ウロ

木の洞に頭突っ込み独り言

クイズ番組を見ながら

2013年04月30日 | 日記
先に訂正。
↓の記事で「主の祈りは聖書に載っていない」と書きましたが
マタイ伝の「祈るときには」の中にありました。

私が暗記したのは文語調の美しい文でしたが
このわりと新しい新約聖書には口語体で書かれています。
文語調の方が短いし、リズムがいいので覚えやすいと思う。

前のページを読んだら「腹を立ててはならない」とある。
兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。
兄弟に『ばか』と言う者は火の地獄に投げ込まれる。

たまらん。


昨夜テレビを見ていた。クイズをやっていた。
といっても野球中継の合間にチャンネルを合わせるだけだから
断片的にしか見ていない。

漢字の問題が出た。小学校で習う漢字を正しく読めるか。
最初のひとつふたつを見た旦那が「へっ」と笑った。
10番目の問題を見た私は「下の段の漢字全部読めるの?」と訊いた。
そして10番から順に9・8・7と二人に確かめる。

準える 弁える 設える 調える 費える の順だったと思う。
ふたりとも答えられなかった。
大卒旦那と大学生男児。そりゃ国文学科は私だけだけれど。

英語の問題が出た。
キューブ ○○○○体 ひらがなで「りっぽう」と入る。私が答えると同時に
息子が言った。「球体」 きゅーぶ で きゅーたい か。幼稚園児か お前は。

オッド なんたらで 「奇数」。オッドは「奇妙な」という意味だと言う。
「んじゃ偶数はなんていうの?」と訊いたら、英文科卒の旦那は娘に訊けと答えた。
その後で娘に訊いたら「イーブン」なんたらと答えた。
おお! イーブン。それなら分かる。

どうして割れない数字が「オッド」なのか。「あっちの人 奇数を嫌うよ」と娘は言う。
割り切れない気持ちがもやもやとなって「奇妙な」になってしまうのだろうか。

旦那に答えられなかった偶数の英語をさらりと言った娘だが
新聞に載っていた「草競馬」をとんでもない読み方をした。「そうきょうば」

ああ。どいつもこいつも。
コメント

試み

2013年04月29日 | 日記
タラントを引っ張り出すまでもなく
主の祈りの中にそれはあった。

タラントがタレントの語源になったのなら、
やはりそれは「才能」「天分」の意味なんだろう。
今のタレントにそれがあるとはあんまり思えないが
それでも職になるという点でやはり才能なんだろうか は逸れた話で。

昨日なぜか突然主の祈りを覚えているかどうか確かめたくなった。
天にまします我らの父よ で始まる有名な文である。

ところで教会に縁のない一般日本人は
この祈りの語句が聖書に書かれていると思っているんじゃないだろうか?
だって私がそうだったもの。
聖書と祈祷書の違いなんて分からないんじゃないかと思うんだが。

文学青年だった(らしい)父は祈祷書を持っていた。
黄ばんだ、手のひらサイズのそれを見つけた時、私はどきどきした。

主の祈りが載っているのは祈祷書である。
私はそれを暗記し、続いて「就寝時の祈り」も覚えようとした。
だが何が書かれていたか全く覚えていないが、
「毎晩眠る前に死ぬ時の事を考えるのか」と衝撃を受けて、やめてしまった。
どういう文であったか、確かめようにも祈祷書は手元にない。

本当なら大事に保管しておくところだが(資料として)
なんせ、その祈祷書
表紙が一部焦げているのは許せるとしても
(信仰に絶望した文学青年が暖炉にそれを投げ入れたと想像するのは悪くない)
(ちなみにうちの父はいい男である と誰もが言う。若かりし頃はさぞ と誰もが)
裏表紙にボールペンでの試し書き(あの ぐるぐるってやるやつ)があるのだ。
焦げあともおそらく煙草の火か何かであろう。興ざめもいいとこである。

なんだったっけ。
そうそう。その主の祈りに「我らが人に赦すごとく我らをも赦したまえ」とある。
だからタラントが赦しであるという解釈は重複してしまうのだ。

娘は人の過ちに容赦ない。私は言う。
「お父さんはあんたの事責めないでしょう。だからあなたも責めてはいけない」
勿論聞きゃしねえ。

話は飛ぶが(またか)
今朝娘が新聞記事をちょきちょきしていた。
「お父さんまだ読んでないのに」
「はぁあ? どうせ社説なんか読めへんわ」
「そんな事ない。ちゃんと目を通してる」
でどうしたかというと、切り抜いた箇所のある紙面を見開きごと抜いてしまったのである。
その裏面にスポーツ記事もあったから、バレると思ったんだけどなあ。
旦那は黙って読んでいた。
祭日のせいか新聞自体薄かったので、幾つかお休みの欄があると思ったのだろうか。それとも。


主の祈りの最後の方に、「我を試みにひきたまわざれ」とあった。
試みってなんだろう?
少なくともボールペンの試し書きじゃあないよな。

とこういうネタを書くと、ちゃんと突っ込み修整補足解説してくれる人がいたのだが
破門されちゃったからもうしてくれないだろうなあ。
てか読んでもくれてないわけか。くっすん。

人を試しちゃいけないよ という事かも知れんね。
旦那に正直に穴ぼこ新聞見せるか……
コメント (4)

おともだち

2013年04月29日 | 日記
お友達という言葉に侮蔑めいた響きを感じるのは、どうせ私だけなんだろう。
どこか小ばかにされた印象を受けるのは、私がそれを小ばかにしているからだ。


子どもが公園で遊んでいる間は、「公園仲間」がいて、いわゆるママ友と一緒にいた。
子供たちもおむつの頃からの仲で、グループが出来上がっていた。
幼稚園に入った途端、ひとり(一母子)が体半分抜け出した。

「園のお友達がさぁ」とその母親は語る。
私は何気なく聞いていたが、別のママさんが陰で不快を露わにした。
彼女の言い分を聞いて私も「ああ」と思った。
いつまでもおむつの仲ではないという事か。
広い社会に出て新しい「お友達」を獲得するという事が、仲間内での勝利になるのか。

娘と息子は二歳違いである。やがて息子も入園する。
息子はああいう性格だから誰ともでそこそこに仲良くなる。
途端、上記の「不快を露わにしたママさん」が対抗意識を燃やし
やたらと「園の」「お教室の お友達」という言葉を使い出した。

うんざりしつつ、だが入学まではと、公園仲間のつながりを保ち続けた。

その間にいろいろ鬱積した。
だが感じた嫌悪も今では消え、その間に受けた仕打ちも赦す、というか半ば忘れるぐらいになった。
のに。
「おともだち」だけは残ってしまったらしい。

娘の一二年の担任がまた、この「お友達」が好きだった。
嗜好の偏った娘に「お友達を増やしなさい」「まだまだ」と言い続けた。

娘は性別越えて国籍越えて沢山の友人に恵まれた。
それでもこの時負った傷は私の中に残っている。

子供たちがメアドを交換して「友達になった」と言うと、ムキになって「それ友達ちゃうから」と言ってしまう。

近所の知人二人とジムの申し込みに行った時も
「お友達同士ですか いいですね」と微笑むインストラクターに「違います」とはっきり言ってしまった。
まあ あの二人(水害の時に一番に力になってくれた)だから「私らと友達に見られたくないと?」で済んだが。

友人は作るものでも数を競うものでもない。
いなければ、それは必要ではない、或いはまだ出会っていない、というだけの事だ。

「おともだち」には体裁の為のつながりや、他に勢力を示すための仲間意識を感じてしまう。
そんなもん 私は要らないし、ネットの中には、いない。


ところで。
娘に「九州じゃ普通になまこ食べるんだって」と話したら
「私食べた事あるよ。普通だったよ」と言った。
「ええええ いつ」
「ずっと前行った お魚がいっぱい出たとこ」
実家の母がまだ出歩けていた頃、魚好きの母のために旦那が探してきた店である。
実家父は魚が嫌いなので、父と息子は別の店に行き、私らだけそこへ行った。
魚が好き、というより食べるもの何でも好きな娘は大はしゃぎで全部平らげたから
その中になまこも入っていたのだろう。
「どういう姿か知ってる?」
「うん。でも切ってあったら どうってことないじゃん」

ああ。あんたは幸せだね。なまこが愛ならば。
コメント (4)

赦しと なまこ

2013年04月28日 | 日記
なんだこのタイトルは。
注目記事になる可能性がないとタイトルで悩まんでいいので楽である。

赦しはこう大別できるのではないか。

1 人(自分を含む)を憎悪や怒りから解放するためのもの
2 時間の経過によって摩耗され どうでもよくなる場合
3 背景を知った上で理解し 自分を納得させる

2と3は経験したが、1は難しい。
対象への愛は勿論、自愛にも欠けるからだろう。


なぜここで突然「なまこ」なのか。
以前書いた記事「自分を哀れむ事」に「私はなまこを食べた事がない」と書いた。
それがどんなにおいしいものでも今更試したいとも思わないし
それ抜きの食生活でも別に困らない。楽しく毎日食べている。

このなまこが実は「愛」を比喩するものだと、次の日書くつもりだったが
どさくさで忘れてしまった。

ミニ知識。この「どさ」は「佐渡」の事である。

親の愛を得られなかったとか、愛が欲しいとか、
そういう事で嘆く事が出来るのは「愛」の味を幾らかでも知っているからで
なまこ同様知らなければ、なんか得体が知れずぶにょぶにょしてそうでキモい、なのである。

たとえ悪いなあ……

輪切りでも本体でも触りたくないと思っている私に
そのなまこの親玉の腹の中に入れと言われても、そりゃ無理な話だと思う。

なまこという言葉を愛に置き換えたら、人は思いっきり哀れんだ目で私を見るかも知れんが
だからなまこなんだから、別に平気なのである。
なまこの他にもおいしいものはある。

前に娘に彼氏が出来ても羨ましくはないが男友達がいるのがメッチャ妬ましいと書いた。
あれもおそらくは、なまこの味は知らないが
友情、たとえるなら炭火で焼いた焼肉、は知っているから
男友達とは骨付き塊肉の切り出しバーベキュー、みたいな感じで食べてみたいと思うんだな。

そんなんで子育てすんな。
と自分で思うのが怖い。だから今更なまこなど知らない方が幸せなのだ。
分かるかなあ。

責任と理論で子育てをし
今現在子供たちに抱くのは、人間としての興味と好意で、それで円満なんだから構わない。
旦那にも感謝と依存があるから、まあ何とかなる。

最近いくらが好きになった。
いくらは誰でも何歳でも手軽に味わえるから(腹いっぱい食べるには高いけど)まあいいが
それでもこれは「子供が最初に食べられるようになる寿司ネタ」だったりする。

いくら といえば
先日友人たちとご飯を食べた。
メニューの写真にご飯にちろっといくらが乗っているのが写っていた。
友人たちは「苦手だな」と言う。「おいしいのに。よけて貰えるか訊いたら?」と私は言った。
友人は店員さんに「別の器で持って来て貰えない?」と訊いた。
食べられなくはないがご飯が汚れるのが嫌いなんだなと思っていたら、その小さな器を私に押し出した。

愛 だねえ。彼女はとてもいい「お母さん」なのだ。
なまこは食べなくてもいくらはおいしく頂く。


頭混乱した?

でもそういう事なんだよ。
なまこを食わず嫌いしている私は、柔軟な赦しも受け容れられない。
ぶにょぶにょしたものより固いものに自分を預けたい。


なんて。この記事を読んでいる大半が「私だって(海の)なまこなんか喰った事ないわい」だったりして。
ごめんごめん。
コメント (7)

永遠の平行線なんだろうなあ

2013年04月27日 | 日記
よしながふみの短編集「愛すべき娘たち」の中にある話。

祖父から「わけへだてなく人に接しなさい」と言われて育った女性。
その祖父を介護して見送り、姪っ子を看病し、仕事もこなし、見合いする。
相手は事故で脚が不自由になった男性。
何度か会った後、仲人から「結婚をするかしないか決めなさい」と迫られる。
見合いとはそういうものだ。

彼女は「恋愛って 人をわけへだてするものじゃない?」と泣く。
そして修道院へ行く。

この「わけへだて」が実感された一件であった。

私はわけへだてしたい。自分もそうされる。それでもいい。いやいっそされたい。
された上で上位に残れたと感じていたい。
下位に分類される事もある。その時には酸っぱいブドウでいい。


自分を不快にさせた相手を嫌いと断じて何がいけないのか分からない。
相手の行為を糾弾して何がいけないのか私には分からない。

味方は要らない。
誰も巻き込みたくなかったし、自分が自分を信じていられればそれでいいと思った。

天知る地知る己知る。

相手に肩入れする人がいるのは構わない。
でも同列は許せない。どこまでこきおろされても平気でいられるが、同列だけは許せない。

そう感じる事が頑なであるのか。


息子に宗教はない。
彼は天然で人を許す。罪を憎んで人を憎まず。
時にその行いにむっとする時もあろうが、だからといって相手を嫌いにはならない。

こちらが怒りも露わに荒れ狂っているのを見て、
「疲れない?」という顔をする。
愚痴を聞いてはくれるが、一緒に怒ってはくれない。

私にはことなかれ主義にしか見えない。

娘が時々「あいつ疲れないのかな」と言う。
「あの子には あの方が楽なのよ」と私は答える。
争うより諍うより、自分が譲る方が楽なんだ。決着を望むより許す方が楽なんだ。
「分からん」と娘は言う。
私も、分からん。


素で、血のつながった親子で、これだもの。
宗教の違いなんて分かるわけがない。

私は無信仰で、あえていうなら浄土真宗で。
それも最近では現世のためにのみ信仰はあると思う程で。

無理だわ。私には。
コメント

血の通ったギャンブル

2013年04月27日 | 日記
新聞を読んでいて、びっくりした。
「株の自動売買」ですと。
『ソーシャルメディア含めた報道の見出しなどに反応して自動で売買する』

メールやブログに出した話題を勝手に読み取り広告表示するってみたいに
語句に反応して機械が勝手にやっちゃうわけ?
で人間はそれに任せちゃってるわけ。

邪道と思うのは大きな金が動かせない庶民の僻みか。
しかしここまできちゃってるとは。

あたりの出る店で、それぞれのジンクス守って宝くじを買ったり
ちゃんとデーター調べて自分なりの分析して馬券買ったり
出る店、出る台チェックして朝から並んだり
ギャンブルはそりゃよろしい事ばかりではないけれど
人間の手が加わっている間はまだましかなと思ってしまう。

昔はパチンコも行ってたけど、
その時でもダイヤルをコインで固定してたりする人を見かけると
「面白いのかなあ」と思ったりした。
確かに疲れるし、ちょっとしたブレで玉の軌道変わっちゃうけど
自分の手で打つから面白いんでないの?
自動になってしまってからてんでつまんなくなっちゃったのは
100円があっという間というせいもあったけど
打っているという実感が薄れたせいもある。

手動の時は一発ずつ弾いていたんだぜ?
さすがにこれは知らないけれど、それより前は玉も一つずつ自分で入れていたんだぜ。

新聞に目を通し、決算報告を読み、あれこれ考えて証券会社に電話する。
私はやんないけど、父はやっていた。
それが株だと思ってた。

なんか ちょっと荒んだ気分だわ。


病院から貰って来た薬を見たら、粉だった。
普通は「ああ」とため息なところだが、息子は違った。
喜んで舐め、「うん うまい」と言った。甘い薬だったらしい。
同じ薬を飲んだ筈の娘は「あと何回飲めばいいの」と憂鬱そうだった。

昔からこいつは病院で出る甘い薬が好きだった。
娘は風邪から喘息に移行するのですぐに病院に行ったのだが、
手元に喘息の薬さえあればいいので、風邪薬は無理には飲ませず
病院は嫌いだが病院の薬は好きという息子が風邪をひいた時に飲ませていた
という事を無邪気に喋るから医師に怒られるんだが。

症状が重い時は当然娘自身に与える。それを息子は指を咥えて見ていた。
飲んだ娘はおえおえやっているのに、「いいなあ」と息子はそれを見ている。

教室に薬が落ちていて、持ち主が分からなかった時
息子は「ボク ボク」と欲しがって先生を困らせた
という話を近所の人から聞かされて、私はとても恥ずかしかった。

そんな事を思い出しながら、息子に薬を差し出す。

昨夜「うん 病院に行ったら治るもんなんだな」と息子は満足げに頷いた。
コメント

コーヒーの効用

2013年04月26日 | 日記
利尿作用がある、という事は何かで読んだ。

しかし、これは異常ではないか。
ランチの最後に出た、普通サイズのアイスコーヒーを飲んだ後、
娘はまずそこのトイレに行った。
次に寄った洋服店で、いきなりトイレに行った。
その後回ったSCでもトイレを使った。

「コーヒー飲むとこうなんだ」と娘は言う。
「そういえば息子もだな」と私が呟けば
聞いていた息子が「俺は缶コーヒーの時だけだ」と言う。

体質? 缶とカップのコーヒーの違いは何?

ついでに「コーヒーを飲んだから夜眠れなかった」も聞く。
カフェインからいったらコーヒーは言う程強くない筈だ。

濃茶(抹茶の濃いやつ)を6杯飲んだ時は徹夜だったが
コーヒーぐらいでそんな……


ちなみに。
なんで濃茶6杯かというと
「茶通」という手前で、茶通箱にふたつ茶入れが入っていて、両方たてる
というのがある。
ひとつは亭主が用意した物。ひとつはお客さんが持って来た到来物。
これを二巡やって計4杯。その後通常のお手前でもお客をやったんだと思う。
「好きだものね」とにこにこと先生に言われては拒めない。

私は味音痴だが、お茶でもそうである。
5種類のお茶を飲み比べて、紙に書きつけるというのがあるらしいが
それっぽいのをやった。
最初の一杯目を飲んだ時顔を上げて「これは」と呟いたら
先生が両手を打って「さすが! 分かった?」と仰った。

いやもう 最高級茶と一番安いお茶、まるきり逆に判断してたわけで。
さすがの私もその場で言えなかった。

ああ。懐かしいなあ。先生の連絡先がとってあったら
留学生連れて遊びに行かせて貰うのもよかったかも知れない。


私はコーヒーの味も分からない。うどんの味も分からない。
ラーメンは好みでおいしいまずいに分かれるが、コーヒーはどこでも同じである。
こんぱるだけは別だが。こんぱるって名古屋限定だったっけ?


不調が抜けない息子、やっと「病院行くか」と言い出した。
保険証と診察券を出して渡す。変な顔をするので「ひとりで行くんだよ」と言った。
「えええ」
「大学生だろぉ 嫌だよ 恥ずかしい。また中学生に間違えられるよ?」
「ひとりで行くもん?」「行くもん」

急激に萎える。暫くもだもだ「面倒ー」とかやっていた。諦めて着替えながらまだ言ってる。
「人生なんか面倒ばかりだよ。あんたたちなんか楽しみが多いだけマシじゃん。
私なんかこーんだけ(指で丸を作る)しかないんだから」
「愉しみは自分で作るもの」と偉そうに抜かす。「お前だって昨日三冊もマンガ買ったじゃないか」

そして行って帰ってきた。診断は急性腸炎である。ああ ごはんどうしよう。
コメント (13)

赦しと博愛精神と

2013年04月26日 | 日記
ああ また(また?)叱られた。

でも私は言い続けるだろう。嫌いも。馬鹿も。

娘が「ああ ムカつく あいつ マジ○ねだし」と怒っていたら
息子が「あいつよくあんなにムカつけるなあ」と感心した。
こいつが「ムカついた」と言った時、一体どんな事が!と変な期待が膨らんだのだが
相手は目覚まし時計だった。

娘と私が「ああ あいつ嫌い」とか喋っていると
「いつまでもよく怒っていられるね」とか言う。
こいつには「苦手」はあっても「嫌い」はない。
まあ 食べ物は別だけど。いまだにピーマンが食べられないお子ちゃまである。

私と娘が掴み合いの喧嘩をしていると、おろおろする。

この息子を私は平和主義者と侮蔑をこめて呼ぶ。
そして「あんた嫌い」と言ってやる。
味方になって欲しいわけじゃない。でも枠の外側に出るのはやめれ。


留学中、娘がクリスチャンの級友の話をした。
「敬虔な」クリスチャンの彼女はとても優しく、親切だ。
娘は彼女が大好きなのだけれど
同意してくれると信じて喋った何かに対する批判に
彼女はとても辛そうな目をした と言う。
人の悪口を嫌う。娘は気をつけていたのだが、でもこれくらいと喋った事に
それでも彼女は哀しそうな顔をして、そっと横を向く。

その話を思い出した。

博愛精神。ああ。そう。博愛精神だ。
私はプロテスタントの博愛精神と、アメリカ社会の自己責任方針が矛盾なく同居しているのが
よく分からない。

でもまあ、その級友が、ともかくも最初「博愛精神」において
留学したてのぼっちな娘に声を掛けてくれたのなら、それは感謝しないといけない。
彼女が差し出してくれた手があったから、娘は歩き出し、走り出せたと私は思う。


しかし である。
以前に「困ったやっちゃ」に喜んだ私であるが
もしその「困ったやっちゃ」の根底にあるのが博愛精神による赦しならば
私は要らない。
軽蔑でも諦観でもよかった。
呆れ顔でのため息まじりの「困った子ねえ」を想像してわくわくした。
でも博愛精神なら要らない。
私を私であるがゆえに呆れつつ容認してくれるのなら嬉しいけれど
誰もが同列の赦しの対象ならば、私は許容してなど欲しくない。

娘がその級友を好きだったように私も敬愛を抱きはするが、
そういう好意は喜べない。


子供たちが小さい頃、近所のがき共含め、こう説教した。
「私に怒られとけ。悪い事は全部神さまに報告されるけど 今叱られておけばそれは消える。
私に怒られた方が楽だぞ。ほら さっさと白状しろ」
私は勿論、周囲にクリスチャンはいない。この神様は漠然とした存在である。

今思えば恐ろしい事をやっていた。
その子の罪をこちらが背負うという事でもある。
それはささやかな、何かを壊した、最初に叩いたというような事ではあるけれど。
娘は中学くらいまで私に時々懺悔をした。私はそれを引き受けなければならなかった。


ずっと前にも触れた。
主から預かったタラント(金貨)を増やすか、大事にしまっておくかという喩である。
タラントが何を意味するのかで解釈は変わる。
そのひとつに「赦し」がある。
赦した分だけ、赦される。


赦す事が出来ても、私のそれは博愛精神に基づくものじゃない。
嫌いなものは嫌いなのだ。だから言い続けるだろう。
傷つくのが嫌なら近づくな。私は嫌悪するものを傍におけるほど強くない。

だが、私が傍にいて欲しいと思う時、それは紛れもない好意である。
低俗であからさまな、人間的な好意である。
コメント (8)

棘が 抜けた

2013年04月25日 | 日記
何人の人が気づいているだろう。

小さな棘だが、ずっと心に刺さっていた。
たかだか一週間の事だけれど、苦しかった。
それが今朝抜けた。

中日新聞の購読者っているだろうか。
朝刊に「福島 生態系に異変」という特集記事が載った。

4月17日の記事に私は余計な事を書いてしまった。
ラッシーちゃんに指摘され、それがアラシ行為に過ぎないと分かっていても
指摘の的確さに、私は記事を訂正した。

福島の(立ち入り禁止地区に放置されている)野良牛やイノブタは研究材料なのではないか
という内容だった。
指摘は、この部分が福島の人を傷つけるという事だった。

読み返せば、勢いで書いてしまった雑な文。
無責任な文章だった。
そしてまた
「それ」の事は分かっていても触れたくない のかも知れないと
不安を煽るような事を書いてしまった事を後悔した。

なんせ相手はラッシーちゃんだから、私の「しまった」を見抜き、
執拗にそこを攻めてくる。

自己嫌悪と、アラシのためなら何でもやる相手への腹立ちに
ずっと気分が悪かった。
自業自得のくせに、新聞の東北関連の記事まで読めなくなった。

「福島」はキーワードだ。

無関心よりマシだ。野良牛の存在さえ知らない人だっているんじゃないか。
でもそんなのは言い訳で、無責任に放射能の影響をほのめかす事を書いた責は消えない。

それより少し前13日にも私はポカをやらかしていた。
地震が起きた日である。無神経なタイトルをつけてしまい、後でそれを直した。
次の記事で訂正の理由を述べた。
その一件もあって余計に、私は苦しかった。

今朝の新聞を開いて、力が抜けた。
学者が調べている。ちゃんと調べて報告している。それくらい当たり前の事なのだ。
放射能の影響が、無防備に汚染された植物や水を摂取している動物たちに表れる可能性。
私がブログに書こうと書くまいと、それは事実として報道されている。


まさか新聞に救われるとは思っていなかった。
もう一日掲載が早ければ と思わないでもないが、あとのまつり。
今は棘が抜けた事が嬉しい。
コメント (9)

日常

2013年04月25日 | 日記
先月だったか、先々月だったか。
娘が腸炎をやった。

胃痛と下痢に苦しみながら、痛みがない時は食べる。
痛みがあっても「食べると楽になる気がする」と言って食べ始める。
微熱と倦怠感もあったんじゃなかったか。
でも吐き気はないから胃腸風邪は疑わず「なんだろうねえ?」と首を傾げる。
そして食べさせ、食べた。
外食も行った。大あさりと牡蠣フライと舟盛定食を食べた。

埒があかないので病院に行った。「腸炎」の診断と「食べてはいけないもの一覧」を頂いた。

息子が体調を崩した。こいつはいつも寝て直す。
布団にもぐって、トイレに起きて水分を補給し、次に起きてきた時には「腹減った」である。
今回もそうであったので、ご飯を作って食べさせる。肉を。油も使う。

火曜日早朝に異常を訴え、火曜日水曜日半日寝て、いつもならそれで治るのに。

今朝になって漸く「腸炎じゃないか」と気づく。

なぜに腸炎で食欲がなくならないのか。
娘はまだうどんやおかゆも食べられたが、息子はがっつり系しか受け付けない。
お腹がすいたと泣く子に、何を食べさせたらいいのだろう。


先日病院に、自分の薬を貰いに行って気づいた。
ああ この先生は喋るのが好きなのだ。
いい医師とよろしくない医師がいる。
この先生は勿論いい医師なのだが、そこには天性のものも含まれるんじゃないか。
医師としての適性以外に、話すのが好き、という。

患者とのコミュニケーションは大事だが、そもそも話すのが苦手、という医師もいる。
誠意はあるのだが、うまく表せない。聞き取り辛かったり、怖く見えたり。
そんな医師もいる。

その日病院は混んでいた。もう風邪の季節は終わったと油断して行ったのだが
点滴を受けるような重症な患者さんもちらほら、咳き込む患者さんもちらほら。
先生は当然忙しい。
忙しいにも関わらず、私の前の患者さんのおしゃべりにつきあい、
私にもどちらでもいいような情報を披露し、診察に時間を掛ける。
そりゃ1時間待って一分も寂しいが、忙しいのは見てわかるから、薬だけもらえればそれでいい。

ああ そうか。
重症な患者さんは診察は出来ても、ちょっとした「おしゃべり」は出来ないから
ここで息抜きしているのか。
と思ったら、いつも叱られてばかりの先生が、可愛く見えた。
(余計な事をうっかり言って怒られるのだ 私は)


受付などで、年配の方と窓口の方との会話を聞くのが最近楽しい。
もたもた財布を出しながら、訊かれてもいない近況を喋り出す人とか。
焦れっとしながらも笑顔をたやさない窓口の人とか。

両親があれだから、外に出る年配者が私は好きだ。
買い物や通院や、身近な外出に楽しみを見いだせるなら、それが一番いい。

根気に対応する店員さんを見ると、とても嬉しい。
コメント (2)

嘘にとりこまれる

2013年04月25日 | 日記
母にひとつ注意した。

それまで普通に話していた母の目が、急に虚ろになり宙を彷徨う。
天井を指さし「ほれ あれ。あの三番目の」と言い出す。
何もあるわけがない。
そこにあるのは「言い訳」であった。
彼女は真剣にそれを説明し、私に(病院側に)注意されなければならない行為を、正当化しようとする。
嘘をついている自覚はない。
逆らわず「そうなの。でも 駄目だからね」とだけ言う。

嘘で固めているうちに、自分までそこに取り込まれてしまう。
去年も同じような事を書いた。
こうであれという妄想と、現実の境界が曖昧になっていく。
いつか夢に喰われ自分をなくすだろう。
私はそれを待てばいいのだ。

昔から。こうやって言い訳で自分を正当化してきたんだな。
昔から こうやって嘘で見せかけの自分を創ってきたんだな。

そして言い訳で身を滅ぼし(ねたきりになった)
そして嘘で心を失う。

もう責めなくていい。糾さなくてもいい。
療養に落ち着いた今、どうなっても構わない。


赦す という事はある意味残酷な行為だ。
自分は許す。でも天は許さないだろう。
その報復を受け、母は病院のベッドにいる。
山ほどの衣類を自宅に抱えながら、今許されるのは一枚の病衣。
一円の所持すら認められず、欲しいものを自分で買う事も出来ない。

言い訳をしないで、一歩ずつでも歩いていれば。
ぐうたらな自分から目を背けないで、怠惰と闘おうとしていれば。
嘘に逃げないで、現実と真実を見据えていれば。

私はもう怒らない。そう。お天道様は見ている。

コメント

警告 と 謝罪

2013年04月24日 | 日記
二度と来ないで下さい。いかなるコメントも残さないで下さい。
私はあなたが嫌いです。
これは和解とは次元の違う問題です。

無意識ならばどうしようもありません。
あなたの文に含まれる悪意と作意に私は吐き気を感じます。
そちらに行く事は、今度こそ、二度とありません。

ここにあからさまに記す事は私にとってプラスにはならないでしょう。

それでもいいのです。

終わりにしたいと言いながら
レスしてしまった自分の甘さに憎悪すら感じます。

二度と来ないで下さい。二度と私の名前をブログに載せないで下さい。






謝罪。
ご不快な思いをさせて という謝罪ではありません。
一番ご不快なのは私だわい。

……じゃなくて。

某方の名前を全部削除しました。

関係する(と思われる)記事についていた他の方のコメントを全部非公開にしました。
選別を試みましたが、諦めました。

コメント投稿者当人の抗議のみ受け付けますが、復活はお約束できません。
中にはありがたいお説教や忠告も混じってました。

善意で書かれたコメントも受け取り方次第となれば
残念ですが公開しておきたくありません。

コメント下さった方々ごめんなさい。



あー どーせ私は短気だよ。短絡的だよ(旦那に言われる)。独断的だよ。


これでまた村復帰遅れるわね。いいけどね。どうせまだ考えていなかったから。
ランキングとひきこもりカテから外れていて本当によかったと思うよ。

ああああ ばかばか。私の馬鹿。

まさかこの期に及んでまだ人を嵌めるとは思いもしなかった自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。
ほんと腹が立つわ。
自分が頭がいいとか書いた記事も削除せんといかんかね。
ああいう事書いちゃう時点で馬鹿だわね。



理解を求めてはいないので説明はしません。

どんだけ罵られても自分で自分を罵倒する声には負けると思うね!

コメント

♪村長さんからお手紙着いた

2013年04月24日 | 日記
「サブカテゴリが指定されてませんよ」
「サブカテゴリ登録した方がいいですよ」
「理由があるなら聞かせて下さい」

注目記事にあがるのを防ぐためにカテゴリを「主婦日記」にまとめた。
したらば、「サブカテ登録お忘れですよ」メールが来た。

自動送信でここまでやれるのか!

すごいよ ブログ村。なんて細やか設定。


どういうシステムか分からないけど
複数のスタッフで「村長 その他」なのか、一応「村長」がいるのか分からないけど

勝手にイメージしてる。


昔遊ばせてもらった掲示板の管理人さん。
別館がミリオンサイトなのに、本館のそこの掲示板はひっそりと
28歳独身男性管理人と30代既婚男性と当時30代主婦の私と高校生男児くんの
4人だけ。

新米管理人だった私に、28歳独身男性管理人は言った。
「僕は遊園地の管理人のつもりでやってます。皆が楽しく遊んでくれたらいい」

きれいごとに聞こえるけど、彼は本当に熱心だった。
ゲームクリエイターからプログラマーに転職し、教習所で失恋し、
その掲示板ではそんなリアル生活の泣き言もぽろりともらしたけれど
別館の管理ぷりったら見事だった。
押し寄せる閲覧者たちの要望に敏速に応じていた。
なんで文句も言わずやれるのか分からなかった。

ちなみにウエストは私より細かった。

クリスマス前、私がうっかり「サンタはいない」的な表現を
多分子供のサンタ用のプレゼントを買いに行く話か何かをしたんだと思うが
彼は柔らかくそれを否定する文を、残念な事に文面は覚えていないが、書いた。
そして「別館から迷い込む子もいるかもですから」と、言った。

28歳独身男性(くどい)にここまで気が回せるのか!
30代現役母の私は恥ずかしかった。

根っから管理人だったんだなあ……

私も楽しませて貰った。
当時掲示板に性別とか職業とかチェックする欄があり
「主婦って言うとおばはん臭いんだよなあ」と私が言ったら
次の日「人妻」になっていた。
「恥ずかしいから主婦でいいです」と言ったら、次の日「女王さま」になっていた。
そして「会社員」のかわりに「働き蜂」が入っていた。

ある日30代既婚男性が「○十○手」という単語を書いた。
管理人は「ゲームにそんなに攻撃方法があるんですか」と返した。
30代が「やだなあ あっちですよ」と言うと、管理人は「ここには高校生の○○くんも来てるから」と
でもなんか「いや こいつ 素でボケただろう」という感じで、いくらかムキになった感じで返した。
そして高校生の某くん。「いや ボク 知ってますから お気遣いなく」

パソコンの事もいろいろ教えて貰った。ゲームの事も。(最初はそれが目的だった)
ひとつ質問すると、懇切丁寧に説明してくれた。でも難しすぎる時もあったっけ。

ああ 懐かしい。


その管理人さんと村長さんが重なるのである。
村長さん らぶ。
コメント

自分を哀れむ事と憐れみを請う事

2013年04月23日 | 日記
私は子供時代の自分を哀れむ事を覚えた。
空想癖が強くて、そこそこ幸せだった子供。
自分の不幸な部分も知らずに育った子供。

もっと不幸な子供はいくらでもいる という考え方はしない。
それはそれ。これはこれ。
私は私が信じていた程には幸せでなかったのだと、自分で思いたい。
自己憐憫とは違う。
私は今の自分を哀れんだりはしない。
いろいろあったけど、まあそれで今の私ならま いいか。
子供たちを羨ましく思う時もあるけれど
人間異なる幸福を一度に手にする事は出来ないのだから
私はこっち側を歩いてきた それだけのこと。

分からない人には分からない。分かって欲しいとも思わない。
そういう人たちには自分の幸運を大事にして欲しいと
……それすらも思わない。意識しないでいられる事こそが幸せなのだから。

自分で自分の過去を哀れむ事と
それゆえ他人に憐れみを請う事とは全く違う。
ここを間違えてはいけないと思う。

子供時代に欠けていたものを見つけ、嘆く事は
今自分に足りないものを補填する事に通じる。
いっそ気づかずにいた方が幸せだった事も見つけてしまうが
そうでなければ自分は完成されない。

辛くて哀しくて、でも優しい作業だ。抱き締められる自分と、抱き締める今の自分がいる。

フォアグラの味を知らない者は、それを食べたいとは思うまい。
なまこが美味しいと言われても、私は食べられない。

今の自分を哀れむのはやめた方がいい。
なまこを食べなくても生きていけるなら、それを試せなかった人生を嘆くより
食べなくても満たされる食生活を味わえばいい。

今の自分を可哀想にばかり思っていると、10年後も可哀想なまま、だよ。
それで大事にされても、自分は何も変わらない。

小さな自分の横にいる、お母さんになった自分。
少しだけ今より優しくなれる。
コメント

この姉弟

2013年04月22日 | 日記
娘に君が代斉唱を独唱にするという話をしてみた。
てっきり賛同すると思っていたのに「はあ?」と怒る。

なぜに。

「(選ばれた生徒以外に)歌いたい人だっているかも知れないじゃない!」
「えええ いるかぁ?」
「私は歌いたいね。壇上の生徒が私より下手だったらムカつくしね」

……だったら立候補すればいいじゃん。
しかし私が「歌いたい生徒なんていない」と思うのに対し
娘は自分がそうだから歌いたい生徒の方が絶対多数と考えるようである。
「まわりに訊いてみい。歌いたいかどうか。口パク派だっていると思うよ」 私は言う。
娘は信じない。
実際どっちが正しいか、私にも分からない。

先生が私と同じ考え方の人だったら一般公募などせず合唱部とかに依頼しちゃうかもなあ。
そしたら娘みたいな生徒は卒業式の間中ムカムカしてるわけか。

娘と私が全くすれ違っているわけじゃない。
娘も私同様「君が代を歌って気持ちを式典に入れていく」のだ。
ただ私はそれを「聴く」のでもいいのに対して、娘は壇上であれ会場であれ「歌いたい」。

式で歌うのは他にもある。ほたるの光でも仰げば尊しでも別にいいじゃないか。
私は仰げば尊しは歌いたいかな。ただし会場で。皆と。

「私より上手に君が代を歌える奴なんてそうそういない」

その自信はどこからくるのか。

そういえば先日も、「ひとりカラオケする意味が分からない」と言い出す。
「そうかあ? 練習とか 純然たるストレス発散とか あるじゃない」
好きな歌だけ連続して歌いたい時だってある。
一回歌った後に注意点に留意して歌い直し、得点をチェックしたいと思わないでもない。
ひとりカラオケならそれが出来る。
「聴いてくれる人がいないと やる気出んわ」

ああ。こいつと私 本当に親子なんだろうか。その自己顕示欲どこから来た?


一方、影の薄い息子。
だが話を聞いていると、もしかしてこいつ社交上手?と思わされる。
今のバイト先、バイトもパートも社員もわきあいあいな感じで、
オフまで集まって遊んだりする。
休憩の際など一緒にお菓子を摘まむ。
私はそういうの苦手だ。お菓子をどう勧めていいか分からないし、
相手が甘いもの(辛いもの・スナック)嫌いだったらどうしようとか考える。
でも息子は適当に数買っては配ったり、勧めたりナチュラルにやってる。
なんか不思議だ。

そう。トレーディングカードもそうだった。シールもそうだった。
わらしべ長者と呼んでいたが、人から貰ったノーマルカードからレアまでのしあがっていくのだ 彼は。
欲しいと思ったカードを、効率よく人から貰い集めていく。
彼は人を拒絶せず、人も彼を拒絶しない。

商売人?
自己顕示欲はなく、目立つのが嫌い。だが敵はいない。


面白い姉弟である。
どちらも私には似ていない。
コメント (3)

バックナンバー

ブックマーク

  • RSS2.0

プロフィール

自己紹介
まんがと昼寝が心の友