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さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

先週の朝生について2 放射線・・・結局は人間をどういう存在として見るか

2011-05-06 02:32:47 | Weblog

その1はこちら

その後、録画を何回か見てはいるが、「放射線の影響の見方は人による」としか言いようがない。以下、番組に出てきたデータを画像で貼りながら解説。

 

<図1 北大 石川正純教授提供>

 

放射線医療についてwikipediaなどで調べていると、「しきい値(閾値)がない」というフレーズが何回か出てくる。「しきい値がない」という言葉そのものの意味はわかるのだが、放射線に関してどういう意味を持つのかが当初はわからなかった。しかしこの朝生でわかった。そこで私が作った図を使う。

① しきい値とは、ある値で何かが大きく変わる値のことである。例えばこんなグラフ。

 

<図2>

我ながら笑っちゃうくらいヘタクソなグラフで申しわけないが、この手作り感(笑)がこのブログの味だと私は勝手に考えている(苦笑)。このように、放射線被曝量がある値を超えると急に発がん率が高まる場合、この赤い点線の値を一般的に「閾値(いきち、しきいち、threshold)」と呼ぶ。

② 逆に、閾値が見られないグラフは例えばこういう場合。

 

<図3>

簡単に言えば一次関数のような、直線的なグラフである。こういう場合は、被曝量がある値を超えたからと言って、いきなり発がん率がどかんと上がるわけではない。こういうのを「閾値がない」と表現する。

 

<図4>

③ また、こういう場合は、そもそも放射線被曝量と発がん率の間には関係がないのではないかと、統計学的には推測される(最終決定ではないから念のため)。統計学では「相関がない」と表現する。

 

朝生での石川教授の説明で、「閾値がない」というのは、以前ここでもご紹介した、放射線医学総合研究所のHPにあった、こういう図のことだとわかった。

 

 

<図5>

この図は(美しさは全く違うが)本質的には図3と同じで、被曝線量があるラインを超えたからと言って、がんで死亡する人の割合が急激に大きくなるわけではないということを示している。北大の石川教授は、この図や考え方が「従来のものである(要するに古い)」とし、以下の図を示した。

 

 

<図6>

「LNTモデル」とは、要するに被曝線量(Dose)と発がんリスク(Solid Cancer Risk)の関係を、従来は赤い点線のように、一次関数的に捉えていたということだ。図5のことである。それが、最近の研究では、黒い実線のように、曲線で数学的に近似できるようになったということを彼は説明した。スタジオでは田原も含めて「詳しすぎてわからない!」と騒いでいたが、詳しすぎるのではなく、単に数学っぽい話になったから脳が拒絶反応を示しただけだ。こういう「数学アレルギー反応」を見るにつけ、高校程度の数学はやはり重要なのだなと痛感する。専門的な計算法は忘れていても、「相関」であるとか、「一次関数」「直線的」「曲線的」などの言葉をイメージとして理解できているということが、放射線について考えるときにも重要だということだ。

で、図6を見ると、0シーベルトから、1シーベルト(1000ミリシーベルト)ぐらいまでで、ぐんにゃりと曲線状になっており、特に0.3シーベルト(300ミリシーベルト)あたりの変化率が急であることがわかる(このあたりを彼は「閾値」と見なしているのだろうか?結局彼はそれについては言わなかった)。このことを彼は、図1で、

・被曝線量が「100mSv(ミリシーベルト)」以上のときは、発がんリスクを否定できない

という表現でまとめたわけだ。

ただ、よく見ると、この図のデータは"atomic bomb survivors(原爆で生き残った者)"から取ったとあるので、今回の福島原発の周囲で考えられる、「継続的な被曝」については、この図でもわからないということになる。なぜなら原爆による被曝は「一瞬の爆発」による被曝なのだから。そこで図1の三つ目のポイント、

・「バックグラウンド線量率の高い地域での有意な発がんリスク向上は確認されていない。

(ただし、染色体の変化は確認されている)

の意味が重要になるわけだ。「バックグラウンド線量率」とは、正確には私もわからないが、backgroundという英単語の意味から推測して、「背景として自然にある→継続的に受ける」と解釈して良かろう。すなわち、この文脈では「継続的に受ける放射線量率」となろう。

※一般的には、「自然界に存在するせいで自然と被曝する線量率」の意味らしい。

 

<図7>

この図だけでかくて申し訳ないが、これもこのブログで何回か貼った、放射線医学総合研究所HPにある図である。この図の右側で言う、インドのケララやブラジルのガラパリ、イランのラムサールのような地域が「バックグラウンド線量率の高い地域」ということであろう。そんなわけで、この文脈では「バックグラウンド線量率」の意味を、「継続して受ける被曝線量率」と推測するわけである。

図7と図1を総合すると、例えばイランのラムサールでは、「継続的な放射線による被曝が、最大で年間100mSvを超えるときがあっても、発がんリスクが有意に高くなっている現象は確認されていない」ということになる。武田邦彦教授は、それでも「国際機関が年間1mSv以内に!」と言っているのだから、それを守るべきだ!とブログで言い続けてらっしゃるのに対し、私は現実として、年間1mSv以内という範囲で考えると、対象範囲が広くなりすぎる割には、本当にリスクがあるのかどうか怪しいという理由で、年間100mSv以下という基準で良いだろうと「自己責任」で「自己判断」しているわけである。

そして、その私自身による自己判断は、放射線に関してやや厳しめの立場を取る北大の石川教授によっても、ある程度追認されるものとなっているということがわかったわけだ。

 

次は、武田教授も必死で警鐘を鳴らしている、「乳幼児の発がんリスク」についてである。石川教授が出した次の図がこれである。

 

<図8>

 

むーん。悩ましい。一点目は当然として、二点目

・「様々な見解をまとめると、発がんリスクは、20mSvの被曝で年間1万人あたり0.03~0.26例

という数字の解釈が極めて悩ましい。

例えば、根本的な疑問として、「乳幼児」は何歳までの子どものことを指しているのか。校庭の土削りで問題になっている、小学生は「乳幼児」側に入るのか、入らないのか。

次に、これは「年間」なので、「10年間」で考えると、「1万人あたり0.3~2.6例」となる。これを多いと考えるか、少ないと考えるか。

さらに、さっき焦点になっていた「年間100mSvの場合」についてのデータがないということ。すなわち

・データがないから「危険」と考えるか、

・データがないから「安全」と考えるか

の違いも出てくる。

 

そこでとりあえず「年間20mSvの被曝」で考えていこう。これによる、「年間一万人あたり0.03~0.26例」の発がんがどのくらい多いか少ないか、自分で比べるためのデータを作ってみた。

・2008年の人口 1億3000万人(意外とぐぐっても出てこないのでこのくらい)

・2008年の交通事故死者数 4914人

割り算→「交通事故による死者は、年間1万人あたり0.378人」となる。

さっきのまとめだと、

・「様々な見解をまとめると、発がんリスクは、年間20mSvの被曝で年間1万人あたり0.03~0.26例

むーん。交通事故で死ぬ確率より、少し低いか、一桁低いくらいなわけか・・・。なら、乳幼児も含めて、危険性はそんなにないと考えて良いと私なら判断するなあ。

 

しかし、しつこいが、これは「年間20mSvの被曝」の計算であるから、内部被曝と外部被曝を合わせなければならない。「外部被曝線量を年間20mSv」と定めると、それに伴う内部被曝の可能性も含め、実質的には最大で年間100mSv弱の被曝線量となる(by武田邦彦理論)。そういう場合のデータを、石川教授は示してくれなかったのだ。(イランのラムサールなどの場合は、あくまでも自然放射線による被曝であり、どのような頻度・密度で被曝するかに関して、原発の場合と大きく異なるかも知れない。そういう意味での「リスク」は、排除できないからだ。)

 

 


 

 

長々と書いてきたが、北大の石川教授は、

「このようなデータを基に、各自が安全か危険かを判断して行動するのが良いのではないか」

と言いかけて、期せずして「迷える一般主婦」の代表のようになっていた荻原博子や香山リカらに

「そんなのわからないわよ~~!!」

と否定され、CMに入り、CMが明けたら別のテーマに入ってしまい、二度とこのテーマに戻ることはなかった。荻原はいつものことだからいいとして(笑)、香山よ、お前は医者じゃないのか?精神科医だって放射線科医だって、医師国家試験は一種類しかないんだぞ・・・(だから、自分が『何科』なのかは、自分で自由に作って名乗ることさえできる)。だから少なくとも香山リカは、この石川教授の説明そのものは理解できなければならないだろうに・・・。

 

 


 

放射線は目に見えないからこそ、パニックも風評被害も生む。しかし、石川教授があの小さな声で語っていたように、データを専門家から提供してもらった後は、

・自分で考え、

・自分で判断し、

・自己責任で行動する

ことが、例えば菅総理が言っていた「最小不幸社会」に近づく唯一の道だと私は考える(もちろん、外部被曝が年間20mSv以上になる場所からの強制避難はやむを得ないが)。特に、外部被曝が年間20mSv未満であるにもかかわらず、強制避難によって自分の牧場の牛を見殺しにしなければならなくなるなどの「社会的悲劇」とでも呼ぶべき状況も今問題になっている。それぞれの人が、どのくらい「その土地」と深く関わりながら生計を立て、生活しているかの度合いは、人によるとしか言いようがないのだ。そこに画一的な線を引けば、「自己責任制にしてくれればなんとか生活していける」という人の生計を奪いかねない。であれば、外部被曝が年間20mSv未満の地域の方々は、今こそ「自己判断、自己責任」を合い言葉に、上記のような「思考シミュレーション」などをヒントにしながら、その地域から避難するかどうかを各自が決めるのが、ベストではないにせよ、「最もワーストから遠い」選択になるものと私は考える。

 

大御所の方の石川氏も言っていた。

「その土地で残って農業をしたければ、その作物にどのくらい放射線が残っているかを調べることも、国の仕事として重要ですよ」と。

家族に乳幼児もおらず、今まで家族で農業をしていた人々が、自己判断で残って作物を作るのであれば、その地域の作物は一括して国が定価で買い上げ、放射線量を測定した上で処分するなどの政策が、もっともっと本気で検討されてしかるべきである。

 

その一方で、お子さんが多かったりとか、その地域でなくても働けるなどの事情を持つ家庭であれば、これを機に別の地域に引っ越して新たな生活を始める。その際の費用援助も、原発からの距離、または予想される外部被曝量に応じて東京電力が行うということも必要になるだろう。

そのせいで電気料金が上がるというのなら、私なら「第2東京電力を作る」ことを交換条件に、今までの生活水準を享受してきた責任として、その高くなった電気料金をしっかり払いたいと思っている。今でこそ原発は悪の権化のように叩かれているが、ここ数年は投機熱も手伝い、原油の価格が猛烈に上がったことを、読者諸君はよもや忘れたわけではあるまい。もし日本が原発を完全にやめていたら、数年前からの電気料金が、それこそ目が飛び出るほど高くなっていたかも知れない。そういう意味で、関東に住んでいる人々は、原発からの恩恵を、多少なりとも受けてきたのである。

 

話を本筋に戻そう。04年の日本人人質事件をきっかけに、主にサヨク陣営によって、徹底的に「自己責任否定」のアジテーションが繰り返されてきた。そのアジテーションがそこそこ功を奏しているからこそ、上記の荻原博子・香山リカペアのように、データを突きつけられても、

「そんなのわからないわよ~~!!」

などと脳天気に言えるのである。タイトルに書いた、「結局は人間をどういう存在として見るか」というフレーズは、

・人間を、「自ら考え、判断し、その範囲内において自分で責任を取る」存在として見るか、

・人間を、「権威が出す『結論』をただ信じ、その結果についての責任は取らない」存在として見るか

この違いで、原発事故(事件)の収拾のつけ方が、大きく変わってくるだろうということである。私は、小さな声だったが、北大の石川教授と同じ、前者の立場に立って放射線のリスクを考えていきたい。

 

 

余談になるが、サヨク陣営の「自己責任否定ムーブメント」は、中共をイメージしているように思えてならない。中国共産党幹部が出す「結論」をただ信じ、その結果については責任を取らない。だから中国人はバスに乗る時も列を作らない=公共心がないわけだし、「中国は言われているほど言論の自由がないわけではない!」と叫びながらも、誰もが中国共産党幹部が主張する通りのことしか言わないという現状と奇妙に符合する。少なくとも私は、そういう社会が望ましいとは全く考えない。

 

 



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