「詩客」短歌時評

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短歌時評 第119回 フラワーしげるの短歌はどのように短歌なのか 田丸 まひる

2015-12-28 16:21:50 | 短歌時評
 フラワーしげるの『ビットとデシベル』(現代歌人シリーズ5/書肆侃侃房)は、2015年に出た魅力ある歌集のうちの一つだろう。緻密な写生、思考の明晰さ、大胆な破調だがリズムよく収まっている言葉の配置などに触れていると、フラワーしげるのもう一つの名義である西崎憲の『世界の果ての庭』『飛行士と東京の雨の森』などの優れた小説を読んでいる時と同じような心地がする。
 しかし、フラワーしげるの短歌は、西崎憲の小説には似ていても、他の歌人の短歌とは似ていない。勢いよくのびていくこの破調は、本当に短歌なのか。(そもそも短歌の定義って何だろう。五七五七七の定型を基本にしていれば短歌なのかという問いもあるが)フラワーしげるの短歌はどのように短歌なのか。いくつかの側面から考えてみたい。

 「短歌研究」2009年9月号では、第五十二回短歌研究新人賞の候補作として、フラワーしげる「ビットとデシベル」が取り上げられている。

 工場長はきびしい言葉で叱責し ぼくらは静かに未来の文字を運んだ
 小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく
 振りかえると紙面のような人たちがとり囲み折れているところ破れているところ


 この時の選考座談会では、穂村弘と加藤治郎が韻律についてそれぞれ言及している点が印象的だった。
 穂村「読んでいると短歌の韻律のある延長線上で読めるので興奮みたいなものを僕は覚えたんですけど、そのやり方として一つは、似たフレーズを繰り返すことで、五七五七七に相当している句の中に収納できるサイズ、量というか、情報量を増やすというのがあると思うんです。」(ただし「それが完璧に機能しているのかというとちょっと自信が持てない」と続いている)
 加藤「大正から昭和にかけての石原純、前田夕暮のころは、自分の生活感情を忠実に表現したいというモチーフで歌ったんですね。でも、この人は、はなから自分の生活感情を表現しようということなど思ってないところが、今までの口語自由律と違うところかと思います。」「非定型の問題、自由律の問題はまだ決着がついていないんだ、短歌でないよとするにはまだ問題を孕んでいる、もう一度考えてみたいと一票を投じたんです

 前田夕暮の「自然がずんずん體のなかを通過する――山、山、山」「俺はここにゐるここに飢えてゐると、ポケットの中で凍てついた 手がいふ」などの歌の韻律の伸びやかさ、情報量を絞ったことによる風通しの良さに比べて、フラワーしげるの歌には時に過剰とも言えるほどの情報が搭載されているが、韻律においては計算された抑制があるのではないかと今のところ考えている。また、モチーフにおいても、加藤の指摘するように、フラワーの詠っている内容は自身の感情などではなく、まるで小説のようである。この点は、翌年の「短歌研究」 2010年9月号で最終選考通過作品として、「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」が取り上げられた際にも議論に上がっている。

 ずっと片手でしていたことをこれからは両手ですることにした夏のはじまる日
 小さく速いものが落ちてきてボールとなり運動場とそのまわりが夏だった
 ぼくらはシステムの血の子供で誤字だらけの辞令を持って西のグーグルを焼き払った

(この歌は歌集収録時には「ぼくらはシステムの血の子供 誤字だらけの辞令を持って西のグーグルを焼きはらう」と現在形になり、よりシャープな形に改作されている)

 この年の選考座談会における応酬は、フラワーの短歌と、散文や小説との違いを見出そうとしている部分が興味深い。前年度はフラワーの作品を短歌の韻律の延長線上で読めると述べていた穂村弘が、この年は、フラワーの短歌が定型を意識していることを示しつつも「定型にすると何か消え去るものがあるような気が」すると指摘している。
 穂村「この人の世界と感じさせるものは結局散文性ではないのかと思えてしまいました」「やはりこれは散文で、そこに詩的な資産を投入したのかなと見えてしまう。逆には読めなかったんです。つまりこれは短歌で、そこに散文的資産が投入されているんだというふうには見えなくて、これをぱっといきなり見せられたらすごいポエティックな散文だと思ってしまうのではないかな。」「短い小説のように見えてしまう
 この指摘に反論しているのが加藤治郎である。
 加藤「散文性ということでいえば小説の中の一行ではけっしてないんですよね。これがもう全体で、これ以外のものは一切、前にも後ろにもない。」「百枚ぐらいの原稿を一行に凝縮した形がこれなので、散文性はあるけれどもやはり散文ではない。

 穂村の指摘は鋭いが、フラワーしげるの短歌は本当に小説だろうか。とはいえ、加藤の述べる〈百枚ぐらいの原稿を一行に凝縮した形がこれ〉についても検討の余地があると考える。フラワーの短歌の凝縮を融解させると、小説として読むことはできるだろうか。
 例えば超短篇小説なら、飯田茂実の『一文物語集』(e本の本)(『世界は蜜でみたされる―一行物語集』(水声社)の改訂版)があげられる。

 世界のすべての人びとを愛するために、彼女は電話帳を開き、ひとりひとりの名前を精魂こめて覚え始めた。
飯田茂実『一文物語集』


 その生き物は闇をこねて造るしかなく、朝が来るといつも未完成のまま溶け消えてしまう。
(同前)


 家族・知人ばかりでなく新聞配達人さえもふっつりと訪ねてこなくなり、彼女は埃の溜まった廊下に張った薄紫の繭の中で、数箇月前の新聞を何度も読み返している。
(同前)


 飯田作品は一文で物語として完結している。もちろん物語なので最後に結論があるわけではなく、余韻を残したまま閉じているものが多い。他方、フラワーしげるの短歌はどうか。

 あの舗道の敷石の右から八つ目の下を掘りかえすときみが忘れたものが全部入っていて、で、その隣が江戸時代だ
 どうしているのだ、甲羅は白く、複眼は暗く、蹄は割れて、燃やせば切ないものたちよ

 これらの歌に物語としての完結はなく、読者が補って読む余地が飯田の物語に比べて広い。これは凝縮というより、小説だとしてもその抽出ではないだろうか。そして、抽出された小説はもはや小説ではなく、背負える情報量(フラワー作品の情報量は他の歌人の短歌より多いが)や内容からしてもやはり短歌なのではないだろうか。もちろん、読者が補って読む余地のあるものが短歌である、という定義はない。しかし、一首の歌に搭載できる情景や思考は限られており、限られているがゆえに魅力があることもある、というのは言い過ぎだろうか。(この点からは、2009年の選考座談会で穂村が指摘した「情報量を増やす」には限界があると思われる。)

 前述したような韻律と内容については、同人誌『率』創刊号においてゲストとして呼ばれたフラワーしげるが自作への評論「時間と空間の歌学」を寄せている。そこではフラワーは、内容においては〈(近代および現代短歌に認められるような)リアリズム以前の呪詞的要素の濃い短歌を作って〉おり、韻律においては〈ほぼ自由である。したがって記憶するのは簡単ではない。〉と自身の短歌を評している。これはフラワーの言う通り〈多くの作者、そして近代短歌からの流れとは逆行する〉作り方だろう。ただし韻律においては〈一見散文に見えるが、繰り返しや音数によって、明らかに操作がされている。〉と述べられており、それは前出の座談会における穂村弘や、東郷雄二の橄欖追放のページ「第109回 フラワーしげる」にもおいても指摘されている。あくまでフラワーしげるの短歌は、短歌だろう。そして、短歌としての韻律が維持されているがゆえにフラワーしげるの短歌はリズムに乗って読むことができ、個人的にはフラワーの主張とは少し違って、記憶することは実際にはそれほど難しくないと考えている。フラワーしげるの短歌は彼自身の述べるように〈韻律においては呪詞から離れようとしている〉、つまり「離れている」のではなく「離れようとしている」状態なのではないだろうか。今後、フラワーしげるの第二歌集が出るとすれば、それは『ビットとデシベル』の世界がさらに革命された後の世界で、韻律において「呪詞から離れている」短歌が飛び出してくるのかもしれない。

 また、韻律に関係して、フラワーの短歌の長さについても述べるつもりであったが、これに関しては、かばんの久真八志が「数値でみるビットとデシベル~フラワーしげるの短歌は長いのか?」というレポートで優れた解析を行っているのでそちらを参照していただきたい。久真は〈フラワーしげるの短歌について、他の短歌の取りえる範囲よりも、文節数・語 数・字数・音数において長い作品が多い。「フラワーしげるの短歌は長い」という説はこの点では実態を正しく述べている。しかし他の短歌の取りえる範囲よりも短い作品があるため、この点では単純に長いとはいえない。〉と結論づけている。

 文体についての指摘もある。『誰にもわからない短歌入門』(稀風社)において三上春海は「おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ」「ホームに立っていると指先の分かれた少年がきてこの町では誰も短歌を知らないという」などの歌をあげて〈ここにあるのはこれらの「怪異」を何かの比喩や寓話としてではなく、それ自体として一元的に描こうとする態度だろう。この態度はある意味で写実主義のそれに非常に近い。〉と述べている。それに呼応して鈴木ちはねが〈かれの作品の異様さは着想の特異さや暴力性、大胆な破調などにあるのではなく、かれの文体それ自体から来るものであるとわかる。〉〈かれの記述(あえてそう称する)はただひたすらに等速、単線的であって、そこにはもはや原思考への憧憬、身体への郷愁というのは無い。〉と論じている。
 「一元的」「写実主義」「等速、単線的」という指摘はその通りだろう。怪異を扱った歌でなくても「近寄ってみると白く短い線は二本の煙草でそれが風に転がっている」などは丁寧な写実の歌であり、比喩に頼ってイメージを多元化させることを徹底的に排斥しているようである。

 もちろんすべてが写実に寄った歌なわけではなく、うつくしい比喩の歌もあり、それらを抜きにして語ることはできないが。

 海にすてる手紙をもつようにウエイターはコーヒーを下げていきぬ
 夜の駅に溶けるように降りていき二十一世紀の冷蔵庫の名前を見ている
 これからは生活をしなくてはいけない日傘のなかで日傘をたたむ


 さて、少しだけ内容の話に戻ると、フラワーしげるから「暴力」を抜いて語ることはできないだろうとも思う。あえて言えば、それは写実的に描かれる暴力である。暴力はただそこに存在しており、暴力に対しての情感や評価はない。行為の行われる瞬間においては純粋な、何も背負わされていない、まるで生物の本質のような暴力である。しかし、フラワーの作品に暴力が出てくるとき、そこには何かが這い上がってくるような鬱屈した心持ちが散見される。行為自体は写実的で淡々としているが、背後にあるのはきっかけのない暴力性ではなく、抑圧を基盤とした感情の動きではないだろうか。この点を、他の歌人の暴力性のある歌と比較してみることも面白いと思う。

 足萎えの敵を撃ちころして顔をあげれば虎のように晴れた空
 じゃあ、成功した友人を憎んで失脚させたいと思ったことのある人は用紙に○をしてください
 丁寧に暮らしている中年の女をすごく好きになって背後から性器をねじこむ


 ただ、性的な暴力(性器をねじこむなど)については、後述のような歌でバランスが取られていて、その意味はなんだろうと考えている。可愛げ、ではなく、情けないような印象の歌も写実的だが、この意味を考えるのも興味深い。

 おまえはあたしを送るだけでいいんだよ終電がないから感謝しろなんてぐちゃぐちゃ言うんじゃねえよとかたぶん思われている
 呼吸の荒い女の上で性器があまり固くならないことを嘆いている夏のはじめ
 比喩でなくおれのあそこは小物でしかし普段はあまり差しつかえなく


 以上、フラワーしげるの短歌について、韻律、散文や小説との違い、内容や文体について検討してきた。まとまりのない文章で申し訳ないが、フラワー作品の読みの何らかの手掛かりの一つになれば幸いである。

 最後に、余談だが、フラワーしげるの短歌は声に出して読むと面白い。

 小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく

 繰り返される「小さなものを売る仕事」を最初は速く、次にゆっくりと読んでみる。「それは宝石ではなく」では少しトーンを下げてみる。「彼女」の過去の希望は現実へと融解される。私見で恐縮だが、この短歌の魅力をいかに伝えようか考えると、決して平坦なリズムでは読めない。朗読のリズムを考えることを楽しませてくれること自体もフラワー作品の魅力だろうと思っている。
 東郷雄二の橄欖追放のページ「第167回 フラワーしげる『ビットとデシベル』」にも、〈フラワーしげるのやたら長い短歌は舞台での朗読に向いているのではないだろうか。近代短歌の31音の韻律に縛られないフラワーしげるの短歌を、緩急・強弱のリズムを付けて朗読したら、紙の上で読んでいるときとはまたちがったボエジーが生まれるような気がする。また緩急を付けることによって、ひょっとしたらふつうに朗読した場合の31音の尺になんとか収まるかもしれないなどと考えたりもするのである。〉とあり、強く同意する。

 以下、声に出して読みたいフラワーしげるの短歌をいくつかあげて本稿を終わりにしたい。

 生まれた時に奪われた音階のひとつを取りもどす涼しく美しいキッチン
 きみが生まれた町の隣の駅の不動産屋の看板の裏に愛の印を書いておいた 見てくれ
 星に自分の名前がつくのと病気に自分の名前がつくのとどっちがいいと恋人がきいてきて 冬の海だ
 きみが十一月だったのか、そういうと、十一月は少しわらった
 夜の駅に溶けるように降りていき二十一世紀の冷蔵庫の名前を見ている



#略歴
田丸まひる(たまるまひる)
1983年徳島県生まれ。未来短歌会所属。「七曜」同人。歌集『晴れのち神様』(2004年booknest)『硝子のボレット』(2014年書肆侃侃房)

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