるファンが多いわけだから、
そういうコミュニケーションツールとして意味のあることだろう。
しかし、一般人のブログって…。
自分は仕事で文章を書いたりすることもあるので、
書き癖をつけるというか、そんなこともあって始めたんだけど、
それをわざわざ公開するっていうのは、
結局ただの自己満足になっちゃってるんだろうかなあ、なんて考えたり…。
このブランクの勢い(?)でヤメようか、とも考えたんだけど、
昨夜(15日)のNHKの「非核三原則」の是非を問う討論番組を見てたら、
なんかどうしても一筆書きたくなってしまって、
「じゃあ再開するべか
」となった次第です。
長い期間全く更新していないのに何故か毎日アクセスがあることを考えると、
きっと何かの検索に引っかかって辿り着いたのだろうと思われるが、
たとえそれが有名人ではない一般の一個人のブログ(意見)だとしても、
結局その1つ1つの集合が社会なわけで、
その1つ1つの声が社会の流れを作っていくのかなあ
、なんて考えます。
政治であったり、文化であったり、生活であったり、
こういう考えの人間もいるんだよ、というのを個々それぞれが発表して、
個々それぞれが、つまり“沢山の個人”が知ることができれば、
=(イコール)社会が個人を知ることになる、と。
それならば、一般人のブログも意味を為すのかなあ、なんて考えました。
と、再開の前置きが長くなったところで、本編を。
ボクの考えは『何があろうとも核は持たず』だが、
核を持つべきと考える人の大多数は、
「戦争は良くない。被爆の悲惨さも知っている。戦争のない、核のない社会が“理想”。
でも、“現実”はそういうわけにはいかない。
自国を自分で守れる自立した国家でなくてはならないし、
“現実”の世界は核抑止力で成り立っている。」というのが理由だと思う。
もちろん、自国を自分で守れる自立した国家であるべきと思う。
それでもボクは、平和を目指す為には“理想”を貫かなくてはいけない。
唯一の被爆国である日本だからこそ、説得力を持って、
核廃絶に向けてリーダーシップを取らなくてはいけない、と思っている。
だが、そう言うと決まって核推進派の人は、
「“現実”を見ていない。平和ボケしちゃって甘っちょろい。
“理想”ばかり追いかけてぶち込まれたらどうすんだ」みたいなことを言う。
結局、核を持たないのが“理想”、核を持つのが“現実的”
というような“理想”と“現実”の狭間に揺れる構図があるように感じていた。
今回のNHKの放送を見るまでは。
放送の中で、核不要派の女の子の発言を聞いて、はたと気づかされた。
その内容は「核を持たないことの方が“現実的”」だということ。
確かに。
北朝鮮が核実験をしたのしないのの騒動ですら、
経済制裁をするしないと敏感に反応せざるを得ないのだから、
日本が核を持つとなったら、周りはビビって沈黙する?
否、確実に周辺諸国と余計な摩擦を生むし、むしろよりターゲットになるだろう。
相手に打たせる口実を作らせるな
抑止どころか逆効果なのではないか、という考え方だ。
これまで“現実”をとらえた意見とされていた「核を持つ」という選択肢は、
実は「核を持つ=他国と対等」という“幻想”をただ追ってるだけのように思った。
ボクの中ではその放送を見て、『核はNO!』の意見は変わらないが、
その理由(考え方)が、
核を持たないのが“理想”であり“現実的”、核を持つのは“幻想”に大きく変わった。
もちろん、物理的に撃たれたミサイルを撃ち落とすような国防は必要かとも思う。
でも、基本理念というか、基本的な考え方として、
政治力(外交)が抑止力でなくてはいけない。
過去の反省をすれば、
(戦争には様々な要因があるので一概に善悪だけで言い切れない部分があるとは思うが、
加害側被害側両方の悲しき経験という意味で)、
自ずと「ナイフは持たない」という結論に達するのが普通ではないだろうか。
そこで学んだことが「もっと大きいナイフを持つ」だなんて、通用しないでしょう。
まるで悪者のセリフのよう。
むしろ、その経験(敗戦や被爆)を活かして、
「まるごしの相手に、ナイフを突きつけることは恥ずかしいことですよ」と声高にいえばいい。
平和の為にナイフを持つなんて実に矛盾
ナイフをちらつかせながら近寄ってくるヤツなんて嫌でしょう。
ナイフを持たないことで、本当の意味で誰とでも仲良くなれるはず。
そういう外交を目指してもらいたい。
その為に、まず世論が非核の方向であってほしい。