1902年1月23日、青森歩兵連隊第5連隊第2大隊の隊長山口銀少佐以下211名は、耐寒
訓練を目的として、八甲田山雪中行軍に出発したが遭難し、199名が死亡するという悲劇
に見舞われたのである。
【八甲田山遭難時の記録写真】






1910年の本日、今度は逗子開成中学の生徒が乗ったボートが七里が浜で遭難した。教師
を含め13人が死亡してしまった悲劇的事故であった。後に鎌倉女学校教諭の三角錫子の作
詞で「真白き富士の嶺」の『七里ヶ浜の哀歌』が作られ、多くの涙を誘った。
【稲村ケ崎にある七里ヶ浜遭難の慰霊碑と像】

