短歌周遊逍遥(仮題)〔旧「詩客」サイト企画・「日めくり詩歌」〕

3名の歌人が交替で短歌作品を鑑賞します。
今年のご執筆者は奥田亡羊、田中教子、永井祐(五十音順)のお三方です。

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2013/12/30 〔永井 祐・27〕

2013-12-30 00:00:00 | 永井祐
誰一人 客はわらはぬはなしかの(タクミ) さびしさ。われも笑はず        釈迢空


わびしい・・・
最近寒いし、なんとなく心がこんな歌に寄って行って、最終回ですがこの歌に
なりました。
「はなしか」は、落語家です。「(タクミ)」は、ある種職人なのでそういう風に言っているんでしょう。
主体は寄席に入ったんですね。でも誰一人笑っていなかった。
さびしい・・・私も笑わなかった。
そういう歌なんですけど、ほんとなんですかね。
すごく、ツッコミたくなりますよね、この歌。
あんたが圧倒的に沈潜した気分だったからそういう風に感じたんじゃないん
ですか?って。
でもツッコミたくなるのは歌の美点だと思います。本気度が高いほどツッコミたく
なりますし。
「われも笑はず」わたしも笑わず、年末のスケジュールを粛々とこなしていこう
という気分になります。
わびしく、さびしいけれど、なんとなく落ち着く歌です。
身を縮めて防御力を上げ、あたたかい春を待ちたい。

少し前に篠弘『近代短歌論争史』という本を手に入れたりして、アララギの
初期メンに興味を覚えるようになりました。この連載も初回が文明、最終回が迢空
となっています。
アララギというのは近代の短歌を制した最強の集団で、この本にはその一番
華やかな世代の活躍がけっこう詳細に書かれています。
黒バス風に言えば「キセキの世代」です。
たわむれにあてはめれば・・・
島木赤彦=赤司、斎藤茂吉=青峰、古泉千樫=黄瀬、土屋文明=緑間、
みたいな。そして今日の釈迢空が黒子。
たわむれですけど。

では
今まで読んでくださってありがとうございます。
二週間に一回はけっこう忙しかったけど、楽しくやらせてもらいました。
またどこかで。



執筆者略歴
永井祐(ながいゆう)
1981年生まれ。
2012年第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』刊行。
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2013/12/25 〔奥田亡羊・26〕

2013-12-25 00:00:00 | 奥田亡羊
われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり  馬場あき子『飛花抄』
 

最近、年代物の万年筆を扱う店をふらっと訪れるようになった。

1950年代のモンブランの万年筆を試筆していたとき、
店の主人がモンブランのホワイトスターはダビデの星だと教えてくれた。
創業者がユダヤ人で、戦時中のモンブランを見ると、
かわいそうになるぐらい材質が悪いのだという。

次に主人は一本のゾネケンを出してくれた。
ゾネケンは、かつてはドイツを代表する総合文具メーカーだった。
万年筆から家具までつくっていたらしい。
ちなみに戦前のゾネケンにはドイツ国家の象徴である鷲がペンをつかむ
マークが入っているものもある。

手にとるといかにもドイツの万年筆らしい確かな造りである。
それでいて繊細で、しかもさりさりと紙を引っ掻くような
本格的な万年筆の書き心地だ。
戦後まもなくのころに造られたものだという。
不意にぞわっとする胸騒ぎを覚えた。
何かを察したのか、主人は、そのペン先には
ユダヤ人の金歯が入ってるんだと冗談めかして笑った。

およそ荒唐無稽な話である。
しかし、たしかに万年筆にこもる何かがあり、
わたしの中にもそれに反応する何かがあった。

宙に浮いたわたしの思考が最後にたどりついたのが馬場あき子のこの歌だ。
個人の時間を超えて継承される記憶や感情があるのではないか。
識域の既知と未知の境界にたたずむ自分自身、
それを人は鬼と呼ぶのである。


執筆者略歴
奥田亡羊(おくだぼうよう)
1967(昭和42)年生まれ。「心の花」所属。
2005年、第48回短歌研究新人賞受賞。2008年、歌集『亡羊』により、第52回現代歌人協会賞受賞。
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2013/12/20 〔田中教子・26〕

2013-12-20 00:00:00 | 田中教子
青旗の葛城天に近ければうなかぶし咲くかたかごの花          猪股静彌


 この歌の作者は今はもうこの世にいない。土屋文明の弟子であり、万葉集研究家として人生を歩んだ人物である。また、葛城山のツツジ祭の歌を作詞した人物であり、葛城とはいささかかかわりが深い。
 初句は万葉集の「青旗の」という言葉からきたものだがということは、誰にもすぐにさっしがつく。万葉集の「青旗の」は巻2・148、

  青旗の木幡の上を通ふとは目には見れども直に逢はぬかも(2・148)

という倭大后の歌が有名だが、巻4・509には、

・・・青旗の 葛城山に たなびける 白雲隠る 天さがる 鄙の国辺に・・・(4・509)

という歌があり、「葛城山」にも用いられている。当該歌はその方を意識したものであろう。
 古来万葉集の「青旗」がなにをさしているかは大きな問題であった。契沖は、「木ノシゲリタルハ青キ旗ヲ立テタラムヤウニ見ユレバナリ」(代匠記・精)と、言っている。これは新編全集で、「杉檜などが密生する山の茂りを、青い旗の群がりにたとえた比喩であろう」(新編全集)としているのとおなじことである。一方で、また枕詞とする説も根強い。だが枕詞にしては「青旗の木幡」「青旗の葛城」「青旗の忍坂」という風にかかるべき山の名称がばらばらであるように見える。また、ほかに比喩ではなく実際に青旗をたててある景だろうとする説もある。
 掲出歌の「青旗」の場合は、枕詞的に解釈されているものと見られる。古代より日本人の魂のふるさととしてありつづけた葛城山の形容として位置づけられるているのである。歌意は「葛城山は標高が高いので天に近い。だから、カタカゴの花がうなかにし(うつむいて)咲いているのだよ」という。葛城山はカタカゴの群生地であり、カタカゴはなるほど「うなかぶし」咲いている風情がある。山の霊のまえでカタカゴが生きることを許されているような神妙な感覚である。この生きるの許された小さなカタカゴこそは作者自身の生命につながる感覚であるように思われる。
 掲出歌をみていると、旧制一高寮歌の

  旗の小旗にゆれて あらゝぎに瑞しき光(旧制一高寮歌)

というくだりなども思い出すところもある。敗戦後の昭和21年に復活した全寮制を祝して行われた58年祭の折の歌であるが、この歌の感覚は、敗戦後の日本人の心を象徴しているもののひとつであろう。敗戦後すぐの正月に土屋文明が、

  垣山に たなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ   土屋文明

と詠んでいるように、日本人にとって大和青垣は心のふるさとであり、日本人であることのよりどころでもあった。それは、戦争に行って帰らなかったものたちが皆「倭をぐな」であり、「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」と歌った倭建命に仮託されていたからでもある。
 作者は学徒動員で特攻隊に入り生き残った。その心には、いつも戦争で亡くなった人たちへの祈りと生き残った我が身にたいする赦しをもとめる気持があったにちがいない。その赦しを乞う気持が「青旗の葛城」に象徴されている歌であると思われる。



執筆者略歴
田中教子(たなか・のりこ)、1967年生、「アララギ派」所属、現代歌人協会会員、日本歌人クラブ会員。
2008年第3回中城ふみ子賞受賞。英文対訳歌集『乳房雲』(短歌研究社 2010年)、随論集『ことのはしらべ』(文芸社 2012年)
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2013/12/16 〔永井 祐・26〕

2013-12-16 00:00:00 | 永井祐
逆さまにメニュー開いてさし出せばあす海にふる雨のあかるさ        服部真里子


わたしはこの歌の上句がたいへん好きです。
なぜかファミレスが思い浮かぶのですが、そういう系の、それほど高くない
飲食店ですね。チェーン系でなくてもいいですが、でもやっぱりチェーン系が
いいな。喫茶店でもいいのか。でも雰囲気出過ぎるので、やっぱりファミレス・・・
はじめからもごもごすみません。
とりあえず飲食店で人と対面していて、主体はテーブルにあるメニューを取り、
ごく自然に「逆さまに」開いて、相手に見せたのでした。
もちろん相手に見えやすいように「逆さま」なんですね。
これですね。

前回、エロスと暴力の相関関係の話がありました。この二つを止揚する三つ目の
力(フォース)が、こういうものなんじゃないかと、わたしは何となく思います。

普通にやさしいわけなんですけど、「本当のやさしさ」とかじゃなく目に見えて直に
感じられるそれ。ごく自然な。ごく自然というのは書いてないんですけど、文体か
らそんな感じがします。
関係性の取り方としてもいいですよね。へりくだってるわけじゃなくて、
イーブンに対面してるというのがいい。
逆に言うと、主体はまず相手向きに出すことによって、ジェントルかつイーブンな
空間を作ろうとしているのかもしれません。三つ目の力(フォース)によって、
ほかの二つのフォース、エロスや暴力を牽制している、という感じもします。

わたしはこういうシチュエーションでついついお互い見られるように「横向き」で
メニューを出しちゃいますね。でもなんだろう、何となくそれはフェアネスを
担保しに行ってる感があって、あまりいい手ではない気がする。
ごく自然に相手向き。それが人間界を統べる三つ目の力(フォース)です。

下句は普通に順接するイメージだと思います。
清潔感があって、相手とクロスしていく方向ではなく、ふんわりとやさしく叙情的な。
「~ば」で繋いで大きくイメージを合わせるのはちょっと構造がかっちりし過ぎな気もしますが、好きな歌でした。



執筆者略歴
永井祐(ながいゆう)
1981年生まれ。
2012年第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』刊行。

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2013/12/11 〔奥田亡羊・25〕

2013-12-11 00:00:00 | 奥田亡羊
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山      西行『新古今和歌集』                         


私の愛する西行のうたである。

佐夜の中山は今の静岡県掛川市にあった東海道の難所で、
歌枕として知られていた。

西行は生涯に二度、みちのくへ旅している。
この歌は、西行が六十九歳のとき、東大寺大仏再建の
沙金勧進のため奥州藤原氏のもとをたずねた二度目の旅で詠まれたものだ。
一度目の旅は二十代のころ。四十年ぶりに佐夜の中山を踏んだ感懐である。

年老いてまたこの佐夜の中山を越えることになると、
あのとき私は思っただろうか。いや夢にも思わなかった。

そして「命なりけり」の一語である。

この歌を読むたびに思い出すことがある。
二十年前になるが、
私は仕事の用事で大坂の千里ニュータウンをバイクで走っていた。
信号待ちでふと目をあげたとき、あたりの景色がまぶしくなって、
突然、涙があふれて止らなくなった。

信号の向こうに、私より年の若い母が立っていた。
遠くから私を見守る眼差しも白い服もすべてが鮮明だった。
そこは私が初めて迷子になった場所だった。
泣いていた私をなぜ母が呼ばなかったのかも一瞬のうちに理解できた。

人間の記憶というのは不思議なものだ。
風景と出会うことで自分のもっとも深いところに眠っていた記憶が甦る。
そのとき人は唐突に老いるのである。


執筆者略歴
奥田亡羊(おくだぼうよう)
1967(昭和42)年生まれ。「心の花」所属。
2005年、第48回短歌研究新人賞受賞。2008年、歌集『亡羊』により、第52回現代歌人協会賞受賞。
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2013/12/6 〔田中教子・25〕

2013-12-06 00:00:00 | 田中教子
呼吸し得る空気の量が絵の中にいまだ足りぬと苦しみてをり          長森聰 『寒色暖色』(現代短歌社 2013年6月21日発行)


 画家である作者は、絵を描きながらその絵のなかに感じられる空気の量を思っている。(人間が呼吸し得る空気の量を描かなくてはならない)と自問しているのである。果たして、これまで絵の中の空気の量を気づいて歌にした人はいただろうか。長森氏のこの感覚の斬新さに心より敬服せずにはいられない。

 実は私も学生時代にすこしばかり絵をやっていた。その折に気づいたことであるが、絵の中に空気を感じるものは確かにある。私が最初にそれに気づいたのは、二十歳の時、日本美術史の授業で狩野正信の絵を見たときだった。狩野正信は狩野派の祖である。それまでほぼ西洋絵画の世界しか知らなかった私は正信の絵に強い衝撃を受け、その後しばらく、空気のある絵を描くことに取り憑かれたのだった。だが、空気のある絵を描くことは容易なことではなかった。長森氏も同じようなことを考えながら絵を描いておられたことを知った。

 氏は、現在、春陽会審査員であり、油絵を中心に花などの生物やフランスの風景を描いておられる。氏の絵には、いつも「詩」が感じられる。具体的に言えば、色彩による訴えかけのインパクトや造型の曖昧さからくる余情が「詩」に似ていると思われる。絵に「詩」があるというと不思議に思われるかもしれないが、絵のなかには、「詩」のあるものとないものが確かにある。「詩」のある絵とは、物語のように詳しくはないし、科学的な細密画とは対局にある。これは、良し悪しの問題ではなく、生まれつきの性格からくるものだろう。この集の表紙「兎の壺とアネモネ」という油絵は、青の背景に赤いアネモネが描かれているが、この赤には情熱、青から黒に近い部分には哀感が余情のように響いている。

 一方、長森氏の歌には画業がたびたび詠われているが、もし、歌のなかに画業があらわれていなかったら、ただふわふわとしているばかりだったであろう。絵に内在する「詩」のほうは最初から備わっていたのだろうが、歌を詠むことで内面がさらに深まったに違いない。長森氏の絵と歌は分離することの出来ない関係にあり、長らく互いを高める要素であったに違いない。



執筆者略歴
田中教子(たなか・のりこ)、1967年生、「アララギ派」所属、現代歌人協会会員、日本歌人クラブ会員。
2008年第3回中城ふみ子賞受賞。英文対訳歌集『乳房雲』(短歌研究社 2010年)、随論集『ことのはしらべ』(文芸社 2012年)

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2013/12/2 〔永井 祐・25〕

2013-12-02 00:00:00 | 永井祐
五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声     小野茂樹


アンニュイでいいですよね。
「五線紙」はあの楽譜の、音符を記すための用紙です。
電話してて「きみ」の声が音楽みたいだなって思ったということですね。
かなりスカしている。
「のりさう(そう)だな」フッ
っていう感じで。
この歌はシャア・アズナブルの声優、池田秀一さんの声で再生されます。
わたし的には。
「遠い電話」がけっこう重要で、
こう、青年期っぽい離人感がありますよね。
<ぼく>から世界が遠ざかって行って、空虚さと美しさが交互に去来する、
みたいな。
「きみ」の話きいてる感じしないですし。
見下し感すらありますよね。
けっこう人をムカつかせる歌なんですよね。
でもそれこそが色気を生んでいる。
人は正しいだけではエロくはなれない。
エロスの王国に入るには暴力の門をくぐらなければならない。
名言みたいに言ってすみません。

テクニカルなところで、結句が8音の字余り、これは効いてます。
「はずむきみのこえ」は刻みが細かくて、流麗な韻律ではないけれど、
なんかこう、上手過ぎないライブ感があると思います。
弾んでる感なのかな。
あと、上句の「だな」はやっぱり効いてますよね。アンニュイ出てるし、
この歌の韻律感を独特のものにしていると思います。


執筆者略歴
永井祐(ながいゆう)
1981年生まれ。
2012年第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』刊行。
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2013/11/27 〔奥田亡羊・24〕

2013-11-27 00:00:00 | 奥田亡羊
奇怪なる山本リンダの活動をたたみのうへに立ちつくし見つ         小池光『草の庭』


可笑しさで忘れられない作品がある。
わたしにとって小池光のこの歌がそうだ。

山本リンダが歌っていたのはわたしの子ども時代。
おヘソが見える衣装で「ウララウララ」と叫びながら、
舞台を右へ左へ踊りまくっていた。
見てはいけないものを見ているような、
それでいてどうにも眼が離せないあの唐突な感じを、
「奇怪なる山本リンダの活動」とひとことで言ってのけるところなど
読むたびに笑ってしまう。

この歌の可笑しさはそれだけではない。
何かにつけ過剰なのである。
「奇怪なる山本リンダの活動」もそうだが、
「立ちつくし見つ」もまるで完了形が二つ重なっているかのようだ。
山本リンダに呆然と立ちつくし、その上、
あろうことか最後まで見てしまったのに違いない。

さらに極めつけは「たたみのうへに」。
この部分は歌の文脈とまったく関係ない。
わざわざ言う必要のない言葉がごろんと転がっているのだ。
山本リンダに茫然としているはずの〈われ〉を、
冷静に見ている眼はいったい誰の眼なのか。
山本リンダを見た〈われ〉の戸惑いを、
読者の脳裏に起こる混乱と一緒に手渡している。

山本リンダという歌手も過剰であったように感じるが、
それに対する〈われ〉の驚きはそれに輪をかけて過剰だ。
驚き過ぎなのである。


執筆者略歴
奥田亡羊(おくだぼうよう)
1967(昭和42)年生まれ。「心の花」所属。
2005年、第48回短歌研究新人賞受賞。2008年、歌集『亡羊』により、第52回現代歌人協会賞受賞。
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2013/11/22 〔田中教子・24〕

2013-11-22 00:00:00 | 田中教子
「Tanka to Eat」


 このたび、2014年3月にオーストラリアで短歌の評論を翻訳出版する予定です。題名は「Tanka to Eat」としました。これは、近現代の秀歌の中から野菜をテーマにとりあげました。巻頭の一首をご紹介したいと思います。


     there were vegetables
     and we ate vegetables –
     no rush

     to draw the conclusions
     of a lifetime
                Kogure Masaji


これは、小暮政次氏の、  

  野菜あり野菜を食へり一生の結論などいそぐこと勿れ

という歌をアメリア・フィールデン氏と小城小枝子氏が翻訳しました。小暮政次氏は戦後「アララギ」で活躍した歌人でした。
 この歌の「野菜あり野菜を食へり」は、当たり前の慎ましい生活を象徴しています。このような慎ましさのなかで、「一生の結論などいそぐこと勿れ」というのは、仕事の成果を誇ったり、自分自身の存在に値打ちをつけるなど、無闇に己を追いつめる事はない、焦ることはない、という心持ちでしょう。淡々とした中に我慢強さと潔さを感じさせる歌です。
 些か哲学的な響きをもつこの歌が、英語圏の人々の心にとどくことを願ってやみません。



執筆者略歴
田中教子(たなか・のりこ)、1967年生、「アララギ派」所属、現代歌人協会会員、日本歌人クラブ会員。
2008年第3回中城ふみ子賞受賞。英文対訳歌集『乳房雲』(短歌研究社 2010年)、随論集『ことのはしらべ』(文芸社 2012年)
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2013/11/18 〔永井 祐・24〕

2013-11-18 00:00:00 | 永井祐
京へ往く自動車(くるま)一台目の前をよぎるこころの柱くだきて      正岡豊


なんだろう、けっこう変わった歌ですね。
難解といってもいいと思う。興味ない人はスル―しちゃいそうな歌です。
まず上句にノイズが多いですよね。
と、その前に読み方からいくと、二句三句が「自動車(くるま)一台」「目の前を」です。
「一台目」じゃないと思います。
そして、四句が「よぎるこころの」。で、「よぎる」で切れる。句の途中で
切れるので前にやった「句割れ」になっています。「よぎる。こころの」
となる。
叙述としては平易といえば平易ですが、このようになかなかうるさい。
かつ
「自動車」に「くるま」とルビがついてるのもなんか気になる。
そして
「こころの柱くだきて」は、かなり唐突です。
状況としては、京都へ向かう車が自分の目の前を通った。それで心の柱が砕かれて
しまった、ということですけど、
この「こころの柱くだきて」はすっと納得するのなかなか難しいと思います。
短歌だと、たいていの場合は上句と下句がお互いを支え合うのですが、
この「こころの柱くだきて」は上句に受けてもらえてないんです。
論理的にも、イメージ的にも。
少なくともぴったりとは受けてもらえてない。
上句はノイジー過ぎです。京都が「京」もけっこう不思議だし「往く」も
なんか気になります。
でも・・・
でも・・・
ここである逆転が起こります。下句の「こころの柱くだきて」の受け止めて
もらえなさ、行き場のなさ、唐突さ、それ自体がある切実さを感じさせるんですよね。

その自動車がわたしの心の芯を砕いてしまったこと、そのことはこの世界の誰にも
共有されない。誰ひとり知ることない場所で心は砕け散ってしまった。
そのことをこの歌って、文体レベルで表現しているとも言えると思うんです。
その唐突さには必然性があるんです。
共有できなくても、心の柱の砕ける轟音をわたしたちは聞くことができます。
わたしたちにできるのはそれだけで、そしてそれだけであるべきだ、とこの歌は
言っているような気がします。

どうでしょうか? 読み過ぎ? 屁理屈?
でも、「現代短歌」とか言いますけど「現代~」ってつくものって、
たいていこういうやっかいな経路を通ってわたしたちの心に届くものです。
そのやっかいさはわたしは好きだし、豊かさの一つだと思います。


注・この歌の入っている「君は」という連作は「君」の死を暗示させる歌を
たくさん含んでいるので、その流れで読むべきだという考えもあるかと思います。



執筆者略歴
永井祐(ながいゆう)
1981年生まれ。
2012年第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』刊行。
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2013/11/13 〔奥田亡羊・23〕

2013-11-13 00:00:00 | 奥田亡羊
三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや         
山中智恵子『みずかありなむ』



山中智恵子の代表歌に数えられる一首である。
月を人として相対するかのような、なまめかしさだ。
月をはじめて月と呼んだ古代人の存在を生々しく感得するところに、
山中智恵子ならではの詩の世界がひらけている。

たしかに山中智恵子には突出した想像力と巫女的とも評された
独特の感覚がある。しかし、この歌にしても、
まったく何もないところから生まれたわけではないはずだ。
山中のイメージを飛翔させるためのきっかけになったものは何なのだろう。

この歌を読むとき、わたしが思い浮かべるのは長谷寺の観音である。

歌の背景を考えてみたい。
「三輪山」の背後からのぼる月を見たということは、
作中主体の立ち位置は三輪山の西、敷島の地になるのだろう。
敷島は現在の桜井市。飛鳥に都が置かれる以前、
崇神天皇や欽明天皇が宮を構えたという日本の原郷である。
そして、敷島から見て、三輪山の背後にあるのが長谷寺だ。

長谷寺の創建は天武天皇の時代と言われているが、
日月の上る初瀬の谷は、命の生まれ来る聖地として
長谷寺が建てられるよりも昔から古代人の信仰を集めていた。
また長谷寺の本尊である長谷観音も、度重なる火災にあい、
現在の像は安土桃山時代に再興されたものであると聞くが、
その異様な大きさと大地を統べるかのように錫杖を突いて立つ姿には、
古代人の信仰がそのまま息づいているように感じられる。

保田與重郎の「長谷寺」という随筆に観音の印象を記した部分がある。
山中智恵子の「三輪山の」の歌を読む際の参考にもなるので、
その一部を引いてみたい。

「長谷観音の現本尊は、雄々しい男性の仏像であつた。
 長谷の峡をのつと上つて来る春の月、びつくりするほど大きい、
 春のなまめかしい月読の、ある一時の情感に髣髴たる感がある。
 日本の神話と信仰では、夜の大空をわたつてゆく月は壮士(をのこ)と
 されてゐた。
 王朝の女流たちが見た仏像も、この長谷の谷を上る月読壮士に似た、
 雄々しく、たくましく、たのもしく、魂太い姿だつたと思ふ。(略)
 数ある仏の中のみ仏(※「源氏物語」筆者注)といふ感動は、
 まさしく官能的である。この官能的といふ意味は、観念的な審美観と
 本質を異にした、絶対的にすこやかで生々とした、形は太くつよく、
 情景は妖しい、いのちのたくましい産(むす)び―― 一等上では
 国産みといふ時の、あの産びの根源力の造型だつた。
 今もその感じは長谷の本尊開帳の時の感じである。」


保田與重郎が長谷観音に月を重ねて見る視点は、
人に対するように月と向き合う山中の歌の世界と重なる。
山中智恵子がどのようにして原初的な世界へと歌の領域を広げて
いったのかを考える場合、
保田與重郎という思想家との関係を見直してみなければならないだろう。


執筆者略歴
奥田亡羊(おくだぼうよう)
1967(昭和42)年生まれ。「心の花」所属。
2005年、第48回短歌研究新人賞受賞。2008年、歌集『亡羊』により、第52回現代歌人協会賞受賞。
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2013/11/8 〔田中教子・23〕

2013-11-08 00:00:00 | 田中教子
若山牧水と大伴旅人


かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな          若山牧水 『路上』



 この歌は牧水の第四歌集『路上』のなかにある。牧水は、明治四十三年九月より十一月まで長野県小諸に逗留している。その折の歌である。

 一首は、「傍らの秋草の花が語るには」という。花が語るという表現が特徴的だ。これは、万葉集巻五・八五二、



  烏梅能波奈 伊米尓加多良久 美也備多流 波奈等阿例母布 左氣尓于可倍許曽

  梅の花夢に語らくみやびたる花と我れ思ふ酒に浮かべこそ
  巻5・852 



という大伴旅人の歌から影響を受けていると考えられる。旅人の歌のほうは、梅花宴の中の一首であり、澤瀉久孝の『萬葉集注釈』には、「梅の花が夢に語るには、風雅な花と私は思ひます、酒に浮べて下さいませ、と。」と口語訳されている。

 万葉集の旅人の歌の原文は一字一音の漢字で「加多良久」とあるよう「かたらく」と訓むようである。この「かたらく」を用いた歌が万葉集中には全部で五首ある。旅人のこの歌だけが短歌であり、ほかはすべては長歌である。長歌をみてゆくと、巻二・二三〇の笠金村の歌は、

  玉鉾の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲の 衣ひづちて 立ち留まり

  我れに語らく なにしかも もとなとぶらふ 聞けば・・・  巻二・二三〇

と、ここでは「道来る人」が「語らく」となっている。また巻九・一七四〇では、

  世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく・・・  巻九・一七四〇  

と、世間の愚か人が「語らく」となっている。同じく巻九・一八〇九では、

  我妹子が 母に語らく しつたまき いやしき我が故・・・巻九・一八〇九

「我が妹子」が母に「語らく」であり、巻十九・四二一四では、

  玉桙の 道来る人の 伝て言に 我れに語らく ・・・  巻十九・四二一四 

と「人」が「我」に「かたらく」となっている。このように、「かたらく」は、いずれも「人」が行う行為となっているなかでただ大伴旅人の歌だけが「花」が語るとなっている。この点で、牧水と共通性がある。ただし、万葉集の語は「かたらく」であって、牧水の語は「かたるらく」である。ここに若干の相違がある。これはおそらく牧水が「語らく」と書かれた訓み下しを「語るらく」と読んでしまったものではないか。

 当該歌は、牧水が万葉集の大伴旅人の歌の形にヒントを得て、「ほろびしもの」の「なつかしさ」を詠んだものである。「ほろびしもの」というのは、一般的には小諸城のことをさしていると言われている。現実的には、眼前に小諸城があったに違いない。小諸城には滅びた兵どもがいたであろう。だが、この歌の「ほろびしもの」は、牧水の心の中の「ほろびしもの」にたいして「なつかしきかな」と言っているのではないか。第一歌集から第三歌集までの歌の流れの続きにこの歌を読むとき、「ほろびしもの」は、牧水の「ほろびた恋」と受け取れるのである。



執筆者略歴
田中教子(たなか・のりこ)、1967年生、「アララギ派」所属、現代歌人協会会員、日本歌人クラブ会員。
2008年第3回中城ふみ子賞受賞。英文対訳歌集『乳房雲』(短歌研究社 2010年)、随論集『ことのはしらべ』(文芸社 2012年)
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2013/11/4 〔永井 祐・23〕

2013-11-04 00:00:00 | 永井祐
父と見る寒の夕焼けあかあかと「純粋理性批判」のごとし     小島ゆかり

あと五回。
このノ―・ギャランティ―の坂を登り切ったら、ノ―・ギャランティ―の景色が、
ノ―・ギャランティの夕焼けとともに見えるのかもしれないな。

短歌うまいな。
そう思う歌でした。
だいぶ力技ですけど、この「純粋理性批判」てすごい効いてる。
哲学者イマヌエル・カントの主著ですね。少しでも興味のある人なら誰でも知ってる
古典。
古い時代の大文字の哲学ということで、そのへんがパパのイメージと親和するので
しょうか。
でも夕焼けを「~ごとし」とするには、かなりの距離がある。
この部分をパンピーにカッコ埋めさせてもまず出てこない。
プロが出す答え、という感じがします。
赤、もなぜか合ってる気がしますね。
赤い表紙の本の記憶とかあるのかもしれないけど、
夕焼けの真っ赤、真に赤い感じが、ア・プリオリな感じするのかな。
適当なこと言ってますけど、短詩形固有の論理で「あかあかと「純粋理性批判」」が
なんとなく成立するのはどうしてなんだろう。
しかもこの歌、「純粋理性批判」をしっかり勉強した感じがほとんどしないですね。
夕焼けだし、読むものじゃない見るものだ、存在を感じるものだっていう雰囲気です。
さらに言えば、一生懸命勉強した人はこんな歌作れないだろうな、もっとだめな歌に
なりそう、という気さえします。
ちょっと、才気の罪深さみたいなものまで感じる鮮やかさですね。

冬のひと日、パパと一緒にしばらく見えた向こうがわ、それが「純粋理性批判」。
なるほど。

執筆者略歴
永井祐(ながいゆう)
1981年生まれ。
2012年第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』刊行。
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2013/10/30 〔奥田亡羊・22〕

2013-10-30 00:00:00 | 奥田亡羊
たは易く人に許ししその過去を我よく知れり知りて溺れつ         小見山輝『春傷歌』


娼婦を詠んだ作品である。
ともに過ごすたびに女は自分の過去を語る。
客をつなぎとめておくため、客の同情を引く不幸な話をするのである。
しかし女は誰に何を話したかを覚えていない。
だから何度も同じ話を聞かされて、男も女の過去をよく知ることになる。

「たは易く人に許ししその過去を」という表現が秀逸である。
作者はそこに誰にでも体を許す女のなりわいを重ねて見ている。
四句の「知れり」と結句の「知りて」では受けている内容が異なる。
結句の「知りて」は女の過去ではなく、
すべてが嘘だということも知っていての意味である。
嘘だとわかっていて溺れる。そこにこの男の孤独と虚無がある。

小見山輝は昭和五年生まれ。
戦中、満蒙開拓青少年義勇軍に参加して大陸に渡り、
満十五歳で引揚げを体験している。
この歌に滲む虚無感も戦争と無関係ではないはずだ。


執筆者略歴
奥田亡羊(おくだぼうよう)
1967(昭和42)年生まれ。「心の花」所属。
2005年、第48回短歌研究新人賞受賞。2008年、歌集『亡羊』により、第52回現代歌人協会賞受賞。
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2013/10/25 〔田中教子・22〕

2013-10-25 00:00:00 | 田中教子
古代の造船


 古代の造船は、良材の産出する地に発達したと考えられ、その一つに、紀州の熊野地方がある。熊野の船については、万葉集に次のような歌がある。


 島隠り我が漕ぎ来れば羨しかも大和へ上るま熊野の船         (六・九四四)

 御食つ国志摩の海人ならしま熊野の小舟に乗りて沖へ漕ぐ見ゆ   (六・一〇三三)



 九四四は、山部赤人の歌である。「過辛荷嶋時山部宿祢赤人作歌一首并短歌」という題詞の長歌一首反歌三首のうちの第二反歌にあたり、結句に「ま熊野の船」と見える。一〇三三は、大伴家持の作である。ここでは「ま熊野の小舟」と見える。「ま熊野」という語から、どちらも熊野産の船ということはわかるが、赤人の歌のそれは官船であり、家持の歌の方は漁労船であって、種類の違う船が詠われている。しかしながら、三一七二に、舟つきが「めづらし」とあることなどから、熊野産の船は、一見して判別されるような特殊な船であったとも考えられている。

 日本書紀の大国主神の国譲りの条には「熊野諸手船亦名天鴿船」の名が見える。諸手船とあるので、数多の水手を擁した船であったろう。その亦の名を「天鴿船」ということから、今日の一般的な解釈では、天をゆくハトのような早い船であったか、とされている。紀州が古代の文献に、しばしば「木国」と表記されたのは、こうした名高い船材の産地であったこととも無関係ではあるまい。

 一方、足柄山もまた船材の産地として知られていた。「足柄山」は、現在の神奈川県と静岡県にまたがる足柄峠を中心とする山地、常陸国風土記の足柄の岳であるとみられている。下河辺長流の『続歌林良材集』には、逸文相模国風土記に次のような足柄山の記載があったと伝えられている。

 相模国風土記に云、足軽山は此山の杉の木をとりて舟をつくるに、あしの軽き事他の材に て造れる船にことなり。よつてあしからの山と付けたり  (『続歌林良材集』逸文「相模国風土 記」)

 これは、足柄山では良質な船材がとれたことをあらわす逸話であろう。
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