遠野真「さなぎの議題」について書いた前回の時評に、遠野さん本人から指摘をいただいたので、いくつか補足をさせていただく。
まず、〈虐待は舞台設定の小道具にするようなテーマではない。〉についてであるが、わたしの論旨は〈小道具〉になっていることの問題であり、テーマ選択の問題ではない。ただ、〈小道具〉という言葉の定義をせず曖昧なままで用いたことは文意の読み取りにくさを生んでしまい、申し訳なかったと思う。あくまで、作り物めいた思わせぶりな「虐待」のちらつかせ方は、作者の手つきがあまりに透けて見えるのではないか、舞台上の「設定」の域を超えて連作としての成功に寄与していないのではないかということである。(もちろん、〈小道具〉が実際の舞台において小さな役割しか果たしていない、という意味ではない。)
「〈虐待は小道具にするようなテーマではない〉という発言は、虐待が小さなテーマとして扱われるような人生や物語を否定してはいないか。」と遠野は言う。たしかに、「虐待を受けた人物がその虐待を小さく扱ってはならないというルールはない」(遠野)だろう。しかし、今回の「さなぎの議題」について、虐待を物語の一部にしたことが成功していると言えるだろうか。これもあくまで歌そのものに起因するものだと思う。「ガンジーが行進をする映像で笑いが起こる教室 微風」の歌において、教室への違和感が詩的に昇華されているのに比べて、意味深なアイテムを並べているだけに見えかねない虐待の歌の完成度はどうか。ただ、それゆえに「リアル」を損なっているのではないかと思うことも、そもそも「リアル」など求めてしまうことも、読者の勝手な期待に過ぎないのかもしれない。
今回の選考座談会では、「わたしだけ長袖を着る教室で自殺防止にテーマが決まる」の歌から「もしかするとリストカットの痕を隠しているのかもしれなかったり」(穂村)、「肉親の殴打に耐えた腕と手でテストに刻みつける正答」の歌から「家庭内暴力とかあるわけですね」(栗木)というような状況の想像にとどまっており、それらの歌そのものにどんな魅力を感じたのかについては言及されておらず、もどかしさを覚えた。少なくとも、遠野はこれらの歌を選考の場にまで持って行くことができているのだから、もっとこれらの歌に切り込んでいってもらえていれば、より面白かったのかもしれない。「子供から大人になろうとする時期の感覚」(穂村)、「子供と大人の境界にあって、心と体がアンバランスで、しかも抑圧のある時期」(加藤)を詩的に昇華している点が評価されているのは理解しうるが、どのようなひとでも通り過ぎていくと言えるような思春期の歌ではないはずだ。さらなる言及を楽しみに期待している。
〈自身を刺す〉についても、あくまで歌としての完成度につながる話である。作者自身への言及ではなく、まだ歌そのものに彫り込んでいく余地があったのではないかと思って述べた。(ただ、歌を彫り込んでいくという行為が作者自身にまったく跳ね返ってこないとは言えないと思うが。)遠野にしかできない表現が、もっと他になかっただろうかという期待がある。また、もっと生な感情(作者自身の現実の感情ではない。あくまで、作品上のである。)を見せてほしいという勝手な期待があったことは否定できないが、しかしこの発言については、曖昧な比喩を用いたがために混乱を呼んだと思われる。これについては〈小道具〉の曖昧さと合わせて陳謝したい。
ただ、ここまで書いて、筆者自身が引っかかりを覚えたところを再検討してみると、やはり「虐待」が詠み込まれていることそのものに反応したことも否定はできない。読者として、感情を刺激されないような内容ではないからだ。黒瀬珂瀾が『〈殺し〉の短歌史』(現代短歌研究会・編/ 水声社)において「〈殺し〉の短歌化の不可能性」、「なぜ歌人が〈殺し〉を歌わねばならないのかという問い」について論述しているが、「虐待」についてはどうか。黒瀬の論には、「定型という規範を生きる歌人には、〈殺し〉という強烈な規範逸脱は受け止めきれないのではないか。だが逆説的にいえば、〈殺し〉ではなく殺人事件自体を見つめることで、〈殺し〉を疎外化する社会そのものの姿を歌うことの可能性がある。強烈な規範逸脱性が社会にどう影響を与えるかを見届けること。それは、「事件」を歌うことを通して、今を生きる者としての歌人が、まなざしの痕跡を残すことである。」とある。この〈殺し〉がそのまま今回の遠野作品における「虐待」に適用しうるわけではないが、おそらく虐待を受けながら思春期を生き抜いている、おそらくは少女の物語(事件)としてこの作品と対峙することが、遠野の歌人としての「まなざしの痕跡」を見つけることが、作品の本質と向き合うための鍵になりえるのだろうと思われた。論考の余地がつきない問題ではあるが、ひとまずここで筆をおくこととする。
遠野の受賞後第一作「陸から海へ」(「短歌研究」2015年10月号)より。
ありがとうって☆のかたちの音がする 星を鳴らしたのは死者のゆび
ありがとうという言葉そのものからかたち、音への飛躍が面白い一首。遠野が今後、どのような物語を紡いでいくのか、一読者として楽しみにしている。
「〈殺し〉という強烈な規範意識」は「〈殺し〉という強烈な規範逸脱」、「阻害化」は「疎外化」です。
細かいところはともかく、上記二点だけ~。