「詩客」短歌時評

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短歌時評第124回 短歌は滅びないし此処にいますが何か。 野田かおり 

2016-12-24 15:07:05 | 短歌時評
 「短歌の未来というのは、日本の伝統文化というのが歴史性をもってずっときているわけだけど、それがどうなりますかなんて僕に訊かれても、僕の知ったことじゃないという。どうにもならないと思うね。自然にある経過として流れていく。」(岡井隆)
インタビュー=岡井隆、聞き手=東直子「短歌と非短歌の歌合-詠むことの永遠と新しさについて」(『ユリイカ あたらしい短歌、ここにあります』p105 2016年8月」)

 流されていくのではなく、流れていくのか、短歌は。と、このインタビューを読みながら思った。受動的ではなく歌人たちの意識をともなって能動的に流れていく、余白のある定型、と思っている。詠み手が泣こうが喚こうが定型はゆるぎない、揺らいでいるのは詠み手なのだろう。その意味で、「あたらしい短歌」とされるものは詠み手が多様になったということではないか。実際この号には、歌人だけでなく俳優やミュージシャンも歌を詠んでいて、時評子は短歌という定型の懐の深さを思う反面、もっともっと作品を読みたい歌人がいるのでどうしてこのひとたちだけなのだ!と歯がゆくなった(読者としての我儘でもある。歌人としては俵万智、斉藤斎藤、瀬戸夏子の歌が載っていて、評論もたくさんの歌人が執筆している充実の号なのだが。)正直、時評子は少しモヤモヤが残る号だったのだ…文芸誌でもっと歌人の歌を読みたい。
 ということで、岡井隆氏のインタビューの短歌観を信頼して、「短歌は滅びないし此処にいますが何か。」というテーマで時評を進めてみたい。最初にお断りしておくが、時評子は地方住まいなのでイベント等は網羅できないし、総合誌もすべて読み通すことはできない。でも読書好きの感覚で「ふーん、そういうことがあるわけね、短歌に今」という、そこそこにビシビシした文体で書いていきたい(兎角、場の熟成には良いが短歌の世界は内向きな議論が好きな傾向があると思われ、外を意識しつつ。)
 短歌は滅びない、そう思う。とある本屋さんにて、熊本の橙書店発の『アルテリ』という文芸誌を購入した。短歌を期待して買ったわけではなかったが、あとでゆっくり読んでいると石牟礼道子の短歌に出会った。石牟礼道子は、水俣病を「語り」という形態をとおして社会に問うた『苦海浄土』のひとであるし、最近出版された池澤夏樹個人監修の文学全集にも1巻まるごと入っている。『アルテリ』には浪床敬子執筆の「石牟礼道子の歌②」に以下の石牟礼道子の歌が紹介されている。

  人間の子なりよこれはこのわれの子なりといふよ眸をとぢておもふ

  人の世はかなしとのみを母われは思ひてゐるをせめられてをり

石牟礼道子『海と空のあいだに』


 『苦海浄土』とは別の、母としての石牟礼道子の顏をかいま見た気がして、この歌集は読みたくなって後で図書館で借りた。社会に物申すスタイルのひとと思ってきたが、ひとりの母親である石牟礼道子を知ることができて意味ある読書体験だった。こんなふうに短歌と偶然出会うのは面白く、文芸誌に短歌が掲載されてゆくことの醍醐味を感じた。
 東京赤坂の双子のライオン堂から出版された『草獅子』も興味深かった。「終末。あるいは始まりとしてのカフカ」というカフカ特集号だというのに、漱石・龍之介・プーシキンを詠んでいる堀田季何の歌。

  さいごまで残る五感は聴覚ぞ「はよ死なんかい」と誰か呟く
  
モスクワの「カフェ・プーシキン」名物のボルシチは濃し血の色をして

堀田季何「穴」


 …物騒である。まがまがしい歌だ。だが、会話体の鋭さや鮮明な色が記憶に残る。カフカのあれこれに期待してページをめくっていた読者には不意打ち、いや、毒のひとしずく。文芸誌に31文字がスパイスのように効くの、いいじゃないですかとニヤリとした時評子である。
 さらに、小説をはじめとする本好きたちがこの31文字の詩型のおもしろさに目を留めてるくれる可能性は『食べるのがおそい』にあるだろう。現在2号が発売されている。

  夕方のにおいがホームセンターで行き交う誰もが晩年めいて

岡野大嗣「公共へはもう何度も行きましたね


  東京2020にも君が代ならば君のかかとの桃色がいいさ
瀬戸夏子「二度と殺されなかったあなたのために」


 花鳥風月でもなく、作者=作中の「私」でもなく、この時代に生きている「わたしでもあるしあなたでもある〈私〉」の姿がこの歌たちに見え隠れする。郊外に、東京に、ある場所に。岡野大嗣の歌は、死に誰もがゆっくりと近づいていくことを郊外のホームセンターを訪れるひとびとに見ていて、日常に潜むほの暗さを読みとれるだろう。一方、瀬戸の歌は「東京2020」というオリンピック開催予定の2020年をマキシムの希望として、また「君のかかとの桃色がいいさ」とミニマムな希望を同時に差し出すことで、どこか祈りの言葉のように思えてくる。この時代の危うさが前提にあるからこそ、「ならば」という仮定でつながれている希望を生きるしかないわたしたちなのだろうか。生活の裂け目にもがく生活者の声が聞こえてはこないだろうか。短歌は31文字という詩である。その31文字には小説に負けないくらい伝えられるものがある。ただし、その一首の情報量を読み解く力は読者にも求められ、その意味でも余白のある定型と考えられる。
 最後に、山﨑修平がキュレーターをつとめるシリーズの三冊目『Wintermarkt』。今回は寄稿者に「あなたのギリギリの現代短歌を読ませてください」と依頼があり、それぞれが詩型への挑戦を試みている。

  車椅子を降りようとして美しい筋肉きみがマルボロを吸う 
嶋稟太郎「四辺系」


  夜の橋に誰もをらねばちつぱいと風に呟く酸つぱきことば
滝本賢太郎「ショートパンツ」


  その銃のうしろにつめたい湖(うみ)があるあなたの顏を映した湖が 
服部真里子「火はその野を越えて」


  今にも橋に夕日が落ちてけれどさあこんな場面はすぐに終わるよ
山﨑修平「ナターシャと私」


 ここでは全作品を紹介できないし、「私にはギリギリには思えないけれど、あなたはギリギリと思っているのね」という対話のきっかけになる歌も掲載されていて一読する意義がとてもある。時評子が特に記憶に残ったのは滝本賢太郎の作品である。作中の「私」はドイツに留学しており、異文化のなかで「ちつぱい」と呟くとき、自意識にからめられる生活に風穴が空くのかもしれない。一読者として「ちつぱい」は日常に使う予定が今のところないのだが、一首のなかに置かれると言葉への欲望を喚起される。
 冒頭の岡井隆の「自然にある経過として流れていく。」とは、こうした歌人たちの試行錯誤に支えられている。短歌は言葉を、あるいは多様な詠み手の文体をこれからも貪欲に蓄えて滅びることはないだろうし、文芸誌をきっかけに短歌人口の増加を期待したい。短歌は滅びないし多様な歌人たちが此処にいますが何か、と表明しておきたい。


野田かおり 未来短歌会、アララギ派短歌会会員 第一詩集『宇宙の箱』(澪標 2016)

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