できるだけごまかさないで考えてみる-try to think as accurately as possible

さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

で、いつから鉢呂の問題が「言葉狩り」になったのかね?

2011-09-14 23:46:43 | Weblog

燃えかすに火をつけて騒ごうとする輩についてのその2である。その1はこちら

 

こちらの記事では、「新恭」という人が、BLOGOSに以下のように書いている。

 

マスコミの単純反射メカニズムが作り上げた鉢呂発言問題の顛末 (2011年09月12日13時56分)

すべては「死のまち」と表現したことからはじまった。「ゴーストタウン」と言っておけば、記者たちは記事にしなかっただろう。

9日午前の閣議後会見。鉢呂前経産相の発言はこうだったという。

   >福島第一原発周辺について。「市街地は人っ子一人いない、まさに『死のまち』という形だった」(朝日新聞より)

これを「市街地は人っ子一人いない。まさにゴーストタウンだった」とすれば何の問題もなかった。

鉢呂氏にすれば同じ意味のことを言っているのだが、すぐに適切な言葉が浮かばなかったのだろう。

ついこの間まで生き生きとした人々の暮らしがあった場所の、むなしい現実を目の当たりにし、そのときに感じた思いを記者たちに伝えたかったに違いない。

(まず引用ここまで)

 

 

>これを「市街地は人っ子一人いない。まさにゴーストタウンだった」とすれば何の問題もなかった。

ここからしてまずおかしい。鉢呂吉雄にとって、「死のまち」という言葉で伝えたかった状況と、「ゴーストタウン」という言葉で伝えたかった状況が同じなのかどうか、この人が勝手に忖度できるわけがない。

>鉢呂氏にすれば同じ意味のことを言っているのだが、

「意味が同じ」ということを、赤の他人が、本人に何の取材もなしに、一体どうすれば保証できるのか。この人が勝手に決めつけているだけである。

 

まさか鉢呂は「ゴーストタウン」という言葉を知らないわけではなかろう。だとすれば、「ゴーストタウン」という言葉では伝えられない「プラスアルファの意味」まで盛り込みたくてこの言葉を使ったと考える方がよほど自然である。

しかしこの人は、鉢呂をどうしても擁護したいらしく、「ゴーストタウン」も「死のまち」も、同じ意味のことを言っていると主張したいらしい。どれだけ必死なのか。

>ついこの間まで生き生きとした人々の暮らしがあった場所の、むなしい現実を目の当たりにし、そのときに感じた思いを記者たちに伝えたかったに違いない。

「ついこの間まで生き生きとした人々の暮らしがあった場所の、むなしい現実を目の当たりにし、そのときに感じた思い」が何なのか、記者会見などで突っ込まれたらそれを説明すればいいだけの話だ。

次の部分を引用する。

 

「死のまち」とはなにごとかと、全体の文脈とは離れた単眼思考が記者たちに広がりはじめる。やむなく故郷を離れざるをえなかった人々の、望郷の思いを断ち切るような冷酷な言い方であり、大臣の資質に欠けるのではないか。「死のまち」という言葉だけを切り取れば、たしかにそうだ。(引用ここまで)

 

『「死のまち」という言葉だけを切り取れば』という言葉づかいをすることで、あたかも、全体の文脈に照らせば、大臣の資質に欠ける発言ではないとでも言いたげのような言葉づかいである。しかし、この人自身が、文脈を大切にした発言の切り取り方をしていないという自己矛盾はどう説明するつもりなのだろう。さきほどの、朝日新聞からの彼の引用の仕方をもう一度見てみる。

>福島第一原発周辺について。「市街地は人っ子一人いない、まさに『死のまち』という形だった」(朝日新聞より)

・・・「文脈」とやらがあるのなら、その前後の発言を適切に引用するべきなのではないの?なのになぜこの人は、この部分の切り取りしかしていないのに、

>「死のまち」という言葉だけを切り取れば、たしかにそうだ。

などという、一人前の新聞記者のような言葉づかいをしたがるのか。まさに「口調だけジャーナリスト」の誕生である。BLOGOSはどうも、レベルが低い人を集めるのが好きらしい。

 

引用を続ける。

 

 

誰かがそれを問題にして書きそうな気配を見せると、特オチを恐れて記者クラブの全員が一斉に走り出す。それを受けて本社デスクはさっそく福島の住民や町長らの声を取材するように指示する。

話の全体を知らないで「死のまち、と言ったそうですがどう思いますか」と記者に問われれば、誰だって誘導のまま「それはひどい」と言うだろう。

野党にコメントを求めると、さらに騒ぎは拡大し、いつの間にか永田町を揺るがす大騒動となってゆく。

そんな状況で、火に油を注いだのは9日夕に放映されたフジテレビのニュース番組だった。

福島第一原発周辺を視察し8日午後11時半ごろ防災服のまま議員宿舎に戻った鉢呂氏は、待ちかまえていた記者約10人に囲まれた。そのときに鉢呂氏が見せた一瞬の言動をこう報じた。

「防災服の袖を取材記者の服になすりつけて、『放射能を分けてやるよ』などと話した」

9日の「死のまち」発言で、前夜のことを思い出し、付け加えればさらに大きなニュースになると判断したのだろう。

翌日の朝刊に間に合うことから、新聞各社はこれを後追いした。ところが、フジが報道するまでどの記者もあまり気にとめていなかった言動のゆえか、翌日の記事は各紙に食い違いがみられた。

   >◇朝日新聞「記者団に『放射能をつけちゃうぞ』と発言していた」

   >◇毎日新聞「(記者に突然、服をなすりつけてきて)放射能をつけたぞ」

   >◇日経新聞「防災服の袖を記者に押しつけ『放射能を分けてやるよ』と冗談まじりに述べた」

   >◇読売新聞「防災服の袖を取材記者にくっつけるしぐさをし、『ほら、放射能』と語りかけていた」

   >◇産経新聞「記者に防災服の袖をすりつけるしぐさをし『放射能をうつしてやる』などと発言」

要するに、どの記者も明瞭に記憶している内容ではなさそうである。その証拠に、10日の辞任会見で、記者クラブ加盟紙の記者たちが次のような質問を鉢呂氏にしている。

産経新聞記者「非公式の場で防護服を、放射能をなすりつけた事に対して、本当にそういうことがあったのか、そのときのやり取りをもう少し詳しく」

朝日新聞記者「改めてお聞きします。非公式な場面での発言について、もう一度ご記憶にある範囲でどういうやり取りがあったかということと、そのやり取りについてどのように感じているのか」

鉢呂氏は明確に答えなかった。おそらくこの問題に一刻も早く幕を引きたかったからだろう。(引用ここまで)

 

 

>話の全体を知らないで「死のまち、と言ったそうですがどう思いますか」と記者に問われれば、誰だって誘導のまま「それはひどい」と言うだろう。

>野党にコメントを求めると、さらに騒ぎは拡大し、いつの間にか永田町を揺るがす大騒動となってゆく。

 

ここに、当の鉢呂吉雄という登場人物はどこにも出てこない。いくらこの人にとって、記者クラブの記者がゴミクズのような人間であっても(まあこの人が以前記者クラブの記者だったのではあるが)、裏を取らずに記事にすることは許されていない。大問題になるからだ。したがって、その発言がどういう文脈、意図でなされたのかを本人(鉢呂)や周囲に確認してから記事にする。映像がでるテレビ番組ではなおさらである。この人は、以前は記者クラブの記者であったにもかかわらず、そういう、記事にするときのイロハのイでさえも、平気で隠し、あたかも、記者クラブの記者が勝手にこの発言を拡大解釈し、

「永田町を揺るがす大騒動となってゆく」

などと表現している。

 

・・・そんなに軽く揺らぐ永田町なら、吹っ飛んでしまえばいいだけのことである。

 

 

>そんな状況で、火に油を注いだのは9日夕に放映されたフジテレビのニュース番組だった。

>福島第一原発周辺を視察し8日午後11時半ごろ防災服のまま議員宿舎に戻った鉢呂氏は、待ちかまえていた記者約10人に囲まれた。そのときに鉢呂氏が見せた一瞬の言動をこう報じた。

>「防災服の袖を取材記者の服になすりつけて、『放射能を分けてやるよ』などと話した」

>9日の「死のまち」発言で、前夜のことを思い出し、付け加えればさらに大きなニュースになると判断したのだろう。

 

ふむ。この人にとっては、記者クラブの記者が、裏とりもせずにこういう報道をしたと言いたいわけか。

 

 

>翌日の朝刊に間に合うことから、新聞各社はこれを後追いした。ところが、フジが報道するまでどの記者もあまり気にとめていなかった言動のゆえか、翌日の記事は各紙に食い違いがみられた。

   >>◇朝日新聞「記者団に『放射能をつけちゃうぞ』と発言していた」

   >>◇毎日新聞「(記者に突然、服をなすりつけてきて)放射能をつけたぞ」

   >>◇日経新聞「防災服の袖を記者に押しつけ『放射能を分けてやるよ』と冗談まじりに述べた」

   >>◇読売新聞「防災服の袖を取材記者にくっつけるしぐさをし、『ほら、放射能』と語りかけていた」

   >>◇産経新聞「記者に防災服の袖をすりつけるしぐさをし『放射能をうつしてやる』などと発言」

>要するに、どの記者も明瞭に記憶している内容ではなさそうである。その証拠に、10日の辞任会見で、記者クラブ加盟紙の記者たちが次のような質問を鉢呂氏にしている。

 

 

ここが一番おかしい。「放射能をつけちゃうぞ」という発言が問題になっていたのか?いつから、そういう「発言」が問題だという話になっているのだ?

問題は「しぐさ」である。防災服の袖を、記者になすりつけようとしたという「しぐさ」である。

発言も仕草も同じだと言うなかれ。この人は、問題がしぐさであるにもかかわらず、問題を発言レベルにすり替え、その発言の表現のしかたが新聞社各社によって違っていることを、

>要するに、どの記者も明瞭に記憶している内容ではなさそうである。

という言葉づかいをすることで、あたかも「この記事自体が信用できない」とはやし立てる。

 

・・・問題がしぐさであれば、発言に多少の違いが新聞社ごとに出てくるのは問題ない、というか当然のことである。なぜなら、そこが問題の焦点ではないからだ。

この人のやり口が下劣なのは、朝日新聞の引用部分がずれている点によく現れている。

>>◇朝日新聞「記者団に『放射能をつけちゃうぞ』と発言していた」

あたかも、朝日新聞だけは、防災服の袖をなすりつけるしぐさは報道していなかったかのような抜き出し方である。

しかし、当ブログですでに、朝日新聞の引用をしている。こちらの記事で。その引用記事にはこうある。

 

鉢呂氏「放射能つけちゃうぞ」 「死のまち」発言は陳謝(朝日さん 2011年9月10日1時30分)

 鉢呂吉雄経済産業相は9日夕の記者会見で、東京電力福島第一原子力発電所の周辺市町村について「死のまち」と表現した自らの発言を撤回し、陳謝した。この発言をめぐり、野田佳彦首相は同日、「不穏当な発言」として謝罪と訂正を指示。原発事故の被災地も反発している。

 また、鉢呂氏が8日夜、記者団に「放射能をつけちゃうぞ」と発言していたことも明らかになった。野田首相らとの福島県視察を終え、東京都内の衆院議員赤坂宿舎に帰宅した時のこと。この際、取り囲んだ記者の一人に、着ていた防災服をなすりつけるようなしぐさもしていた。

 鉢呂氏の「死のまち」発言が出たのは、9日午前の閣議後会見の冒頭。8日の福島県視察を取り上げ、原発周辺の状況を説明する中で「市街地は人っ子一人いない、まさに『死のまち』という形だった」と述べた。(ここまで)

 

このように、あの朝日さんでさえ、防災服をなすりつけるようなしぐさをしたことは、きっちりと報道している。にもかかわらず、この人には、この部分が見えていないらしい。実に不思議である。

 

ここまでをまとめると、鉢呂吉雄が、防災服の袖を記者になすりつけるようなしぐさをしたという点では、上の五つの新聞社の全てが共通に報道していることにはきれいに目をつぶるどころか、読者からも目を逸らさせるために、朝日新聞の引用部分をずらすことまでしながら、

>要するに、どの記者も明瞭に記憶している内容ではなさそうである。

と、記者が曖昧な記憶で記事を書いたことに必死でしたがっている。さらにこうも続ける。

 

 

>その証拠に、10日の辞任会見で、記者クラブ加盟紙の記者たちが次のような質問を鉢呂氏にしている。

>産経新聞記者「非公式の場で防護服を、放射能をなすりつけた事に対して、本当にそういうことがあったのか、そのときのやり取りをもう少し詳しく」

>朝日新聞記者「改めてお聞きします。非公式な場面での発言について、もう一度ご記憶にある範囲でどういうやり取りがあったかということと、そのやり取りについてどのように感じているのか」

>鉢呂氏は明確に答えなかった。おそらくこの問題に一刻も早く幕を引きたかったからだろう。

 

 

産経新聞の記者は、問題が発言ではなく、しぐさであることを明確にしている。だから、「非公式の場で防護服を、放射能をなすりつけた事に対して、本当にそういうことがあったのか」と聞いているのである。

朝日新聞の記者も、「そのやり取りについてどのように感じているのか」と、鉢呂自身による意味づけまで聞いている。

つまり、焦点は発言内容でもなければ、記者たちの記憶が曖昧だからこういう質問をしたわけでもない。他の記者たちもいる、いわば「公式の場」で、鉢呂の「しぐさ」や、そのしぐさや発言の「意味づけ」について、言葉を引き出すことで、その言葉に責任を持たせようとしているだけである。

にもかかわらず、この人は、産経や朝日さんがこういう質問をしたことをもって、「記者クラブの記者は曖昧な記憶で記事を書いている」という印象を読者に与えようと必死に言葉づかいを選んでいる。

読者をバカにするのもいい加減にしてほしいものだ。

 

>鉢呂氏は明確に答えなかった。おそらくこの問題に一刻も早く幕を引きたかったからだろう。

ここについては失笑するしかない。鉢呂が答えなかったのは、答えれば答えるほど、自分に不利なことを語らなければならないと自分で理解しているからしかありえなかろうに。

記者が曖昧な記憶だけを頼りにそんなことを聞いてきたのであれば、

「いや、私はそんなことはやっていませんよ。」

と、明確に否定すれば済むことだ。それがオフレコ懇の場であるならば、なおさら簡単にできるだろう。なぜなら、その場には、いわゆる「記者クラブの記者」しかいなかったのだから。

 

オフレコ懇の場でのできごとについて、鉢呂がそのしぐさについて否定できなかったということは、その否定できなかったという事実こそが、オフレコ懇の場でのできごとが事実であるという何よりの証拠である。

そんなことも理解できずに、この人は読者をミスリードすることに必死なわけである。

 

もう一度書いておこう。これが、「BLOGOS」の筆者陣とやらの「レベル」である。読者をバカにするのもいい加減にしてほしいものだ。

 

ここまでをその2とする。その3はこちら



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