桜乃記-さくらのき-

九州に住む、しがない若手サラリーマンが書きつらねた現代の随筆。
日本名刺研究会(会員数2名)の代表でもあります。

おばあちゃんの満州記①~大陸の花嫁~

2009-01-04 | おばあちゃんの満州記
祖母の泰子(やすこ)は戦中満州に渡り、数々の苦労をして日本に帰り着きました。
そんな祖母の体験を「後世に是非とも伝えなければ」という思いから、筆を執りました。
この話はすべて、祖母から聞いたものです。
祖母と祖父、満州での激動の一年間を描いていこうと思います。
話は全四話、週一回のペースでアップしてゆきます。


まず二人の経歴を簡単に紹介しておきましょう。

祖母泰子は広島の女学校(4年制)を経て、女子専門学校別科(1年制)を卒業しました。
この女子専門学校別科というのは花嫁修業をするところで、料理、縫い物、栄養学、お花、お茶など一通り習ったと言います。
その花嫁修行を終えた後、現代で言えば高校三年生の時から地元の信用組合(現広島信用金庫)で働き始めました。
信用組合では外回りの集金作業に従事していたのだが、当時女性の外周り勤務者は皆無で、泰子は草分け的存在でした。

対して私の祖父寛二は、広島県立広島第一中学校(現国泰寺高校)、広島高等工業学校(当時三年制、現広島大学工学部)を経て、 満州炭鉱に入社しました。
当時は石油でなく、石炭が主力のエネルギー源だったのです。
その満州で日夜働いていた寛二のもとにも赤紙が届き、彼は軍へ身を投じることとなるのです。



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泰子に縁談が舞い込んだのは、敗色濃くなる昭和19年暮れの事だった。

寛二は関東軍549部隊の将校で、満州の奉天(現在の瀋陽)で軍務に服していた。
このたび激化する南方戦線へ兵を配置転換するため、配下の兵卒を引きつれ日本に帰国していたのだった。

そんな寛二の元へ、奉天の上官から電報が送られてきた。
「サイタイスベシ」
妻帯しろという上官の指令は絶対である。
早速嫁探しに奔走することになるのだが、そこで白羽の矢が立ったのが寛二の遠縁にあたる泰子だった。
親戚筋のため、お互い安心感もある。
実家同士も近い。
とんとん拍子に話は進み、12月28日のお見合いを経て、縁談は正式に決まった。
当時は結婚もお見合いばかりで,恋愛結婚はほとんど皆無の時代である。

式は翌昭和20年、すなわち終戦の年の1月1日に決定した。
満年齢で寛二26歳、泰子18歳の時である。
新郎は着古した軍服、新婦は着物のいでたちで、式は寛二宅にて厳かに執り行われた。
まさに矢継ぎ早である。

正月3日、寛二は満州へと立った。
泰子は嫁入り準備を整えると、寛二の兄嫁とともに、約一ヵ月後広島を後にした。
寛二の兄は北京の華北電電の局長だったので、兄嫁も同行したのである。

下関から関釜連絡船の一等船室に乗り、釜山へ向かう。
一等船室に乗船した理由は、万が一魚雷を食らっても一等船室の乗客から先に避難出来るからであった。
現に、日本海に浮かぶ無数の魚雷により沈没した船もあった。

だが幸運にも泰子らの船は韓国の釜山に渡ることが出来、そこからは鉄道で奉天へ向かった。


2月4日、泰子の奉天での生活がスタートしたのである。

満州の奉天は零下20度。
外で濡れたタオルを一振りすれば、瞬時に凍るという極寒の世界だ。

住居の暖房はペーチカというもので、石炭を入れて室内を暖めるものであった。
窓は2層になっており、寒気が入らないようになっている。
トイレは俗に言うボットン便所で、うんこが溜まってきたら、凍ったうんこをつるはしで壊してかき出す必要があった。

風呂にいたっては木で作られており、蛇口からの水が凍りつき、浴槽に山のかたちの氷が張っていた。
この氷もつるはしで壊し、かき出すのだ。

「新婚」という甘い響きとは名ばかりの、つらく苦しい生活の始まりであった。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
貴重な体験談ですね。 (古本屋の常連)
2011-09-02 00:05:29
はじめまして。

HPみに・ミーの部屋管理人こと、古本屋の常連です。

このたび、満洲記を拝見いたしました。
こうした体験談を書き残すことは大変貴重です。
本当に、当時、どんな生き様であったか、ほんの半世紀とちょっと前なのに判らなくなってきているなと感じます。

お婆様のご苦労された様子、そして働いて働いて生きていく、という日本人の姿と気迫を感じました。

ところで奉天という町は、日本人に馴染みが深かったのでしょう。
実は当方HPで満州写真館というコーナーを設けております。で、奉天の写真が最も多く集まりました。
こちら。
http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html
お婆様の懐かしい風景が写っていれば、と期待する次第です。
Unknown (ブログ主)
2011-10-02 08:36:12
コメント、ありがとうございます。
いろいろ写真ありますね。
これら戦時中の話や写真は、きちんと次世代に受け継いでいかなければと思います。

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