正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

一七、御本尊の偉大な力

2005-11-14 | 正林寺支部折伏手引書

一七、御本尊の偉大な力

 日蓮大聖人は『経王殿御返事』を通じて御本尊様の偉大さを御教示です。
 宗祖日蓮大聖人は『経王殿御返事』に、
  此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたはぶるともつヽがあるべからず。遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかヽるべきなり。但し御信心によるべし。つるぎなんども、すヽまざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼうたるべし。日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。(御書六八五頁)
と御教示であります。
 御書の意味は『この曼荼羅である御本尊様の南無妙法蓮華経をよくよく信じて行きなさい。御題目の南無妙法蓮華経は師子吼の如くで、師子であるライオンなどの百獣の王が一度吼えればあらゆる動物を征するようなものであり、どのような病も障害も克服できます。餓鬼界の鬼子母神や十羅刹女は法華経である御本尊様を信じ題目を唱え持つ人を守護し護ると誓っています。幸いは愛染明王の力であり、福運は毘沙門天の力です。地球上いかなる場所において遊び戯れ生活し仕事をしても何事もなく護られます。遊行というあちらこちら行っても御本尊様に護られるため畏れることなく不安になることもなく師子王の如く気持ちを悠然と維持していくことができます。十羅刹女の中にも皐諦女の守護は特に深く強いのです。但し、守護の力や御本尊様に守られる力はその人の御信心の力によります。たとえば剣などの刀も、剣の使い方がわからなければ宝の持ち腐れであり、何のための剣で刀なのかわかりません。また気持ちが乱れておれば凶器ともなり、志し如何で剣の働きがかわります。法華経である御本尊様の剣はその人の信心の強弱や気持ちの如何によって強さが違い、守護の働きにも強さに違いがあります。御本尊様を持ち御題目を唱える生活を毎日欠かさずに行えば鬼に金棒の如く、素晴らしく頼もしい力を得ることになります。日蓮がその剣となり金棒となる頼もしい力や鬼子母神や十羅刹女等の守護が得られる力の魂を墨に染め流して書いたから疑うことなく信じていきなさい。仏様の本当の気持ちは法華経だけにあります。日蓮の命である魂は御本尊の南無妙法蓮華経以外にはないのである。』という意味が説かれています。
 如何に御本尊様の力が素晴らしいかを仰せになられた御書です。
 「此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。」とは日蓮大聖人様が南無妙法蓮華経と書かれました御題目の曼荼羅御本尊様を信じていきなさいという御指南です。世の中には日蓮正宗以外に信仰の対象となる御本尊といいましても沢山あります。金ぴかの仏像であったり、曼荼羅でも法華経の題目でない紛らわしい曼荼羅もあります。ここでは確実に幸せになれる御本尊・曼荼羅を選んでよくよく信じていきなさいという意味も含まれています。この曼荼羅とは「三大秘法の御本尊」であり、本門戒壇の大御本尊様や正林寺安置の御本尊様、また皆様の家庭に安置されています御本尊様です。
 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し。」とは御題目の南無妙法蓮華経は百獣の王ライオンが吼えるような声であると仰せです。
 「いかなる病さはりをなすべきや。」とは御本尊様に御題目の南無妙法蓮華経を唱えれば病や障りである生活苦を乗り越える力が得られるというお言葉です。御題目を唱えれば、百獣の王ライオンが吼える声を聞いて動物が恐れをなし退散するということで、御題目を御本尊様に唱えることで病や障害が退散し逃げていくという意味になります。これは非常に有難いことです。人間誰しも病や障りは経験したくありません。御本尊様を受持し御題目を唱えていけば病や障りがあちら側から逃げていくということです。しかし、御本尊様を持っているだけで安心し御題目も唱えないで何もしなければ病や障りに紛動される人生を経験しなければいけない場合もあります。また魔の働きとして現れる場合もあります。ここでは御本尊様の力が偉大であると日蓮大聖人が御教示です。その具体的な御本尊様の力を次の御文で仰せです。
 「鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。」とございます。皆様御本尊様に書かれております御文字をよく観察されたことがあるでしょうか。この鬼子母神と十羅刹女は御本尊様の題目である南無妙法蓮華経の蓮華経の両脇に鬼子母神と十羅刹女が認められております。つまり、御本尊様に御題目を唱えることで守護され護られるということは、この御本尊様にあります、鬼子母神と十羅刹女によって確実に守られるということを日蓮大聖人が仰せになられております。また法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたりと御教示のように、疑いがないのです。もしも、護られない場合は、信心をしっかりしなさいと警告の意味で護られない場合があります。警告を御本尊様から教わる前に心を引き締めて信心することが大切です。
 更に大聖人は「さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。」と仰せであり、御本尊様を信じて得られた、さいわいという幸せは愛染明王の守護する力で福は毘沙門天の守護によるところです。御本尊様の左側に梵字で認められておりますのが愛染明王です。この愛染明王は私達衆生の煩悩である悩みや迷いを浄化し解脱させる力があり、つまり心の汚れを奇麗にする働きをなす力が御本尊様に書かれております梵字の愛染明王です。六根清浄や即身成仏に欠かせないのが愛染です。右側の梵字が不動明王で、煩悩即菩提や生死即涅槃の働きをなす諸天善神です。相伝に有らざれば知り難しという、日蓮正宗に正しく付いて学ぶことで御本尊様に認められた仏様や菩薩、神様の不思議な力と働きを理解し実際に体験できます。次に福は毘沙門の如くとありますが、御本尊様の左上に大毘沙門天王と認められております。それが毘沙門であり、御本尊様に御題目を唱えることで得られる福徳や福運は大毘沙門天王である毘沙門の力により福徳を得ることができます。
 「いかなる処にて遊びたはぶるともつヽがあるべからず。」とは曼荼羅である御本尊様をよくよく信じていけばいかなるところで遊び戯れていても、恙ないということで何事もなく無事に生活ができると仰せです。しかし、ここで勘違いをして困ることがあります。曼荼羅の御本尊様を信じ御題目を唱えているのに護られないじゃないかという現実にぶつかる場合が時としてあります。これについての正しい考え方と捉え方を心得なければなりません。まず私達は、末法に生まれた本未有善の衆生であることを知ることです。つまり、日蓮正宗を信心して日が浅いのが私達です。今世において信心をした場合に、信心をしない前による過去世の深い謗法の害毒として様々な罪障が吹き出し、それを見て護られないじゃないかという考えに至ることがあります。護られない守護されていないのではという根本的な原因には、他にもいくつか考えられますが、魔の働きである三障四魔や娑婆世界である地球上に生まれた宿命として、信心していない人からの謗法による害毒により守護されないという気持ちに襲われるでしょう。これは信心をしていく過程で当然あらわれる作用であり、もしも信心をしていなくとも様々な苦労をしいたげられる世界に私達は住んでいます。御本尊様を信じているのに護られないという方は、間違った見解であり、正しい見解は信心をしていなかった場合、更に最悪な現実を体験していたであろうことを悟る境界の高さがその方に欠けており、凡眼凡智で判断することなく日蓮大聖人が御教示下さるお言葉を身に対して、現実の姿を正しく見つめる信心が要求されます。つまり転重軽受の不思議な果報を頂いていることに気が付いていないことを悟る必要があります。また様々な宿業が出ることにより過去遠々劫の罪障が御本尊様の力で消滅されていることを知るべきです。
 「遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。」ということで信心をして御本尊様に御題目を唱える生活を送ればライオンが悠然と広野を歩いているような境界になると仰せです。ここまでの境界に行くには弛まぬ修行が大切です。一朝一夕でつくることのできる境界ではありません。継続は力なりであり、一生成仏を目指すところに師子王の如くという畏れなき人生を送ることができます。その人生を実現に近づけるための行が勤行唱題です。いまだ信心していても自分自身の人生が師子王の如く悠然と生きることができない場合は、まだ境界が低いということがわかります。ここであきらめれば、信心する以前の貧しい境界となり元の木阿弥です。最高の幸せである成仏を手に入れることはできません。
 「十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかヽるべきなり。」ということで十羅刹女とは鬼子母神の子供十人であり、その中の皐諦女の守護の力が一番勝っておるということです。この十羅刹女は御本尊様の南無妙法蓮華経とあります蓮華経の左脇にあります。蓮華経の右脇に鬼子母神が認めれられています。この十羅刹女とは十人の羅刹女・悪鬼の女性であります。世の中には悪鬼のような女性が存在し、外面似菩薩 内心如夜叉という姿でいる場合もありますが、御本尊様にあります十羅刹女は悪い鬼の気持ちを改心し、法華経に帰依して信心する人を守護すると仏様に誓う諸天善神です。朝の勤行で初座におき御観念文を念じますが、諸天善神に法味を捧げるということでこの十羅刹女の力を倍増させるために朝の勤行の折、特に初座において東を向き御経を唱えます。諸天善神は御題目を聞くことで栄養を得ており、その人を守護する力が増します。御題目を唱えることをその日忘れれば、諸天善神の力も当然弱まり、思わぬ人災や天災に遭遇する可能性を自らつくることになります。人災と天災から免れるために朝の勤行が大切です。
 十羅刹女とは、『法華経陀羅尼品第二十六』に、爾の時に羅刹女等有り。一を藍婆と名づけ、二を毘藍婆と名づけ、三を曲歯と名づけ、四を華歯と名づけ、五を黒歯と名づけ、六を多髪と名づけ、七を無厭足と名づけ、八を持瓔珞と名づけ、九を皐諦と名づけ、十を奪一切衆生精気と名づく(法華経開結五七八頁)
と法華経に説かれています。十羅刹女の中の皐諦女が特に守護の力が強く、天界と人間界を自由に行き来できる善い鬼人(餓鬼界)です。
 「但し御信心によるべし。」と仰せであり、以上の諸天善神による守護の力は、皆様の信心の力具合で守護の力が決まります。ただ御本尊様を御安置しているだけでは本当の守護の力を得ることはできません。日々の弛まぬ勤行唱題に勤めるところに護られる力がすべてあります。
 「つるぎなんども、すヽまざる人のためには用ふる事なし。」とあり御信心の力加減で違うことを剣の譬を持って御教示です。剣もその人の心持ち如何によって、剣としての果たす役割が異なります。剣の達人が剣を用いれば素晴らしい剣さばきを目にするでしょう。しかし、何も知らない素人の人が同じ剣を扱えば、素人なりの剣さばきになり、動きには斬れがなく周りの人を魅了することはありません。それと同じ理屈で、信心も同じ御本尊様を持っていたとしても、その人の信心の姿勢が充実していなければ諸天善神の力による剣さばきに違いが生まれます。御題目を真剣に唱えればその剣によって諸天善神が煩悩の迷いを切り刻んでくれます。御題目を唱えなければ心の迷いや人生の障害を打破し剣で迷いを切ることもできません。これは僧俗関係なく厳しい現実として御題目を唱えなければ結果がそれぞれ違います。信心をしていても何故守られないという場合は、その人の信心が弱い証拠です。
 「法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用ふる事なれ。」とあり、法華経の剣は信心の強盛な人こそ用いることができます。信心が弱い人には御本尊様を受けていても輝かしい信心の姿を見ることはできません。つまり、剣は錆びていき、私達の心の中でうごめく煩悩を斬ることはできません。剣が心の迷いを一瞬に切れるようにするには、剣を磨くことが大事です。 つまり信心で諸天善神が用いる剣を磨く方法を日蓮大聖人は『一生成仏抄』に、
  深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり(御書四六頁)
と仰せです。曼荼羅の御本尊様に御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで剣を磨くことができます。磨くことを怠れば当然剣は錆びていき、心の迷いや悩みを切る剣になりません。まず普段から心の迷いと悩みをすぐに断ち切れる剣を毎日磨く習慣が信心では大切です。そのために毎日勤行唱題をする理由になります。磨いていない場合、迷い悩みが生まれたとき重荷を感じるでしょう。また御本尊様を御安置する仏壇が埃まみれである場合もあり、御仏壇を掃除させて頂くことも磨くことで六根清浄の功徳を積む大切な行いです。
 「鬼にかなぼうたるべし。」とは、御本尊様に御題目を唱えることで、鬼が金棒を得るようなことになり、非常に頼もしいことであると大聖人が仰せです。鬼も金棒なしで素手では力が弱りますが、金棒を得ることで何十倍何百倍にも力を増します。それと同じように信心で御本尊様に御題目を唱える修行をすれば自分自身の力を最大限に引き出し、御本尊様の守護である鬼子母神や十羅刹女等の守護を得て安泰な生活になります。
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。」が法華経の力は、日蓮がたましいを墨に染め流して書き表した御本尊様にあるから信心して行きなさいと仰せです。
 最後の「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」とは、仏様の本当の心は法華経だけにあり他経や他宗派にはなく、日蓮大聖人の魂は本門戒壇の大御本尊である南無妙法蓮華経以外にはないと断言されています。