神聖な場所から里山の麓道を通り「芳徳禅寺」へ。
この場所は寺が創建される前は石舟斎(宗厳)が居城の地で、
“かきあげ城”の名残りをとどめている。石舟斎が亡くなると、
その供養のため息子の宗矩が創建(1638年)。開山は宗矩と親
交の深かった沢庵和尚で、柳生家代々の菩提寺となる。
江戸が終わり廃藩になると、寺は荒れるに任せ廃寺の危機にさ
らされる。昭和元年に寺域の整備や建物の増築、剣聖会の結成な
ど復興に務め今日に至っている。
本堂の裏手の最奥に柳生家の墓所がある。少し高台になったと
ころに横幅十間、奥行き八間と広く約80基の墓石が整然と並ん
でいる。
拝座の先には1列目の間から一際大きな墓があり、これが宗矩
で柳生藩初代の立派なもの。その墓を囲むように手前の列の右側
に三厳(十兵衛)が、左側に宗冬の墓がある。新陰流開祖の宗厳
は2列目の中央にあった。
一度は訪れたい墓所だったので感激、深々と頭を垂れお参りさ
せて頂いた。
(奈良市柳生下町445)
この場所は寺が創建される前は石舟斎(宗厳)が居城の地で、
“かきあげ城”の名残りをとどめている。石舟斎が亡くなると、
その供養のため息子の宗矩が創建(1638年)。開山は宗矩と親
交の深かった沢庵和尚で、柳生家代々の菩提寺となる。
江戸が終わり廃藩になると、寺は荒れるに任せ廃寺の危機にさ
らされる。昭和元年に寺域の整備や建物の増築、剣聖会の結成な
ど復興に務め今日に至っている。
本堂の裏手の最奥に柳生家の墓所がある。少し高台になったと
ころに横幅十間、奥行き八間と広く約80基の墓石が整然と並ん
でいる。
拝座の先には1列目の間から一際大きな墓があり、これが宗矩
で柳生藩初代の立派なもの。その墓を囲むように手前の列の右側
に三厳(十兵衛)が、左側に宗冬の墓がある。新陰流開祖の宗厳
は2列目の中央にあった。
一度は訪れたい墓所だったので感激、深々と頭を垂れお参りさ
せて頂いた。
(奈良市柳生下町445)