ウロ

木の洞に頭突っ込み独り言

「悪認定」のハードルを下げるということは

2015年03月31日 | 日記
一向に読み終わらない「死刑のある国ニッポン」である。

死刑の廃止・在置をめぐっての討論は死刑制度だけを論じているわけではない。
それぞれの意識や知識の披露合戦になる。

キングブラッドリィまで出て来たのには笑えた。
鋼の錬金術師(まんが・アニメ)の登場人物である。
最初反発を覚えた森氏(在置派)だが、これで印象が変わるから私も単純だわ。

は、さておき。

「精神疾患を例に挙げれば 新しい病名をつけることで その症状が増えるという現象で
暴力も同じです」150頁

「体感治安悪化の共通認識の根っこ」のひとつが「誰かが何かのために意図的に煽っている事」167頁
(実際には犯罪は減っているのに治安が悪くなっていると認識される)

いろんな意味で子どもたちを「無菌状態」に置こうとしている気がする。
「病名」を増やして、効く薬を撒く。「暴力」の定義を広げて、子どもたちを隔離する。
10歳までに肌で学んでおかなければならない事から、子どもたちを守ったつもりで
結果問題の先送りにしているんじゃないか。
子どもの頃なら小さな暴力、些細な犯罪で済むものを、それを抑えつけるから
学習もしないし、自制力もつかない。

性善説の枠に子どもを入れたがるのは、実は性善説を信じていないからじゃないか。
今悪い事をしても、自分で気づき反省し改めるだろうと待つ事が出来ない。
子どもに限らず、人間の自浄能力を認めていない。

……うん? そうなると死刑は廃止すべき方向に行くんじゃないか 自分。


犯罪発生率が低い日本で、死刑制度が廃止されないのはおかしいとあるが
低いからこその特異性もある。それだけ殺人が特別な行為なのだ。

そのうえ更にハードルを引き下げる(体感治安悪化を煽る)意味はなんだろう。
結果厳罰化が進み、死刑廃止の声は抑えられる。
国民の6割だか8割は本当に死刑存続を願っているのだろうか?
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俺 頭いい(と言われた)んだ

2015年03月30日 | 日記
実家行。
息子はお疲れ+やる事山積 で留守番。
娘は迷っていたが、連れて行く。

土曜日法事だったらしく、和室に式服が散らかっていた。
これはクリーニングに出せ という事なんだろうか。

旦那をつついて訊いてもらう。

旦那は一を聞いて十を察する人間ではない。
だが父はこれまで不機嫌で家族を従わせてきた人だから
言葉できちんと伝える習慣が身についていない。
この二人のすれ違いっぷりは見ていて可笑しい。

旦那は「クリーニングに(は)出さなくていいみたいだぞ」と戻ってくる。
「強引に着ようとしてどうとか言っていたでしょう。結果何がどうなったか確かめてよ」
と話を最後まで聞いて来るように追い返す。

強引に袖を通そうとして裏地を破ってしまった という事である。
後から繕えるようにそっと着直してくれればいいものを
短気をおこして裏地を破り取ってしまったのだ。
こうなったら素人にどうにかできる問題じゃない。

買い直そうと言っても「もう着ない(その前に死ぬ)」と言うだろう。
お前らでなんとかしてくれと言いたいのだろうが
破れたのは裏地だけだから、あと数回はだましだましでも着られるだろう。

ずっしりと重いその式服は、洋装店主だった伯父の手によるもの。
仕立てはいいが、何十年前のものか分からない。
表地はてかりつつも何とか持ちこたえてきたものの、裏地は力尽きのであろう。
私の30年も相当と言われたが
立場の違い(零細とはいえ元社長。兄弟5人の頭。などなど)を考えたら
その着用回数は比較にならず、普通ならとっくに買い換えられている筈である。
両親の怠慢を私が引き受けなければならない義理はない。

しかもあてつけがましく、私が入る和室に投げ出してあったのだ。

知らん顔をしていたら、ずっとため息をついている。
旦那は「余程昨日(の法事で)疲れたんだなあ」と言う。
こいつが我が一族(私を含むという事だ)の「察して光線」を感じる日は恐らく来ない。


刺身と生ガキとあさりの塩焼きと唐揚げとキスの天ぷらを食べ
「最近食後に甘いものが食べたくなるのよね」とクリームコーヒーを飲み

註・名古屋のコメダのクリームコーヒー(コーヒーフロート)のクリームは大量である。

昼寝から起きて「お腹が痛い」と言い出した。娘である。
夕方約束がある。慌てて百草丸(しかない)を飲ませ湯たんぽで温めさせた。
何度かトイレに行く。
「困ったね……」と心配したら、「これじゃ 食べられない」と言う。
……まだ食べる事を考えるか こいつは。それ以前に若い娘がトイレ通いじゃ恥ずかしいだろ。

幹事だから行かなくてはと、カイロを貼り付けて出て行った。
今朝「どうだったの」と訊いたら、「あれきり止まった」と言う。「なんだったんだろうね」
……そりゃあんた 食べ過ぎ だろ。


息子は今日もスーツ。
ネクタイもひとりで完璧(かどうか分からんが)に結べるようになった。
「俺だって学習するんだ」 「うん」 「俺 店長にだって頭いいと思われてるんだ」 
コメントに困っていたら
「違う 頭いいって言われた んだ」と言い直す。「飲みこみが早いって」
「確かにあんたは基本的には頭悪くない。(高校教師の)娘よりいい」
そして旦那(父親)よりずっといい。

飲みこみも察しも。

それを分かってくれる企業があるといい。
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自己都合認識処理能力

2015年03月29日 | 日記
と名付けた。

娘 のもつ能力の事である。
可動式ブリンカー でもいい。
特殊濾過フィルター とか。

バーキンバッグ発言の男友達が、昨日6回目の破局を迎えたらしい。
6人目の彼女と聞いて、彼がバーキンを知っていたのも納得できた。
娘は「けけっ ざまあみろ」である。なぜなら
彼はスペイン語課程のくせに娘より英語の成績がいいからである。

「言語センスがいいんじゃない」と言ったら「絶対いい」と言う。「私より断然いい」
「あんた 日本語のセンスもないもんね」
「あいつがいいとも思わん」
「いやいや あんた 自分が理解不能の言葉を自分の認識範囲で処理しようとするから
彼が難しい言い回しや気の利いた引用していても気づかないんだよ」
「……」
「現に あんた 私のメール無視したよね」

娘が『夕食8時半でいいかな』と送って来たので(六時半を八時に遅らせ 更にである)
『大中』と返信したのだ。
似たようなシチェーションで息子にも同じ返事をした事がある。
息子は律儀に『どういう意味ですか』と訊いてきたのに、娘はそれきりであった。

「どうせ あんた 大丈夫の打ち間違えだろうと思ったんでしょう」
「うん」

正常性バイアスが極端に強い(強いという言い方でいいのだろうか)んだ。


註・「大中」とは。
(娘より)聡明な読者の方にはお分かりだろうが

大中→小 がない→しょうがねえ である。

他に「わさびならあるけど(しょうがない)」バージョンもある(まだ使っていないが)。


「死刑のある国ニッポン」 面白いんだが、なぜかちっとも進まない。

死刑在置の是非はおいといて。
死刑判決濃厚な裁判への意識は変わった。
これまで「意味あるのか? 死刑に決まってるじゃん」と思っていた。
「さっさと殺してしまえばいいのに」

だがなぜ被告が犯罪に至ったか、読み解かなくては社会的再犯が防げない。
遺族もまた、処罰感情とは別に、知りたいという欲求を持っている。
正常な精神状態に引き戻し、多くを語らせる事こそが、一番の処罰なのかも知れない。
そうでなければ死刑の意味もない。

最初むかついた森さんであるが、時々はいいことを言う。
或いは対談を進めるうちに構えていたものが解けてきたのか。

死刑廃止論者である政治家の亀井静香氏が、警察官僚出身だとは知らなかった。
それゆえ「冤罪事件がいかに多いか知っている」よって「死刑は廃止した方がいい」。
冤罪の存在は死刑問答に欠かせないけれど。
そんなに「多い」のか?
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バーキン は何の略?

2015年03月28日 | 日記
吐き出してすっきりしたのか
新しい服を買い、入学式に着るんだと衣装合わせをする娘。
初めての美容院でパーマをかけてきた(染めるんじゃないかと心配したが、しなかった)。

その娘が男友達とのやりとりで
娘が「何かおごってよ」みたいな事を言ったのか
相手は「バーキンのバッグぐらいなら」と返してきた。

ウケを狙った冗談であるが
エルメスを知らない娘は「バーキン? バーガーキングの略?」と思い
「バーガーキングって鞄なんか出してるんだ」と言った。

……知らないまでは許すが、そこでバーガーキングが出てくるってどうよ。


昨日息子は、就活→カラオケ→送別会(前のバイト先の)であった。
送別会は早く帰りたいと言いながら出て行った。
今朝先に起きた娘が訊くから「8時20分に起きるって言ってた」と答えたら
「昨日あんな遅かったのに」と言う。「何時?」 「知らない」

……

「あんた やっぱり お父さんに似てきたわ」
「えっ」
「知らないのにどうして『あんな』って言えるの」



「死刑のある国ニッポン」で森達也(廃止側)がやたら岡崎死刑囚の名前を出す。
弁護士一家殺害の実行犯である。確定前に面会したら、普通の人だったと。
普通の人を死刑にする必要があるのか、という主張である。

ここだけ読むと、岡崎死刑囚は「悪い人じゃない」と感じる。私は感じた。
今朝パソコン脇に置いてある、雑誌の切り抜きをめくったら岡崎の名前が飛び込んできた。
何度も読んだ記事ではあるが、私は人名を覚えるという事をしない(出来ない)。
これはあの岡崎死刑囚か? そう あの弁護士殺害の、である。
内容は覚えていた。

再審請求のための提出書類を、三通必要なところ、「わざと」一通ずつ出す。
そうすると裁判所から「足りません」と通知が来る。それを無視する。また催促が来る。
それも無視する。強い勧告が来て、やっと二通目を出す。

再審請求中は死刑は(原則)執行されない。
判決後半年以内に執行、という規則の半年にもカウントされない。
死刑執行を送らせるための手段でもあるが、
子どもの命すら奪った男が、自分の命の為にならここまでやるのだ。

森達也はこの事実を知っているのだろうか? この人格は承知の上なのだろうか?
命乞いする相手を殺してはいけないというのも死刑廃止論のうちだという事なのか。

「命の灯を消さないで」の中で、死刑囚が作業によって得る収入の事に触れていた。
『ある人の回答欄には 「ブロック組立一個15銭」という書き込みがあった』
一日作業して3000個仕上げても「日収」は450円に満たない。

だがそこには懲役刑の場合の報酬は書かれていない。
上記の雑誌の切り抜きには「懲役の場合時給5円から10円で始まる」とある。
450円どころか100円である。

尤もこれは死刑廃止存続の問題ではなく、死刑囚の待遇の話であるが
知りたいのは正確な情報である。比較である。
都合の悪い箇所を隠されると、他の事まで疑いたくなる。


読み終わったら考えをまとめようと思ったが、まだ足りないと気づく。
死刑廃止側の言葉で一番胸に染み込んだのは「弟を殺した彼と、僕」の中の記述である。
自分に都合にいい数字しか見ようとしない学識者や議員の言葉は胸にも届かない。
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器の大きさってさあ……

2015年03月27日 | 日記
人事が気に入らなくて娘が怒っている。

娘が部屋に引き上げた後、息子が
「そんな甘やかされて育ったわけじゃないのに」と言う。
はあ? 「誰に言っているの」
「え」
「甘やかしたの あんただ」
「え 俺」
「Y (姉と妹がいる・息子の同級生)だって T(姉が二人いる)だって反撃したってよ。
姉ちゃんに反撃してないの あんただけじゃん! だから あいつは世間を舐めたままなんだ」
狼狽える息子。「だって……そんな ……だって」

不本意とか理不尽とか。
耐えたり受け容れたりする事を、息子は姉の横暴から学んだ。
だが娘にそれを教える人はいなかった。
私は理詰めに娘を押さえつけたので、娘は「理不尽」に苦しめられた事はあまりない(筈だ)。
細かいルールがあった我が家は結構窮屈ではあったと思うが、
鬱憤は弟で晴らしてきた。
ここで息子が反撃していれば、
娘も「円滑に回すには理屈抜きで耐えなければならない時もある」と気づいただろうに
その機会はなかった。
(これを棚上げ理論という)(甘やかしてはいないが詰めを誤ったのは事実)


娘だって分かってはいるのである。分かってはいるけれど、素直に呑み込めない。
今朝気が済むまで教頭に食い下がり、その後自分なりに妥協点と突破口を模索していた。

普通の会社なら入社一年二年で直面する人事というのはそんなにはないと思うが(異動とか昇進とか)
教員はひとりひとりが責任者的立場だから、一年ごとのステップがはっきりとしている。
しかも娘は二年後まで視野に入れようとするからややこしい。

こんな子に育てた覚えは!

……あるような ないような。


「ほんとにあいつは」と言いながら
今夜はカラオケだから発声練習しておきたいのにトイレで歌う事も出来ず
でもまあそれも仕方ないかと小声でみすちるを口ずさみ
ネクタイを結んでいる息子。

あれ(娘)もこれも生まれつきなんだよなあ。


「死刑廃止論」を読んでいて
途中で「シングルマザーのようなものまで現れてくる」という文章に行き当たり
なんだこの差別的発言はと、問題の主旨と違うのだから読み流せばいいのだが
著者の人格判断から外す事も出来ず、萎えてしまった。

気分を変えようと、存続VS廃止で書かれている(筈)「死刑のある国ニッポン」を開いたが
廃止派の森達也の口上がどうにも癇に障る。

自分に賛同しない者は全否定か?
馬鹿じゃねえの(ぼそ)。

死刑を廃止するのならば性犯罪者を仮釈放する時は去勢してからにしてよね。
それは死刑にも相当する(取り返しがつかない)と言うのなら
抑制剤が定期的に投与されるように薬剤とポンプを手術で埋め込むか、
性欲を感じたら締め付けるように頭に輪っかはめてよね。

無期懲役で仮釈放になった男が、
身元引受人になってくれた血縁でもない宗教者の奥さんと娘を殺して犯して
死刑判決を受けたって話。

「死刑廃止論」はまだ四分の三残ってる。
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自殺と尊厳死

2015年03月26日 | 日記
以前に、アメリカで尊厳死と称して医師による自殺ほう助を受けた女性が記事になった。

アメリカはキリスト教国なのにこういう事を許すんだと疑問に思ったが
キリスト教国だからこそ「尊厳死」にしなければならないのだと気づいた。
自殺では認められないが、尊厳死という扱いになれば容認される。

私は自殺も尊厳死も全否定するつもりはない。どちらも人間の権利だと思う。
だがそれと「尊厳死法」の制定は別である。

自殺は自殺として死ぬがよろしい。
尊厳死は、そのケースごとに苦悩して決めるがよろしい。
残った寿命を個人の意思で縮めるという事は
場合によって必要ではあるが、簡単であってはいけないと思う。

その責任はちゃんと自覚して背負って、死んでいくべきである。

一度法律にしてしまうと、「○○だから」で終わってしまう。
その意味も重みも考えず、「だからいいんだ」になってしまう。
それが怖い。


比較するには世俗的過ぎる話だが
以前まで名古屋では「革製品」は「燃えないゴミ」だった。
それが今は「燃えるゴミ」である。プラスチック製品も同様である。
改正当初、それらの製品は分別上「燃える」だけのものであったのに
今では普段の目にも「燃える」ものとして映る。
手にした時の感触までが違うのである。
革製品は存在そのものが軽く、プラスティックは無機物が有機物になったかのように感じられる。

何も変わっていない。
高熱で焼却するからいいんだという説明はあったが
切り換えの時に焼却炉が新しくなったわけでもあるまい。
それらの商品の品質が変わったわけでも勿論ない。

なのに「燃えるゴミで出していいよ」と言われただけで
それらは「燃えるもの」に存在を変えた。

自治体がそう決めたのは恐らくはゴミの処理に困ったからだろう。
鉄まで燃えるとは言わないが、これくらいなら燃やせるさと
本当はあんまり燃やさない方がいいのかも知れないが、
埋めるところがないんだから仕方ない、ぐらいのものかも知れなくても
「燃えるゴミ」と言われれば
それだけで「燃やしていい」事になってしまう。


尊厳死も同じだ。
法律で「死にたい人の死を認めてもいい」となれば
命そのものの在り方まで変わってしまうんじゃないか。
それが「医療費を抑えたい」という国の腹であったとしても
「法律でいいって言うんだからいいんじゃね?」になってしまう。
それが怖い。

尊厳死は個々で選び、決めるものであって欲しい。

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これだから ひっきーは(笑)

2015年03月26日 | 日記
世間は既に「夏物入荷!」だった。

昨日意を決して(決さなくても……)ショッピングに出たのだが
息子のTシャツを探して「お なかなか」と眺めていたらば
店員さんが「広げて見て下さいねー」と声をかけてきた。
「入ったばっかりの半袖ですー」

えっ。

「半袖なの じゃ 長袖はこっち?」「いや それも……」

他の店とか長袖がなかったわけじゃないが、いいと思うのは半袖ばかりで
長袖は無難な色か、変なプリントしかない。
「半額!」と喜んで近づいたら「半袖」の読み間違いとか。

まだみんなコート着ているのに、店頭だけ春どころか夏とはいかに。
さきどりにも限度があると思うが、いつの間にかそういう事になっているのだろう。

結局買ったのは410円の菜箸。
無地に近い、織柄の入った息子のシャツ2000円也。
パン1000円也。

反動で薬局でどか買い。11000円也。


3日連続1日就活の息子は、1日目にしてぐったりであった。
夜リビングに転がり「お母さん(お母さんである) 今 暇?」と訊く。
「むちゃんこ暇なわけじゃない」
「俺の部屋からパソコン持って来てくれん?」
それを聞いていた娘が「それくらい自分でやれ」。
お前にだけは言われたくないな!と腹の底で唸りながら息子の部屋へ行く。

その後息子が「お母さん(お母さんである) 使っていい?」と訊いた。
「何?」
「プリンタの電源入れてきて」
「そのくらい自分でやれ」と娘が言った。
「お前に言う権利があるか」と今度は口に出して言う。
息子は黙って転がって、尻尾をぱたんぱたんと床に打ち付けている(イメージ映像)。


一人暮らしで就活している学生たちは
疲れ帰ってもご飯はなく、自分でスーツの管理をし
自分でカッターをクリーニングに持って行くか、洗ってアイロンをかけるかするんだ。
なんかすごいなあとしみじ思う。我が家の子は甘やかされているよな。

最初の頃息子は何も話さなかったから、決まるまで黙っているんだと思ったが、
それはただ話すような事がなかったからで(合同説明会とか講習とか)
個別が始まったら具体的企業名を挙げてあれこれ話す。それはそれで動揺を誘う。

息子にとってはどれも同じ「小売店業」なんだろうが
業種及び企業イメージと言うものがそれぞれにあって
やっぱなんとなく都会的印象の店舗を母は好んだりするものではないだろうか。
……いや安定も大事だけどさ。

新聞に、第一志望の前に経験を積んでおいた方がいいとあった。
それは正論ではあるが、それは擦れるという事ではないのかとも思う。
スーツがくたびれていくように、人間もよれて柔らかくなり、
それはそれでいいんだろうが、フレッシュではなくなる。

スーツ業界に始まり、各種交通機関やホテル業や、出版社、写真館、カウンセラーなど
「就活業界」の活性化のために煽っている部分もあるような気がする。
少なくとも靴下のワンポイントで就職が駄目になるなんて ないだろう。

なんにせよ人生の関門のひとつである。がんばるしかないんだ。
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春は落ち込みのおいしい季節です

2015年03月25日 | 日記
はっと気づけば3月である。
私は2月から5月まで落ち込みやすくなる。
ああ だからか と今更だが、今思った。

だから思考がぐるぐるするのも仕方ないんだ。
やることなすこと裏目に出ても仕方ないんだ。
他人の言葉にいちいち棘を感じるのも仕方のない事なんだ。

このところ、息子が午前就活というパターンが続いている。
疲れて帰ってくるラブリー(でもないが)息子のために昼食を用意せねばならないので
ショッピングもままならなかった(というのは言い訳で購買欲の神様が降りてこないだけだが)。

息子のよれよれのTシャツを洗うのにも飽き、繕っているうちに物悲しくなってきて
ここは一発奮発して買ってやろうかと(基本衣類は自力調達である)思ったら
こういう時だけ以心伝心になるのか、息子が「Vネックがいいなあ」と言った。

なんでVネックと考えたら、おそらくはさくらいさんが似合うからなんじゃないかと。
実際に似合っているかどうかまでは知らんが。イメージはVネック。だから。

……おえ。

それでもまあついでに自分のものも見てくればいいだけの話だし?
違った 自分のものを見るついでに息子のも探すんだった。男物を見るのはわりと好き。
冬物のバーゲンには間に合わなかったが
今買わないと長袖のTシャツが買えない。
秋物が出る頃はまだ暑くて動けないのだ 私は。動き始めたらもう冬物なんだ。

今日から三日間息子は一日就活である。はしご就活である。
だから出かけよう! と思った矢先、娘が「のどが痛い」と言い出した。
旦那も「のどが痛い」と言う。
疲れて拾ったら嫌だなあ……

ほんと 思うようにいかない春である。


なんてのんきに書いているけれど
実際には一日中ため息をついている。
息子にまで「幸せが逃げるよ」と言われた。けっ。

そんな私の右側には、「死刑廃止論 第六版」があり
左側には「大阪拘置所」がある。
そんなもん読んでるでいかんのだわと突っ込んだ人、
問題を遠くに置いた方が身近な問題から解放される事もあるんだわ と返そう。


うーん なんか風がすごいんですが。
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死刑囚と信仰

2015年03月24日 | 日記
「命の灯を消さないで」 死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90編

私は死刑存続派で、
だから逆の視点を求めて、この本を借りた。

だが、もともとの死刑廃止論者以外の者で、
この本を読んで「死刑反対」と思う人がいるかどうか、疑問である。

「ああ 死なせたくない」という死刑囚は二人か三人か。
あとはひたすら無実を訴えるか、待遇に苦情を並べるか、或いは電波を受けているか。
無実といっても冤罪ばかりではなく、罪状が間違っているという、
たとえば「傷害致死」であって「殺人の意思はなかった」とか、
瀕死の状態で置き去りにした被害者が火事によって死亡したのも、
放火したわけではないので「殺人」ではないから「無実」だとか、
主犯は他にいて自分ではないとか、そういう内容で
そういった訴えを長々と書き連ね、結果被害者を死に至らしめた事への反省は一行もない。

「獄中生活で苦しいこと つらいこと」の回答に、
「被害者のことを思うとき」は2しかなかった(38中)。

読んでいるうちに腹が立ち、そのうちに疲れてしまう。

ここで言いたいのは
「死刑廃止」が目的ならば、この本は出版すべきじゃなかったのではないか
という事である。
死刑を廃止したいのか、死刑廃止の運動がしたいのか。

なんのために死刑を廃止したいのか。
死刑囚を救うためなのか。社会的意義なのか。
国際社会から圧力をかけられているからなのか。

死刑囚の人権を云々するならば、まずやれる事から始めるべきだと思う。
死刑制度廃止という抜本的、かつ『華々しい』(ここ大事)成果を求めるより
或いは同時進行で、他にすべき事があるんじゃないか。

この本を読んでいて気になったのは、
以前に読んだ死刑囚にまつわる書籍には書かれていた「信仰」が
殆ど出てこないという事である。

手元にある何冊かと、
今回一緒に借りてきた「鉄窓の花びら」や「弟を殺した彼と 僕」には
どれも仏教なりキリスト教なりの宗教者と関わる囚人が描かれていた。
だが、この「命の灯を消さないで(2009年)」や、
スクラップしてあった雑誌記事(2012~3年)からは
信仰の影響はあまり感じられない。

アンケート結果によると半数が教誨を受けているが、残りは受けていない。
スクラップ記事では「教誨は月に1・2度」とある。
これでは信仰による救いはあまり望めない。

なぜそんな事になってしまったのだろう。

どこで読んだか覚えていないが、
物品を宗教者に要求する死刑囚もいるとあった。
宗教者から差し入れが貰える、文通相手を紹介される、
という目的で教誨を受ける者がいるという事だ。

死刑囚の意識の変化が先か、宗教者の指導力の低下が先か、
或いは教誨の機会を不充分にした制度が先か。

廃止できないのなら、せめて死刑囚を心穏やかに死なせてやるべきなのではないか。
その一番の近道が信仰だと思うのだが、どうだろう。

被害者の冥福も祈れない死刑囚を援けたいとも思わないし。


ところで。
疑問に思ったのだが
洗礼を受けた死刑囚は、罪を悔いて、その魂は救われるが
洗礼を受けずに殺された被害者の魂はどうなるのだろう。
勿論お葬式はしているだろうから、浄土には行ける(事になっている)のだが
クリスチャンは浄土を信じていないわけだから
結果的には(死刑囚の中では)自分だけが救われる事にはなるまいか。
これが仏教だと、既に死んでしまった人も救う(成仏させる)事が出来るんだろうけど。
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日和るには早いぞ息子

2015年03月23日 | 日記
就活息子の第一志望は
コンビニを含む小売業を営んでいる大手。
会社説明会のため東京まで行かなくてはならない。
その後の試験や面接も東京になるのだろうか?

また別の企業の説明会は大阪である。

どこかの企業で
「転勤はありません。自宅から200キロ圏内の勤務となります」
という説明を受けて、「200キロって 自宅通勤の距離じゃないよな」と言う。

しかし息子、就職したら(出来たら)一人暮らしをするんだと言っていた。
だから自宅と勤務地の距離は関係ないと思うんだが、一人暮らしはあくまで
「好きな時間に」帰って風呂に入れるというためだけの事か?

先日第一関門を突破した会社は県内展開である。
「そこでもいいような気がして来た」

以前から息子はそこらの中小企業に落ち着くとは思っていた。
だが反面、第一志望の会社の社長や経営方針・戦略を熱く語る息子も悪くはなかった。
一度東京へ行き説明会で身近に会社を感じてきたら、また変わるかも知れない。
まだ就活は始まったばかり。


年末のボーナスが想定より多かった娘は「何かおごってあげよう」と言った。
その後スマホの買い替えや、パソコンもそろそろという話になり
「もういいよ」と言っていたのだが、学校で教員割引のある店を見つけてきた。
一応コース仕立てになっていて、メインのステーキだけ食べ放題である。

いやもう私 食べ放題出来る年齢じゃありませんから。
と言うは言ったのだが、食べ放題と割引が好きな体質は親譲りで、
食べ盛りの息子もいる事だからと、そこに決めてしまった。

昨日行って来た。

息子が一番頑張るかと思いきや、
旦那の4枚が最高で、残りの三人は皆3枚だった。

息子が私に「俺と同じだけ喰ってるんだ」と言ったから
「私が多いんじゃない お前が少ないんだ」と言い返した。
この根性なしが。

食べ過ぎて苦しい思いをする私も馬鹿だが
身の丈を知り過ぎている息子もどうかと思う。
限界への挑戦せんか! 若者。
何かと日和るのが早いんだ。
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春風にのってやってくるもの

2015年03月22日 | 日記
黄砂 である。本日名古屋は「3」である。

花粉が「多い」になると洗濯物を昼に取り入れ
「非常に多い」になるとボトム類だけ外に干す。
黄砂もまた悩ましいところである。


昨日はお彼岸のお中日で、弘法さまで
お墓付近は人も車も多かった。
朝一番は避けて昼前に行ったのだが、それでも多かった。

お墓の掃除中に旦那がろうそくの風よけを割ってしまった。
一対で買わなくてはならないのだろうかと売店に行ったら
一対どころか、その品はもう入って来ないとの事で
味もそっけもないガラス製のものを買う事になった。
一対2200円也。

近くのビストロへ行く。
「おせちはいかがでしたか」と訊かれ返答に困る。
旦那は「ああ おいしかったですよ」と普通に答えていたが
酒を呑まない我が家では、23000円のおせちが瞬殺だった。
味わう暇もなく、胃袋に消えて行った。
「うち 呑まんもんで がっついて あっという間でした」
まあ あっという間になくなる というのも誉め言葉のうちだろう。

ビストロは訳せば居酒屋。そこで供されるのは基本的には呑むための料理。
何しに来とんねん。
だが皿はいつでも舐めたようにきれいにして返している。
ワインで皿は拭えんだろ。(洗って飲み干す人はおるまい)

そこからナビを頼りに温泉へ行く。
先日美容院の雑誌で見つけた、和合温泉。和合ゴルフ場の近くである。
だがナビが「このあたりだよ」と言う場所になく、諦めかけた帰り道にあった。

悪くはないが、この距離ならば他に探したい。
近かったらね、朝湯割引とか気楽に通えるんだけどさ。

帰宅したら既に息子の姿はなかった。
会社説明から帰って昼ご飯食べて昼寝するかしてバイトに出て行った。

眠くて眠くて、息子が帰ったのも娘が帰ったのも知らない。


引き続き死刑囚の本を読んでいる。
古いので戦後の苦労を背負っての犯罪が多い。
今なら無期か有期刑なんじゃないのか。
職員の人情に泣かされる。
まだ処刑前日、前々日告知の頃の話だから、最後の特別面会やお別れ会などがある。
(その後自殺者が出て 当日の朝の告知になった)
「何か食べたい物はないか」と寿司を用意し、所長がバナナを差し入れる。
煙草や玉露や煎茶や。テレビでの野球観戦や職員との将棋。


息子が起きてきて「お前らな!」と怒った。
食べようとしたらテーブルにパソコンその他が散らかり
肩を揉んで貰おうと帰ってきたら真っ暗で。
「俺が就活しとんのに 遊び呆けて」
「呆けてない 謳歌しとるんだ」(旦那)
「人生は順番だもの」(私)

受験の時も、父親が呑気な事に娘が怒っていたが
「期待も気遣いもプレッシャーになるだけだよ」と宥めた。
旦那の気楽さが救いとなる。
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コートは脱げても上着は脱げない就活生

2015年03月21日 | 日記
私はTシャツ一枚でふらふらしております。
ネクタイに上着というだけで暑苦しく感じますです。
今日も息子はネクタイ結んで出て行きました。

やっとひとりで結べるようになったのだけど
最終チェックを求めてくる。そして直される。
リビングで着替えているので鏡はなく、戸棚のガラスで見ているからいかんのか。


経験もろくにないひきこもり主婦なんだから
何も言わないのが一番なのに、余計な事を言ってしまった。
口は災いのもと。
せっかく息子がぼちぼち就活内容を話すようになったのに。
これからは黙ってアイロンがけとご飯づくりに徹しよう。
そして週に一度は好物を作るようにしよう。

息子の好物はどれも手間がかかるんじゃい。

「○○がいいなら ××でもよかったんじゃないの」と同業種の会社名を言ったら
「あの体質では どれだけ頑張っても店長より上になれない」と言った。
これにはおっとびっくりだった。
私は「生涯現場(売り場)」のつもりだと思っていたのだが
息子は息子なりに野心(?)があるようである。ちょっと嬉しいぞ。

息子に「自分の強み分かってる?」と訊いた。
何も言って欲しくなさそうなので「おばさんにウケがいい」は言わずにおいた。
でもまだあるんだよな。「かわいい と感じる感性がある」
お客の半分(以上)は女性だもの。かわいい!を解する能力って大事だと思うんだけどなー

まだ小さい頃。
旅行先の店で
息子が「かわいい」と声をあげるなり、娘のパンチが飛んだ。

「私より先に かわいい 言うな!」


本日娘は仕事。息子は就活とバイト。
私は旦那と墓参り。墓参りだけじゃなんだから、お楽しみもつけた。
いい天気である。
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死刑囚と被害者遺族

2015年03月20日 | 日記
「弟を殺した彼と、僕」 原田正治著

弟を殺した犯人の死刑囚と交流し、その執行に反対した遺族がいると
以前に新聞で読んだ。
本が出ているとは知らなかった。

まず、死刑廃止・存続論抜きにしても、この本は興味深い内容である。
被害者家族の実情を、その一端ではあるが知る事が出来る。
被害者(家族)でありながら、官憲に対して妙に萎縮させられる事とか
マスコミの取材攻勢に苦しめられる事。

著者は、当初交通事故死として処理されたがために
一度支払われた保険金を、犯罪発覚後に「返せ」と要求され
借金を背負う事になってしまうなど、二次的被害にも見舞われる。

加害者には弁護士がつくのに、被害者には相談相手もいない。

借金と、会社の無理解と、周囲の無神経に更なるどん底に突き落とされる。

被害者とその家族が突き落とされた谷底に、誰も降りてきてはくれない。
国は死刑によって「犯人もそこに落してやるから」とは言うが
被害者たちを引き上げてくれはしない。

死刑とは犯人を突き落す事で、被害者を救済する方法ではないと著者は書く。
死刑存続派の人は「遺族の気持ちを考えろ」と訴えるが、
遺族でない者に遺族の気持ちが分かる筈もない。

私は死刑存続派であり、よく
「遺族に気持ちを切り替え、人生に踏み出させるためにも死刑は必要だ」と書く。
だが私には遺族の気持ちは分からない。だからもうこの方便は口にはすまい。

著者が加害者と会い、その死刑の判決や執行に反対する請願書を書いたのは
加害者を赦しての事ではなかった。


死刑囚を「ひとでなし」のまま死なせてしまっては意味がない。
だが人間らしい心を取り戻した囚人を死刑によって殺さなければならない事に
矛盾と苦悩が宿る。
しかし死刑判決無くして、犯罪者の改心が可能であるかどうか、分からない。
(著者もその点は答えが出せないでいる)

被害者遺族が加害者と冷静に対面する事は
被害者をものではなく「人間」として意識させる援けになるかも知れないと思った。
手紙にせよ面会にせよ、加害者と人間的に関わる事によって
加害者の、被害者に対する真の謝罪と反省を引き出す。

厭世感と絶望で死に臨むよりも
悔恨にのたうちながら生きる方が辛い。

著者が加害者と交流したのは、加害者の反省を肌で感じ、
加害者の中での事件の風化を防ぎ、事件の意味を問いたいと思ったからだ。
「僕が赦したとは思って欲しくはない」


私が感じたのは、
被害者遺族は孤独である。
警察や裁判所は裁くために被害者の言葉を聞き
他人は興味で関わって来るが誰も寄り添ってはくれない。
事件を一番深く共有できるのは実は犯人なのではないか。
加害者が生き続ける限り、そこに事件は存在し続ける。
加害者が処刑されたならば、遺族は遺族だけで事件を抱き続けなければならない。

死刑を区切りとすればいいというのは、第三者の勝手な考えなのかも知れない。
終わらせたくはないという遺族もいるのだから。

だが遺族の事情と
社会制裁としての死刑は別である。
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春だねえ

2015年03月19日 | 日記
これだけ温ければ、体感してそうだと思えるのだが
更年期なのか体質なのか、あまり寒さを感じない身としては
我が身より、コービーちゃんの上に春の訪れを感じるのであった。

コービーちゃんをお忘れの方も多いであろう。
真冬に我が家に来たコーヒーの木である。
ついたその日にぐったりして慌てさせてくれた鉢植えである。
夜は窓のない和室、晴れた日は閉め切った南向きの部屋と
文字通りに右往左往して越冬させた。

葉っぱが朝からぴんと元気なのはもちろんの事
硬かった先っちょが、ほぐれて来たのである。
ああ これは新芽だったのかと、当たり前と言えば当たり前の事に気づく。


年齢的に更年期であるが、秋頃からほてりを感じている以外これといって症状はない。
ただ鬱々としているだけだ。
身体のどこも痛くないのは幸せな事だと自分に言い聞かせてはいるけれど
後ろ向き姿勢は変えられない。
日本人女性は身体的症状より精神的なものの方が強く出るとあるが
(だからなかなか薬剤治療が進まないのか)
私はその典型か。


靴を買った。やっと買った。フォーマル用にも使える黒のパンプスである。
子どもの入学式用に買った一足をずっと履いていたが
母の葬儀の時に久しぶりに履いたらば、脱いだ時はく離した皮が足についてきた。
表側はなんともないが、密かに傷んでいたんだな。
履けない事はない。ないけれど。

次は服である。フォーマルである。
これは靴よりもさらに歴史が古く、20歳の時に買ったものである。
着れない事はない、ないけれど、下腹をずっと引っ込めていないといけない。
この服の為に痩せよう痩せようと言い続けて、はて何年が過ぎたか。
服に体を合わせるより身体に合わせて服を買った方が早いんじゃないか。


会社説明会が個別のものになってから
息子からその内容がぼちぼち知らされるようになった。
説明会というより、プレ集団面接?
知らない間にふるいにかけられているんだな きっと。

小売業志望だから こんなアピールもあるんじゃないかと思った。
「僕 若い女の子にはもてないんですが おばさんには可愛がられました。
だから社員やパートの女性ともうまくやっていけると思います」
私がデパートでバイトしたのは30年以上昔の話だが
その時の経験からすると、売り場主任が女性店員に好かれているか否かってポイントだもの。
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働くならば主婦したくない

2015年03月18日 | 日記
「主婦したくない」三部作 完結編 なんちって。

今回の「主婦」はこれまでの「家事をする人」の意味ではなく
「主」となって家庭を取り仕切る人の意である。
正社員として働くのならば、この兼業「主婦」にはなりたくない。
雑用としての家事はやってもいい。「手伝い」で。
今現在妻をもつ殿方のなさっている程度より、もう少し上等な事をやろう。
だが子どもの進路や親の介護の委託先など探したり決めたり話し合ったり
そういう責任を伴侶に負わせたい。

女性の社会進出を阻んでいる要因はいくつかあろうが
女性自身で拓ける解決への道は、地道な、男たちの意識改革なんじゃないか。
あたりまえのように家庭の中心に「主婦」を据えようとする男たち、或いは世間。
男は育児や家事を「手伝う」だけでよしとする。
言われた事をやるなら子どもでも出来る。責任と精神的負担を背負ってこそだろうに。
皿を洗ってゴミをだして家事とし、子どもを風呂に入れて育児とする。
子育ての最大の難関ともいえる社会性クリアも経験せずしてイクメンを名乗る男に腹が立つ。
だがそれを仕方のない事として受け入れている女にも問題はある。

専業であろうと兼業であろうと、
家庭外及び休日における主婦業(この場合は家事的雑務)の放棄を主張してみてもいいんじゃないか。
そこから始まる女性解放もあるんじゃないか。

自分の旦那に負担分担を言えず行政に訴えるのがおかしい。
まず夫婦、まず家族、それから地域行政の順だ。
男たちの前で甲斐甲斐しく動き、もしくは従属し、その不満を社会にぶつけるのは
一種の逃避に思える。

男に「仕事だ」「忙しい」と言われたら、信じるしかなかった。
だが「忙しい」にもいろいろある。
手際よくさばけば作れる時間もある。要は、その努力をしたいかしたくないかである。
面倒事を押しつけられるぐらいならば、会社にいた方がいいという男だっているんじゃないか。
そこまで意図的でないにしても、仕事を言い訳にしている男は絶対にいる。
しかし女が強靭に出れば、男も動き出すかも知れない。
たとえば子どもの迎えのために男が退社するようになれば、
それが段々と当たり前になれば、今よりずっと女性は楽になる。

女が動かないから、男も動かず、社会も変わらない。
法律が変わっても現場は変わらない。その切り崩しは個人からである。

女性の社会進出の一歩は家庭の中で踏み出すべきなんじゃないか。



「主婦したくない」を正当化するために考えたのだが。
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