醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  424号  白井一道

2017-06-19 14:36:02 | 日記

 雪ありて縮あり

 越後魚沼郡(ごおり)の冬は雪の中にある。
降る雪に道の脇に流れる小川も雪に覆われ、谷も埋もれ、梢にも雪が積もり冬の道になった。つづらおりなす山道が絶え、隣の山里が近くに見える。雪は昨晩から降り続いている。踏み固められた人通りの道は雪で覆われたままだった。その道を同じ塩沢村の織次郎が笠をかぶり、橇(かんじき)を履き、雪を漕ぐように坂道を降りてきた。道まで伸びた木衛門家の庇の下で吹き込んだ雪をかき出していたユウの父親に向かって、挨拶をした。
「去年(天保五年、一八三五年)のような大雪にならねばいいがなぁー」
「ほんに、そうだな」
「雪の降らない国に行けるものなら行きたいものだ」
「江戸では冬になっても青空が続くというではないか」
「一度でいいから、江戸の冬を味わってみたいものだ」
「織次郎さん、どこにおいでなさるのか。この雪の中」
「隣村までちょっと用事があってな」
「気を付けて行ってくだされ」
サルが笠を被ったような恰好をした織次郎が木衛門家の前を通り過ぎて行った。天保五年の雪は鷹の目も動かぬようになるような大雪だった。そんな大雪にならねばいいがと木衛門は織次郎を見送った。これが織次郎を木衛門が見た最後だった。
申(さる)の中刻(午後四時ころ)を少し過ぎた頃、織次郎の家内が木衛門家の戸を叩いた。
「木衛門さん、織次郎を今朝方見ませんでしたか。まだ帰りませんのやがな」
「そうですか。それは、それは、心配ですな。今朝方、わしが庇の下の雪をかき出していると織次郎さんが坂道を漕ぐように降りてきました。ちょっと挨拶を交わし、織次郎さんは下ってゆかれました」
「そうですか。帰りがあまり遅いもんですから、今、倅と一緒に隣村の用向きの家まで行ってきたところなんですが、織次郎は来ていないというものですから、不思議に思いまして尋ねて来たようなわけなんです」
織次郎の家内は倅を連れ、背中をまげて坂道を上がって行った。事の次第を姑に報告すると里の者にふれて回り、知る人はないかと尋ねたが誰も知らないという。心配した里の者たちが織次郎の家に集まり、相談しているところに老爺が訪れ心当たりがあるという。織次郎の妻の顔にパッと赤みが射した。
「わしが今朝方、東山の峠半ばにさしかかろうとしていたとき、この家の主と行き会い、どちらに行かれるのですかと問うと、

いよいよ雪篭りだ。今年もまたこの雪の中で暮らすのかと思うと寒い邦に生まれた不幸を悲しむ人が多い中あってユウは雪が降り始めると心が浮き浮きとした。囲炉裏に燃える薪の明かりが届くところにいざり機(ばた)をユウは出した。いざり機に向かうユウにとって雪ほどありがたいものはなかった。機織ができるからだ。ユウはもの心ついたときには機を織り始めていた。
「魚沼郡(ごおり)の女子(おなご)はなぁー機織ができにゃー嫁に行けん」。祖母の言った言葉がユウの耳に残っている。七月の末になると紵(お)商人(あきんど)がやってきた。お父つあんが一反ぶりの紵を買ってくれた。
田の仕事が大方終わった七月末のことだった。「ユウ、は気張っているな」と囲炉裏の端にいた父が目をこすりながら言った。「今年の春、新さんがわたいの藍錆、色がすっきりしているなと褒めてくれた。これなら江戸に持っていけると買ってくれたから。来年はもっといいものを新さんに渡したいんだ」と自分に語りかけるようにユウは小さな声で言った。
雪に埋まった家の中は暗かった。唯一の明かりは囲炉裏に燃える薪の明かりだけだ。