ディカプリオお味噌味

主に短編の小説を書く決意(ちょっとずつ)
あと映画の感想とかも書いてみる(たまに)

心の瞳⑤

2016-12-29 00:27:29 | 小説
 宍戸の家は日暮里駅最寄りの荒川区にあった。成子さんと結婚してすぐに買った14階建てのマンションにいまは1人で住んでいる。私も昔は年に1回は宍戸宅に招かれて来ていたが、成子さんが亡くなったころを最後に、最近はめっきり来ることがなかった。
 9階にある部屋のインターフォンを押すと、陳腐なチャイムが鳴った後、しばらく静寂が流れた。気配は感じなかったが、ガチャとロックが外れた音がし、ドアが開いた。
 私は絶句した。
 そこには憔悴しきった顔の宍戸がいた。頬は痩せこけ、落ち窪んだ眼窩は漆黒の翳をつくり、白髪の割合は明らかに以前会ったときより多かった。そして、目にはいつもの溌剌とした生気の光がなかった。
 私は驚愕という名の霊に憑りつかれ、頬から痙攣しそうになったので、それを口をきつく結んで何とか防いでみせた。そして、精一杯の声を振り絞った。
「宍戸……」
「入れ」
 ドアを閉めると、光が遮られ部屋の電気がついていないのがわかった。長い廊下を真っすぐ進み、リビングに出るとダイニングテーブルに腰掛けた。部屋の隅に置いてあるタンスの上には家族の写真がいくつも飾られている。どれもまだ成子さんが生きていたときの写真で、百合ちゃんも幼い。どの写真においても宍戸は一枚岩のような顔を弾かせている。
部屋のレイアウトは特に昔から変わっていないようだ。老体が一人暮らししている割には掃除も行き届いている。
 宍戸は麦茶か何かを注いだ湯飲み茶わんを私の前に置いた。
「すまんな」
「いや、よく来てくれた」
「話はすべて聞いている。お前の口からまた話を聞こうとは思っていない。ただ――――心配で、来た」
「ああ」
「百合ちゃんの怪我の具合は」
「悪くない。左目に大きな青痣は残っているが」
「今日もこれから病院に行くのか」
「ああ」
 百合ちゃんは家の近くの市民病院に入院している。顔に受けた怪我は入院するまでもないが、それ以上に精神的ダメージが大きい。
「私も時間ができ次第いかせてもらう」
「ああ」
 出してもらった茶を啜ったが、心なしか味がせず、飲み込んでもすぐに喉が渇きを訴えた。私は宍戸家が受けた傷を抱えきれていない。同情はいくらでもできる。犯人を捜し出すために力は注ぎ込める。だが、それ以上はできない。人間は自分自身が生き死にする生き物であることを知っているのに、その切っても切り離すことのできない死というものを「いつかは誰もが死ぬ」という一言で片づけられない。誰かが死に、その死に苦しんでいる人に対して、人間はどうしてこれほどまで無力なのだろう。いつか傷が癒えるための、忘れるための時間に頼るしかないのか。
「なあ、治郎」
 まるで部屋に存在する翳がすべて宍戸の顔面に集中しているかと錯覚してしまうほど、宍戸の岩のような顔は暗渠そのものだった。
「正直にいっていいか」
「ああ、なんだ」
「俺は……殺されたのが百合じゃなくて、心から安心した自分がいた……」
 途端に宍戸はその暗渠を内側から粉砕するかのように顔を皺くちゃに歪め、滂沱の涙を流し始めた。大粒の涙は顔の皺という皺を伝わって老友の顔を濡らし、私の心をも濡らし始めた。
「すまん、すまん……」
「謝るやつがあるか莫迦野郎……もし俺が同じ立場でも、きっとそう思うさ……」
 宍戸は結局声を上げて泣き始めた。その嗚咽は最愛の妻を亡くしたときの宍戸を彷彿とさせた。この頑固オヤジが命より大切な一人娘を渡すことを認めた婿が殺されたのだ。一般的に、大切な人の死ほど人間にとって悲しいことはないのかもしれない。それも準備期間を与えぬ突発的な事故死はなおさらだ。あと余命いくらかですと具体的な数値が教えられていれば、人間弱しといえども、心の準備ができるというものだ。
 いや、それは嘘かもしれない。少なくとも妙美の命が幾ばくと知ったとき、私は時が経つのが辛くて苦しくてたまらなかった。死ぬ日が近づけば近づくほど、恐怖は増幅し、不安で仕方がなかった。
では、実際この世から妻が去ったとき、何が自分を支えてくれたか。
 娘だ。
雅美がいたから、私は今日まで生きてくることができた。
 宍戸も同じだろう。
 だから宍戸は大丈夫だ。まだ娘が生きている。いつの日か、この悲惨な運命を乗り越える日がくるだろう。それまでこの旧友を支えるのが私の責務だ。
 そして、この苦しみを与えた犯人を逮捕するのが、私の仕事だ。

コメントを投稿