2006-2015 ひねくれた日常

資本主義の欲望にまみれた日常生活はとても楽しい。いつまで楽しく暮らせるのだろう?いつまでも楽しく暮らすために考えよう。

経済の悪さと民主主義の多数決の関係を考える

2009年04月09日 | 資本主義の行くところ
銚子市の病院問題を見ていて思ったのだけど、

資本主義がうまくいっているころは民主主義(主に政治の多数決とか)もうまくいっていて、誰を選んで、何をどう決めても、大体はOKだったのだと思う。

でも、資本主義がうまくいかなくなって、会社が儲からなくなったり、地域の産業が衰えたりすると、人が移動していってしまう。

そうすると、人口が減ってしまう。

それも、働き盛りの人たちがいなくなって税金を払ってくれなくなってしまうのだ。

そうすると、確実に残るのは、年金で暮らす年寄りと、公務員ということになる。

仕事が減った分、人も減ってしまう。

銚子はそんな風に衰えていった市なのではないだろうか?

そういうことは仕方がないのだと思う。

少し前とは時代が変わったというのか、違う状態になったのだからそれなりの対応をしていけばよいのだと思う。

それなりの対応というのは、北海道の夕張のように、破産してしまったのだから分かりやすいけど、市民向けのサービスが削られ、負担が多くなるということだと思う。



そういうことを書こうと思ったのではなくて、ここからは銚子市のこととは離れて、一般的なこととしてかんがえているのだけど。

衰えていることを住民はどう思っているのか?ということ。

衰退したために、今までと同じレベルの住民サービスが出来なくなった場合、多数決で住民サービスを取り戻すという判断をして、それを実行していいのかということ。

民主主義も多数決で物を決めるという側面だけ取ると、資本主義がうまくいっている時だけうまく機能するのではないか?

という気がする。

住民が自分の所属している地域の実態を、きちんと把握できていないうちは、間違った判断をすることもあるのではないか?

間違った判断は、やり直せばよいのだけど、銚子の病院くらいのことならやり直しもきくと思うけど、

極端な場合、困窮して大きな不満を持った大衆が、過激な指導者を選んでとんでもない事になったりする可能性だってないとはいえないのだ。

そう考えると、経済的に困窮して考えるゆとりのない人達が、集団で意思決定をすることが出来る民主主意は怖いのではないだろうか。

などと思ったのだ。

昔は女性には選挙権がなかった。その前はお金持ちだけが選挙権を持っていたのだ。それは差別だということで20歳以上の国民には選挙権があるようになった。でも、経済が衰えてきた今は思うのだが、衆議院と参議院があるように、一般の選挙の結果をそのまま採用するのではなくて、選挙をしたあとに、有識者による最終判断のようなもう一段の決定の猶予のようなものがあった方が良いのではないかと思うのだ。


早く経済が落ち着いて安心して暮らせるようになって欲しいと思う。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。