金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

第39回「英語の悲鳴・仏語の悲鳴」

2006-01-27 00:07:23 | 日本語ものがたり
 2006年の新年は、「明けまして+開けましておめでとう」であった。

 投票箱の蓋が開いたからである。8週間の長い連邦政府選挙戦の後、ようやく出た結果は世論調査の予想通りで、13年ぶりに、小数派政権ながら進歩保守党が返り咲いた。久々のカナダ西部からの首相となったハーパー氏の舵取りが注目される。そこで今回は、選挙キャンペーン中、言葉の上で気付いたことを話題に取り上げてみたい。

 それが表題の「英語の悲鳴・仏語の悲鳴」である。「英語の悲鳴」という表現を使ったのは朝日新聞の特派員だった本多勝一だ。ジャーナリストとして日本語の表現に大きな関心を寄せて来た本多には日本語に関する優れた著作が数点あるが、中でも「日本語の作文技術」(1982年、朝日文庫)が秀逸だ。巻末の解説で「ちゃんとした日本語を書こうと思ったら、まず、勉強に本多勝一氏の「日本語の作文技術」を読め。これが私の持論である」と多田道太郎が書いているほどで、実に広く読まれている。ちなみに私が今持っているのは2002年版だが、何と「第32刷」である。初版から20年目に32回目の重版というのは大変なロンングセラーだ。未読の方には是非お勧めしたい。さてこの名著の中に「イギリス語があげている悲鳴」という言葉が見える。ちょっと長くなるが引用しよう。

 「いやでも何でも、どうしても主語を出して強調せざるをえない。何かを強調してはならぬ関係のときでも、常に何かひとつ を強引にひきたてえざるをえない文法というのも、ある意味では非論理的で不自由な話だ。気象や時間の文章で「it」などという形式上の主語を置くのも、まったく主語の不必要な文章に対して強引に主語をひねり出さねばならぬ不合理な文法の言葉がもたらした苦肉の策に他ならない。「形式上のit」はイギリス語があげている悲鳴なのだ。フランス語のilやドイツ後のesも同様である。あえて皮肉をいえば、ああいうシンタックスを選んでしまった民族の帳尻あわせでもあろう」

 最後の文のシンタックスというのは、基本文の語順のことである。このシリーズ36回でも書いた様に、英語の基本文はSV, SVC, SVO, SVOO, SVOCの5つで、全部に主語(S)がある。だから、日本語なら「10時ですよ」でいいところを、英語では「It is ten o’clock」と「形式上のit」を主語に立てる必要が出て来る。「It is cold」や「It rainis」でも同様である。英文法ではこうした「意味のないit」を「Dummy subject」と呼ぶこともある。ダミーとは車体の衝突実験などに使われるあの哀れな人形のことだが、語源は「dumb」つまり馬鹿である。「it」という内容(=意味)のない馬鹿な言葉を、文法上使わなければいけない英語は、使う度に「悲鳴」を上げていると本多は言うのだ。そして、「ああいうシンタックス」を選ばなかった日本語は、この点で悲鳴を上げずにすんでいるのだ、と。

 本多の言うように、「Dummy subject」はフランス語やドイツ語にもあるのだが、選挙戦の間、4党首の演説を聞いていて「ああ、これはフランス語の悲鳴だな」と思ったことがある、そしてこの悲鳴は日本語だけでなく、英語からも聞かれない。

 それは、英語であれば「Canadians」ですむところを、フランス語でいちいち「Canadiens et Canadiennes」と男女に分けることである。勿論、それは名詞によっては(以下、表示出来ない仏語のアクサンを省略)「Quebecois et Quebecoises」ともなれば「citoyens et citoyennes」「etudiants et etudiantes」「electeurs et electrices」ともなる。党首によっては女性名詞を先行させることもある。こうした「名詞の性別」を聞く度に、私の耳にはフランス語の悲鳴が響いて仕方がなかった。

 ちなみに、こうした性別は比較的近年の傾向である。私がカナダに来た70年代には、男性名詞と女性名詞が共存する時は、男性名詞が両者を代表してもよかったからだ。そもそも代名詞がそうなっており、「彼:il」と「彼女:elle」がいる場合、それは「彼ら:ils」と言うしかないのである。英語にはない「彼女ら」が仏語にはある(elles)が、これは勿論全員が女性でないと使えない。

 「呼びかけ」において男女を分けるようになったのは、明らかに女性の地位向上キャンペーンがもたらした結果である。英語でも呼びかけでなら「Ladies and gentlemen」というが、幸か不幸か、男性名詞と女性名詞を保持しているフランス語においては、性別を「カナダ国民、ケベック州民、学生諸君、選挙民」など全てに適用せざるを得ないはめとなった。日本語や英語で「男性の国民の皆さん、女性の国民の皆さん」とか「Female Canadians and male Canadians」と言うことの滑稽さを想像してほしい。それは何よりも日本語や英語に「名詞の性別」がないお陰である。(英語の場合は無くしたのだが、日本語には最初から無かった) かくして、日本語や英語では悲鳴をあげないですんでいるのだ。ウーマンリブにはもとより私も大賛成だが、フランス語話者は「Politically correct」であるために言葉の上で高いツケを払うことになったと言わねばなるまい。  (2006年1月)

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3 コメント

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フォトエッセイ ごまめの歯ぎしり  (蛮茶庵)
2006-02-21 22:48:19
 はじめまして、何時も愉しみに読んでゐます。連絡をして、許可を貰つてからと思ひながら、のびのびになつて、そのまま無断でリンクをしてゐます。申し訳ありません。

 ちくま新書「日本語文法の謎を解く」以来の金谷ファンで、どこかで日本語文法に変革が起きないものかと、真剣に考へてゐます。

 こちらのブログでも二月の十五、十六、十九、二一日とそのことに触れました。よかったら覗いてみてください。意見などいただければ幸ひです。
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Unknown (Unknown)
2006-02-24 12:12:25
蛮茶庵さま、ご訪問ならびにコメントどうもありがとうございます。



こちらの雇われ管理人のちえ蔵と申します。私も金谷武洋さん(たきさん)の大ファンで、たきさんのお書きになったものを一人でもたくさんの方に読んでいただきたいと、このブログを始めました。私自身は日本語の知識に乏しく、蛮茶庵さまのブログにコメントを残すことに気後れしてしまったのですが、大変興味深くすみからすみまで拝読させていただきました(読み逃げになってしまってごめんなさい)。



これからも、蛮茶庵さまのブログの更新を楽しみにしております。

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ご声援に感謝! (たき)
2006-02-28 12:11:31
蛮茶庵さま、



http://ya-ban.jugem.jp/の蛮茶庵さんですね。素晴らしいフォトエッセイ、以前から時々拝読しており、心から共鳴、膝を打つ事が多々あります。この度は拙著を紹介して下さり、恐縮しております。私こそ「ごまめの歯ぎしり」とは知りつつ、学校文法を直すために今後も発信を続けていく積もりです。ご声援に感謝致します。
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