詩人 自由エッセー

月1回原則として第3土曜日に、隔月で二人の詩人に各6回、全12回の年間連載です。

第4回 ほそいひかりの三々五々(第2回) 夏野 雨

2017-07-02 19:13:37 | 日記


 ニュートンというビールがあって、gigiに行ったときよく飲んでいる。gigiとは福岡にあるカフェバーで、わたしたちは毎月一回そこで詩のオープンマイクを開いている。わたしたちというのは福岡で詩を書いている人たちで、いや、ときには詩は書いていない人もいて、ほら、よくあるでしょう。毎朝同じバス停からバスに乗るんだけど、そんなにバスの本数が多くない停留所で、気付いたらいつものメンバー。でもいつもかならず同じではなくて、日によって新しい人がたくさん乗り込んできたり、いつもの人がいなかったり。もちろんバスメンバーとは違って、さまざまな話、朗読、音楽、パフォーマンスが飛び交うわけだけれども、何十年ぶりかで詩に戻ってきたという人がきたり、ヒップホップの人が登場したり。そのオープンマイクの名前は福岡ポエトリー。この七月で七周年になるわけで、どなたもいつでもウェルカムで、りんごビールはおいしいです。



 団地というものが好きで、道を歩いていてみつけるとわくわくする。憧れがあるのだとおもう。田舎育ちで、一番近い同級生の家まで徒歩30分、放課後、誰かと遊ぶということはほぼなく、裏山をひとりでうろうろするか、テレビをみるか、学校から借りてきた本を読むしかない、という環境で過ごしたせいかもしれない。学校の近くには団地があり、そこには同級生や他の子どもたちがたくさん住んでいた。あるとき何かのきっかけで、一度、団地に住む友達の家におじゃましたことがあって、カルチャーショックを受けた。えっ、友達の家こんなに近いの、毎日が修学旅行じゃん! もちろん小学生同士が近くに住んでいることの弊害というものはあり、忘れもしない小学五年生のある日、担任の先生が「このクラスに仲違いしている二つのグループがあることは承知のこととおもうが先生は両方のグループの言い分をこれから平等にききますので、順番に○○教室へ来るように」と言い始めたとき、かんぜんにきょとんとしたのがわたしだった。他の子はどうも事情を把握しているようで、順番に「事情をきかれに」行っていた。じつに、きょとんとしたままのわたしだけを残して。わたしも聞かれたかった! 家が近いとしじゅう遊ぶようになり、仲良しグループができると同時に対立グループもできていたのだ。小学生とはそういうものなのだ。そして一人僻地(学校から徒歩一時間チョット)に住むわたしは気づけばほぼトトロ的位置にいたのだ。とはいえ仲間はずれにされたりした記憶はないので、今思えば俗世から離れたその位置は居心地のよいものではあった。でも事情はきかれたかったよね! 小学生としては。so so ビターな思い出です。

 団地といえば、「ピカ☆ンチ LIFE IS HARDだけどHAPPY」という嵐(というアイドルグループ)の出演している映画を思い出すのだけれど、監督は堤幸彦で、八塩団地(モデルは東京の八潮団地)という架空の団地であれやこれやが繰り広げられている。愉快な映画だ。団地というのは実に不思議なところで、まず、人がものすごく集まって住んでいて、世間がある。それから小さな公園や謎の広場、非常にローカルなスーパーマーケット、住人が勝手に植えたであろう植栽など、俗というものを煮詰めたような気配が漂っている。気配というのがポイントで、たくさんの人が実際はそこに居住していても、日中はだいたいしんとしている。夜、窓にさまざまの明かりがついて、それを遠くから眺めたほうが、ほんとに人が住んでいるんだという実感が湧く。話を映画に戻すけれど、映画の舞台、八塩団地の場合は、大きな河に面していて、屋形船が付近を通過する(それが映画の重要な役割を担う)ところなど、景色が広がって、いいなとおもう。話の筋はほぼ忘れてしまったのだけれど、シーンのワンカット、景色ばかりが思い出される。映画とはそういうものなのかもしれない。そういえば、いちど天王洲アイルのあたりで、夜、初めて行く劇場になぜかたどりつけず、散々迷って、その団地のあたりで、暗い河を前に、光のようにそびえる団地群をみたとき、なにか圧倒されるものがあった。それはつめたく、しかしたしかに人の気配で、大きく見れば中州になっている、それ自体が船のようで、そのとき映画をもう見ていたのだったか見ていなかったのだったか、忘れたのだけれど、あの橋を渡ったら人の住む島なんだな、と思ったことをおぼえている。



 新緑の季節。木々を見ると、ブレているように見えることがある。細かな葉が新しく伸び、視覚的解像度がおいつかないのだ。椎の葉などの細かいのは、雨がけぶっているように見える。夏が来るのだ。



 トマトの実は順番に育つ。迷いはない。トマトこそ夏だ。階段状の夏。



 もじゃもじゃの木があった。おそらく花、もしくは夢。ネムの木ともちがう。でもすこしだけ似ている。似ている夢、みたいな木。この季節には、そういった、ウトウト科ネムネム属みたいなのがいきなり出現する。ネム、ブラシノキ、もじゃもじゃの、、、どれもふさふさで、やわらかい色をしている。かたく閉ざされた冬、ともすれば暴力的な春を超えて、季節は初夏。閉ざされていた地殻がほころび、木の根や幹、枝をとおして、地面のみている・かつてみていた夢が地上に出現しているのかもしれない。




*


 りんごビール

りんごのびーるをのみながら
りんごのことをかんがえる
ちきゅうがどのくらいまるいか
いまちきゅうのうえに何個ぐらい
りんごがあるだろうか
それがいっせいにじめんにおちても
ちきゅうはいまよりおもくはならない

あかいのや
あおいの
ころがる色をかぞえながら
ちきゅうをいっしゅうしてみたら
じぶんのおもさが
わかるだろうか
りんごのびーるは発泡して
すこし濁り
おとなだけが飲める
すべてのおとなはかつて
こどもとよばれていたが
もうだれもこどもとは
よばれないでいる
ちいさな泣き顔
そのおとながこどもだった
そのときを知っているひとは
おとなのなかに
かつて会ったことのある
こどもの姿を見るだろう

りんごのビールをのむことを
ゆるされるときがきても
すべての罪は重くならない
ちきゅうのりんごをすべて落として
だれかが
りんごビールをつくったら
わたしはそれを飲むだろうか
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