短歌周遊逍遥(仮題)〔旧「詩客」サイト企画・「日めくり詩歌」〕

3名の歌人が交替で短歌作品を鑑賞します。
今年のご執筆者は奥田亡羊、田中教子、永井祐(五十音順)のお三方です。

2013/4/3 〔奥田亡羊・7〕

2013-04-03 00:00:00 | 奥田亡羊
東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる    石川啄木『一握の砂』

石川啄木は26年の生涯で、家族、病気、仕事、貧困、都市、故郷、初恋など近代短歌のカードをすべて揃えてしまったのだから、やはりすごい歌人だと思う。

「東海の小島の礒の白砂に」の歌は『一握の砂』の巻頭の一首である。
短歌を知らない人でも知っているほど有名な歌だ。

「東海の小島の礒」がどこなのかについては議論がある。ある人は函館の大森浜海岸だといい、ある人はそこに蟹はいないという。そんな論争を読むのも楽しいのだが、わたし自身はこれまでも指摘されているように、「日本」と大きく捉えるのが正しいのではないかと思う。中国、あるいはヨーロッパを中心として「東の海に浮かぶ小島」としての「日本」である。そんな地理の授業のような話は歌の鑑賞に関係ないという声も聞こえてきそうだが、この歌の「東海の小島」という視点はじつは非常に重要な意味を持っている。

日本を「東洋の小さな島国」ととらえる考え方は明治の初めからあって、福沢諭吉などは、だからこそ西洋文明の導入を急ぎ、日本を西欧諸国と肩を並べる文明国にしなければならないと主張した。さらに明治20年代にはいって、志賀重昂が『南洋時事』という本で、南洋の小さな島々の列強による植民地支配の現状を報告し、同じく東洋の小国である日本の未来に警鐘をならした。日本の小国意識をナショナリズムに転じたのが志賀重昂である。欧米の植民地化への脅威に対抗すべく、日本は富国強兵政策を押し進め、結果として日清・日露戦争に勝利するが、このときも大国に対する勝利を誇張するかのように「東洋の小さな島国」という言葉がセットで語られた。つまり、日本を「東洋の小さな島国」ととらえる考え方は、日本の近代化や帝国主義と表裏一体の関係になっていたのである。

このように考えるとき、啄木の「東海の小島」も特別な意味をおびてこないだろうか。この歌が「明星」に発表されたのは日露戦争の勝利から2年後の明治41年。「強さ」が国是として求められた時代に、泣きぬれて蟹とたわむれる啄木の「弱さ」は、帝国主義への道をひたはしる日本への本質的な(あるいは本能的な)批判であったはずだ。啄木の「弱さ」の意味はもう一度、時代との関係で見直されなければならない。

余談になるが「東海」という言葉は、直接的には啄木が愛読した野口米次郎の詩集『東海より』から来ているという指摘もある。最近、鈴木範久の『内村鑑三とその時代』という本を読んでいて、野口米次郎が志賀重昂の家で書生をやりながら慶応義塾の中学科に通っていたという一文に出会って驚いた。志賀重昂とヨネ・ノグチと啄木と、思想も個性もまるで異なる3人を「東海の小島の磯の白砂に」の歌がつないでいるように感じたからだ。


執筆者略歴
奥田亡羊(おくだぼうよう)
1967(昭和42)年生まれ。「心の花」所属。
2005年、第48回短歌研究新人賞受賞。2008年、歌集『亡羊』により、第52回現代歌人協会賞受賞。


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