「詩客」今月の自由詩

毎月実行委員が担当し、その月に刊行された詩誌から1篇の自由詩を紹介します。

第4回 タイトル:「黄色いバス」秋亜綺羅 亜久津 歩

2017-09-13 14:29:12 | 日記
 「今月の詩」、8月。この夏は詩誌、詩集はおろか一篇の作品を読むことさえ叶わなかった。幼児長男の夏休みに加え、乳児次男のやんちゃぶりは日に日に更新されている。詩を読むには体力がいる、は本当だった。それから静寂と、空きスペースも。

  ここは、逃げ出したい場所なのか
  それとも、逃げ込みたい場所なのか


 かつてわたしにとって、詩はシェルターだった。掻き疲れた手足を冬の虫のように折り畳み、現実の靴底から逃れうる愛すべき異界だった。今は? 洗いたての肌着を透かす午後の日差しに、積み重なった本の影が身を竦める。音もなく乾いていく。

  雨が降っていない日
  ひきがえるは雨のことばかり考えていました


 隙を見て詩を前にすると、今度は身構えてしまう。書くにせよ読むにせよ――感想を述べようとするときが最も酷い、妙に格好つけて強張るのだ。先の春で36になったが、詩はいよいよわからなくなった。知るほど遠去かる。昔はただ、傍にいたのに(離れたのはわたしの方か)。

  見えないふりをすると
  見えるでしょ


 さあ8月刊行の詩誌から選ぼう、できればあまり知られていない方を、と考えたものの。硝子のようにかけらが抜けず――あるいは侵食され――結局、素直に従う。

  黄色いバス   秋亜綺羅

  きみを待っているあいだに
  核戦争がありまして
  いちめんの真っ黒い空です
  無数の黒鉛筆が降り注いでいる

  ラジオの天気予報は
  あしたは晴れるべきだ
  と繰り返しています

  売れやしないとわかっている絵の
  額縁を作っていた画廊主はお手上げです

  死んでも埋葬される土地など、もうどこになく
  生きて見上げる空すらない

  死刑も廃止になり
  最高刑は懲役三〇日になりました
  ただし食事は与えない

  予定ばかり作って暮らした男も
  いよいよあすは、ありません

  雨が降っていない日
  ひきがえるは雨のことばかり考えていました

  時間はどのくらい止まったままかを
  正確に刻んでいる時計がありました

  きみは元気だという風の便りを知りました
  きみは病気だという風の便りもありました

  ここは、逃げ出したい場所なのか | 見えないふりをすると
  それとも、逃げ込みたい場所なのか | 見えるでしょ

  終点という名のバス停のまえで
  きみを待っているあいだに


(季刊「ココア共和国」vol.21 より)


 タイトルから、思わず「黄色い救急車」を連想する。発狂した者が収容されるという都市伝説の、アレ。ぺかっと明るい塗装はどこか胡乱で、悪夢的。実際にある黄色いはとバスや幼稚園バス、「十勝バス」にそういった印象は受けないが、詩の頭上に置かれたそれからは、幽かに不穏な匂いが漂う。

 まず「きみ」を黄色いバスと捉えて読む。バスを待つうちに核戦争が起こり‥‥‥いや、「きみ」の健康に関する「風の便り」があるから違う。では、この語り手がバスかもしれない。黒い空、尖った雨が塗り潰す土、絵空事を謳うラジオ、塞がれゆく人々を尻目に運行する、狂者のための黄色い箱。お、それっぽい。しかし、終盤がしっくりこない。「終点という名のバス停のまえで」に立ち止まる。

 ならば、バスに乗ろうと「私(ボクでもいい)」が「きみ」を待っている、ではどうか。‥‥‥どこか引っかかる。この語り手は「終点という名のバス停のまえ」で、いつまでも、今も、「きみ」を待っているのだ。戦争が起こり、終わり、民も制度も軋みながら動き、待ち人に纏わるいくつかの噂が過ぎゆくほどの長い間。きみ、この世にいるの?

 そして。たとえ「きみ」とバスに乗れたとしても、そこは「終点」だ。来ても来なくても、どこへも行けないじゃないか。

 ああ。ああ。この語り手こそ死んだのだ。だからこそきみを、見えないからだで、終点まえで、待ち続けている。黄色いバスに乗るために。終点の先――泉へと共に、旅立ちたくて。

 あるいは「きみ」とは今、この詩を読んでいるきみ、かもしれない。

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